その四 古狸と取引
「
紀乃は家令の話も終わらぬうちに、邸を後にする。東四足門を通り抜け、脇目も振らず、急ぎ足で道を上がった。
御所にほど近い場所とはいえ、ほんとうに来ているのだろうか?
通りの角から顔を覗かせてみれば、確かに牛車はそこに停まっていた。
きっと文を見て大急ぎで来たのだろう。従者と随身たちの息が上がっているのが遠目にもわかり、繋がれた牛が不機嫌にブモーと鳴いた。
紀乃はホッと胸を撫で下ろし、牛車に歩み寄った。
従者が
「何や、この文はっ!」
紀乃は文を拾い、平然と難波参議の対面に座を取った。そして、首を伸ばし、物見窓から外を覗く。
「どうやら俊さんは、うまく逃げおうせたみたいね」
難波参議が不機嫌に鼻を鳴らす。
「俊がそないなドジ踏むかっ」
「あの人、剣の腕は立つし、頭も切れそうだものね」
紀乃は難波参議に向き直り、にっこりと笑ってみせた。
「そんな人が昨夜の一件に、参議が関与している証拠なんて残すわけないじゃない」
難波参議は一瞬、呆けたように真顔に戻ったが、すぐに顔を紅くして怒鳴り散らす。
「冗談になるかっ! 女、子供とちごうて、わしは朝議も終わったばかりで忙しいんや」
その言葉に、紀乃は目を見開いて身を乗り出した。
「それでは、評定はこれからなのね?」
「それが、どないしたねん?」
難波参議が目を細め聞き返すが、紀乃はそれに応えずにフーと息を吐いて座り直した。
この
「参議の身なら牛車に乗ったまま、大門を通れる
「だったら、どないやねん?」
「取引しない? 宮中に行きたいの」
難波参議の眉間にしわが寄る。
「何しようちゅうねん?」
「宮を添い寝役に就けるのよ」
紀乃が静かに告げると、
「アホぬかせっ!」
難波参議が爆発した。
「誰に頼んどるか、わかって――」
「――だから、取引って言ったじゃない!」言葉を遮り、睨み返す。「それも、参議には損のない取引よ。聞くの、聞かないの、どっちよ?」
しばしの間、難波参議は歯をギリギリと噛みしめ、凄い顔で睨んでいたが、やがて何も言わずにプイッと顔を背けた。
無言を肯定と取り、紀乃は声を落とす。
「宮は何一つ知らない。わたしが何をしたのかも知らなければ、参議がどういう人物で、何をしているのかも。市で罠を仕掛けた張本人が参議だっていうのに、それさえ知らずに市で助けてくれた優しい人だと思って、恩に感じているほどよ」
紀乃は声を潜め、グッと身を乗り出した。
「もし宮が添い寝役になったら、わたしが何も話しさえしなければ、参議は左大臣派でただ一人、宮の入った殿舎に出入り自由」
「それが、どないや言うねんっ!この歳になって
堪らずに怒鳴り散らす難波参議の悪口雑言を、紀乃は右から左に聞き逃す。そして、ポツリと口を挟んだ。
「宮の御傍勤め筆頭は、あの絵式部よ」
難波参議の怒鳴り声がピタリと止まった。
紀乃はクスリと笑って、難波の参議を見詰める。
「そう、参議は左大臣派でただ一人、大皇の宮と直接交渉する窓口を手に入れるの」
そして、すうっと身を引き、座に治る。
「わたしが失敗したとしても、参議は別に困らないでしょ。今のまま、左大臣の使い走りを続ければいいのだから」
眉間にしわを寄せ、難波参議が紀乃を睨む。
きっと頭のなかを激しく回転させ、損得勘定しているのだろう。ふいに眉間の縦しわがグイッと深くなった。
「おまえが喋らんちゅう保証が、どこにあるねん?」
紀乃も負けずに眉間にしわを寄せ、難波の参議を睨み返す。
「そのときは、参議も宮に言い付けなさいよ」
主の文を書き換えるなんて、即刻クビにされても文句の言えない大罪だ。こんなことが表ざたになって広まれば、紀乃を雇おうとする奇特な主人など、二度と現れないだろう。
難波参議はそれでも何事か考えていたが、やがてプイッとそっぽを向いてボソリと呟いた。
「大門を通すだけやで」
「ええ、かまわないわ。そこからさきは自分で行くから」
紀乃はニッコリ笑って応えた。
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