その三 秘策

 紀乃は大急ぎで、東の対の屋に駆け込んだ。

 大夫の君の手を借りようと思ったのだが、そこはもぬけの空だった。

 いつもは用もなく、その辺をふらふらしているのに、怪我しているときくらい休みなさいよ!

 その場で地団駄を踏んで、一人で愚痴るが、そうもしていられない。

 頭中将は、「朝議が終了後、承香殿で歓迎の歌会と称する、評定が行われる」と言った。問題なのは、その朝議がいつ終了するのかだ。




 幼いころの宮中での生活をとっかえひっかえ思い浮かべてみるが、まったく記憶にない。

 だいたいにしてながみやさまは部屋住みの身、ぶっちゃけてしまえば居候いそうろうだったのだから、朝議とは無縁の生活をしていたのだろう。しかし、評定が終わってから着いたのでは、何の意味もない。

 出来れば評定のまえに、悪くとも評定の最中に辿り着かなくては!

 紀乃は顔をうつむけて考え込む。そのためだったら、思い付くこと、知る限りのこと、何でも利用してやる。




 しばらくの間、そのままの姿でじっとしていたが、ふと髪を振り上げた。

 早足でつぼねに戻り、大急ぎで文を書いた。

 礼紙らいしの墨が乾くのももどかしく、その文を持って東政所ひがしまんどころの家令の元へと急ぐ。

「大皇の宮さまの急ぎの御用よ」

 紀乃が文を差し出すと、家令は宛名を見て目を丸くした。

「おまえ、これは――」

 皆まで言わせず、紀乃は家令を睨みつける。

「伏せていた添い寝役の一件が邸中の誰もに知られている理由を、大皇の宮さまの御前で説明したくはないでしょ!」

「だけど、おまえ…会ってくれるかどうか……」

 それでもグズる家令に、

「俊さんは無事だったかと、紀乃が心配していると伝えてょうだい。必ず御言葉があるはずよ」

 紀乃が自信を持って言い切ると、曖昧模糊あいまいもことした顔で頷く家令を「早く、緊急よ!」と追い立て、早馬で使いに出す。

 その後ろ姿を見送り、紀乃は自分の局に駆け戻った。




 ひつをひっくり返し、自分の持っている装束しょうぞくのなかでも、いい物だけを選びだす。打ち袴に五つ衣、表着、唐衣からぎぬを風呂敷に放り込む。

 次いで、いま着ている装束の手直しだ。唐衣、表着を素早く脱いで、裳を解くと打ち袴を脱ぎ捨てる。袿を腰のところで丸めて壷折つぼおりにして帯でとめた。背中に流れる長い髪はうちぎのなかだ。

 虫垂むしだれれ衣の市女傘いちめがさを手に取れば、最近すっかり板についてしまった壷装束つぼしょうぞくの虫垂れ衣姿のできあがり。

 紀乃は文箱と風呂敷包みを手に取ると局をぐるっと見回し、慌てて文机に戻って承香殿しょうこうでんの中宮の書付を懐に押し込んだ。そして頭中将の立文たてぶみを手に、しばし逡巡。

 しかし装束の色目や何だに気を使い、思ったより時間を取った。もう中身の和歌を書き換えている時間なんてない。

 立て文を懐に託し込み、「常盤さん、ごめんなさい」心のなかで謝り、脱いだ衣装もそのままに、局を飛び出した。

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