その二 藤の宮の告白

 紀乃は来たときとは逆方向に、渡殿を足早に突き進む。

 きっと険しい顔をしていたのだろう。

ほうき雑巾ぞうきんを手にした掃部かんもりの下女たちが飛び退さるように道をあけ、紀乃の姿を認めた同僚の女房たちが話を聞こうと局から足を踏み出した途端に凍り付いたように固まる。

 腹が立つ。自分自身に無性に腹が立った。

 宮は添い寝役の大任を耳にしてからいうもの、ただの一度だって嫌だとは言っていない。




 この書付は宮が東宮に書かせたもの、絶対の確信がある。

 あの子供らしい子供だった東宮が思い付くはずもない。

 宮と東宮の歳の差は一つだが、それは誰もが新年を迎えれば一つ歳を数える、数え歳だからだ。生まれ月からしたら、霜月しもつき生まれの宮と、卯月うげつ生まれの東宮は半年も離れていない。

 しかし、同じ歳の男女の子供なら、女の子のほうがずっと大人びている。

 宮も堀川に引っ越すころには、お姉さんぶって東宮の着物を直してやったりしていた。「もう、仕方がないのだから」なんて何処かで聞いたことのある口調で、襟元を整え、帯を締め直す仕草は甲斐甲斐しくて可愛らしく、あの口煩くちうるさい東宮付きの女房たちが微笑んで見守っていたほどだ。

 わたしも同じことをしているのに、この反応の違いは何だと、その容姿の違いをよく嘆いたものだった。

 あの宮にお願いされて、東宮が断るはずがない。可愛くて優しく世話を焼いてくれる宮は、東宮にとっては初恋の人だろう。




 その宮の心が変わったのは、御内侍さまが亡くなってからの苦しい生活を経てからだと思う。

 一人、また一人と使用人が減っていく毎日に、いつしか宮を一人にしている時間も多くなった。この文箱を覗き込む、宮の姿をよく見掛けるようになったのも、あの頃からだ。

 たった一年ほどのことだったが、宮はあの生活のなかで自分の生立ちを知り、自分が誰かに頼らざる負えない身であることを知ったはずだ。口が裂けたって、東宮妃になりたいなどと言えるはずがない。

 今になっても、自分は東宮に不釣り合いだと思っているのだろう。




 紀乃は対の屋に帰り着くなり、挨拶もそこそこに御簾のなかに潜り込んだ。「宮っ!」と呼び掛けると、しとみから外の景色をただぼーと見ていた藤の宮がのろのろと顔をこちらに向けた。

 その顔に、前置きもなく書付を突き付ける。

「これは何なの?」

 藤の宮が懐かしい物を見るかのように、目を細めた。

「堀川に引っ越す、前の日に書いたのよ」

 そして、うっすらと口元を緩めた。

「紀乃は新しい本に夢中で、まったく気が付かなかった。

 わたくしたちは紀乃に隠れて、絵を書いたり、五目並べしたりしていたのよ。

 こそこそっと半紙を渡して、楽しかった……」

「そんなことを聴きたいのじゃない!」

 目元を険しく釣り上げ、藤の宮を見る。

「わたしが聴きたいのは、この書付のことよ」

 藤の宮が書付けからそっと目を逸らす。

「そんな物、ただのイタズラ書きよ」そして、早口になって「もういいじゃない。紀乃だって反対して――」

 紀乃は床をだーんと叩いて黙らせる。




 掌がしびれ、じんわりと熱を持った痛みがひろがったが、奥歯をグッと噛みしめ、目に浮かびそうになる涙をこらえ、くぐもった声を漏らす。

「宮も東宮なんて、弟ぐらいにしか見てないと思っていたのよ!」

 そして、藤の宮を見詰め、声を落とした。

「わたしがバカだった。

 ちょっと頭がいいなんて言われて、すっかりのぼせ上がって。その実、周りのことなんて何一つわかってない。宮のことだって、こんなに長い時間、こんなに傍いたのに……。

 だから、教えて欲しいの、宮の本心を」

 それでも、藤の宮は紀乃の視線を避け続ける。

「――言えるわけ…ない……」

 苦しそうに歪めた目から、涙が零れ落ちた。

「東宮には、朱鷺姫のような後見の確かな姫のほうがいいの。わたくしでは何もして――」

「頭中将は宮じゃなきゃ、ダメだって言ったわよ!」




 紀乃は藤の宮の言葉を遮り、その頬にそっと手を添えてこちらを向かす。

 長い睫毛が縁取った大きな目に、涙がゆらゆらと揺れる。

「宮はね、ただ傍にいるだけで東宮のためになる姫なんだって」

 そして、フッと微笑んで見せた。

「何が出来るか、出来ないかなんて、なってから考えなさいよ。結婚生活なんて、飽き飽きするほど長いのだから」

 藤の宮は声もなく、唇を震わせた。

 紀乃は自分の姿を映し出す、黒曜石のような瞳をじっと覗き込んで問いかける。

「宮は添い寝役になりたいの?」

「…なりたい……」

 震えた微かな声だが、はっきりと答えた。

「東宮の結婚なんて全部が全部、すべてが政略結婚。『一生涯、宮だけを』ってわけには行かないわよ。

 ――それでもいい?」

 藤の宮はコクリッと頷いた。

「それでも、御傍にいられるもの……」

 その身を案じて、眠れぬ夜を過ごしたのだ。少しでも、傍に居たいと思うのも当然だろう。

「これだけ無礼を働いた、わたしが簡単に許されるはずがない。宮中に行くのは、宮だけになるかもしれないわよ。

――それでもいいわね?」

「――紀乃……」

 涙をぽろぽろと零し、藤の宮は声も無く泣いた。

 こんな愚か者との別れを惜しんで泣いてくれるなんて、まったく働き甲斐のある娘だ。

 紀乃は藤の宮の頭を優しく撫でる。

「ちょっと出掛けてくる。いい子にしているのよ」

 そう言い置いて、書付を文箱にしまい、「これ、借りていくわね」と言って座を立った。

「どこへ行くの?」

 藤の宮の心配そうに見上げる顔に、紀乃は微笑んだ。

「自分の仕出かした不始末を、取り返してくるわ」

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