その二 藤の宮の告白
紀乃は来たときとは逆方向に、渡殿を足早に突き進む。
きっと険しい顔をしていたのだろう。
腹が立つ。自分自身に無性に腹が立った。
宮は添い寝役の大任を耳にしてからいうもの、ただの一度だって嫌だとは言っていない。
この書付は宮が東宮に書かせたもの、絶対の確信がある。
あの子供らしい子供だった東宮が思い付くはずもない。
宮と東宮の歳の差は一つだが、それは誰もが新年を迎えれば一つ歳を数える、数え歳だからだ。生まれ月からしたら、
しかし、同じ歳の男女の子供なら、女の子のほうがずっと大人びている。
宮も堀川に引っ越すころには、お姉さんぶって東宮の着物を直してやったりしていた。「もう、仕方がないのだから」なんて何処かで聞いたことのある口調で、襟元を整え、帯を締め直す仕草は甲斐甲斐しくて可愛らしく、あの
わたしも同じことをしているのに、この反応の違いは何だと、その容姿の違いをよく嘆いたものだった。
あの宮にお願いされて、東宮が断るはずがない。可愛くて優しく世話を焼いてくれる宮は、東宮にとっては初恋の人だろう。
その宮の心が変わったのは、御内侍さまが亡くなってからの苦しい生活を経てからだと思う。
一人、また一人と使用人が減っていく毎日に、いつしか宮を一人にしている時間も多くなった。この文箱を覗き込む、宮の姿をよく見掛けるようになったのも、あの頃からだ。
たった一年ほどのことだったが、宮はあの生活のなかで自分の生立ちを知り、自分が誰かに頼らざる負えない身であることを知ったはずだ。口が裂けたって、東宮妃になりたいなどと言えるはずがない。
今になっても、自分は東宮に不釣り合いだと思っているのだろう。
紀乃は対の屋に帰り着くなり、挨拶もそこそこに御簾のなかに潜り込んだ。「宮っ!」と呼び掛けると、
その顔に、前置きもなく書付を突き付ける。
「これは何なの?」
藤の宮が懐かしい物を見るかのように、目を細めた。
「堀川に引っ越す、前の日に書いたのよ」
そして、うっすらと口元を緩めた。
「紀乃は新しい本に夢中で、まったく気が付かなかった。
わたくしたちは紀乃に隠れて、絵を書いたり、五目並べしたりしていたのよ。
こそこそっと半紙を渡して、楽しかった……」
「そんなことを聴きたいのじゃない!」
目元を険しく釣り上げ、藤の宮を見る。
「わたしが聴きたいのは、この書付のことよ」
藤の宮が書付けからそっと目を逸らす。
「そんな物、ただのイタズラ書きよ」そして、早口になって「もういいじゃない。紀乃だって反対して――」
紀乃は床をだーんと叩いて黙らせる。
掌がしびれ、じんわりと熱を持った痛みがひろがったが、奥歯をグッと噛みしめ、目に浮かびそうになる涙をこらえ、くぐもった声を漏らす。
「宮も東宮なんて、弟ぐらいにしか見てないと思っていたのよ!」
そして、藤の宮を見詰め、声を落とした。
「わたしがバカだった。
ちょっと頭がいいなんて言われて、すっかりのぼせ上がって。その実、周りのことなんて何一つわかってない。宮のことだって、こんなに長い時間、こんなに傍いたのに……。
だから、教えて欲しいの、宮の本心を」
それでも、藤の宮は紀乃の視線を避け続ける。
「――言えるわけ…ない……」
苦しそうに歪めた目から、涙が零れ落ちた。
「東宮には、朱鷺姫のような後見の確かな姫のほうがいいの。わたくしでは何もして――」
「頭中将は宮じゃなきゃ、ダメだって言ったわよ!」
紀乃は藤の宮の言葉を遮り、その頬にそっと手を添えてこちらを向かす。
長い睫毛が縁取った大きな目に、涙がゆらゆらと揺れる。
「宮はね、ただ傍にいるだけで東宮のためになる姫なんだって」
そして、フッと微笑んで見せた。
「何が出来るか、出来ないかなんて、なってから考えなさいよ。結婚生活なんて、飽き飽きするほど長いのだから」
藤の宮は声もなく、唇を震わせた。
紀乃は自分の姿を映し出す、黒曜石のような瞳をじっと覗き込んで問いかける。
「宮は添い寝役になりたいの?」
「…なりたい……」
震えた微かな声だが、はっきりと答えた。
「東宮の結婚なんて全部が全部、すべてが政略結婚。『一生涯、宮だけを』ってわけには行かないわよ。
――それでもいい?」
藤の宮はコクリッと頷いた。
「それでも、御傍にいられるもの……」
その身を案じて、眠れぬ夜を過ごしたのだ。少しでも、傍に居たいと思うのも当然だろう。
「これだけ無礼を働いた、わたしが簡単に許されるはずがない。宮中に行くのは、宮だけになるかもしれないわよ。
――それでもいいわね?」
「――紀乃……」
涙をぽろぽろと零し、藤の宮は声も無く泣いた。
こんな愚か者との別れを惜しんで泣いてくれるなんて、まったく働き甲斐のある娘だ。
紀乃は藤の宮の頭を優しく撫でる。
「ちょっと出掛けてくる。いい子にしているのよ」
そう言い置いて、書付を文箱にしまい、「これ、借りていくわね」と言って座を立った。
「どこへ行くの?」
藤の宮の心配そうに見上げる顔に、紀乃は微笑んだ。
「自分の仕出かした不始末を、取り返してくるわ」
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