その五 宮中に潜入
建物の影に隠れるように身を潜め、去りゆく牛車を見送る。
ここは御所の南に位置する
紀乃は
やはり門を守る役人たちには、参議という身分は絶大だった。牛車はなかを覗き込まれることもなく、第一関門の大門を難なく突破だ。しかし、怪しまれることのないよう、並足で歩む牛に牽かれた牛車はあまりにも遅く、評定が始まる前に到着するのは最早、絶望的と言っていい。
こうなったら評定の真っ最中に突入するしかない。
横目に伺える通りには、書類や荷を持つ役人たちが足早に行き交うのが見える。
紀乃は
真っ直ぐにまえを見据え、心持ち胸を張って。せかせかと見えぬよう、それでいてぐずぐずしているとは見えぬよう足を動かす。
これまで見てきた、
しばらく人波に合わせ、歩みを進めていると、前方に門が見えてきた――建礼門だ。
このさきが
紀乃は素早く左右に目を走らせた。
幼い日の記憶にあるように、門の両脇に帯刀した
紀乃は内心ほくそ笑んだ。大皇の宮のような高貴な身分の方が何を考え、何をするかなど想像するのにも難いが、同じ下っ端ともなれば、そんなもの手に取るようにだ。
人波に乗り、歩みを進めていると、小役人のまえに通行証を見せる人の列ができている。紀乃はその列の横を進み、歩みを緩めることもなく、門を素通りした。
二歩、三歩と行ったところで、背後から小役人の慌てた声が掛かる。
「そこな女房っ!」
さらに一歩、二歩進み、紀乃はさも意外そうに振り返った。
「わたしのことでしょうか?」
「おまえに決まっとるだろう!」
小役人の一人が足早に進み出て、紀乃のまえに立ち「通行証を出せ」と声を荒げる。
紀乃はツンッと顔を上げた。
「大皇の宮さまの急ぎの御用です」
それでわかっただろうとばかりに、紀乃は
「ちょっと待てっ!」
さらに呼び止める小役人の声に、紀乃は怪訝そうに振り返る。
「もしや、聞いてないのですか?」
小役人の顔に、初めて
始めの小役人は改めて紀乃を見て、居住まいを正す。
「
堅い声で物々しく言うが、威厳を取り繕うとしているのが見え見えだ。
紀乃は内心、フンッと鼻を鳴らして声を張り上げた。
「わたしが御用に出て、とうに一刻。お知らせは、すでに届いているはずです。現に大門では何事もなく、こうしてここに居るではないですか」
「そうは言われましても…」威厳が脆くも崩れ去る。「わたしどもはさきほど交代したばかりでして…前任からは何も……」
「承香殿さまの歌会は、すでに始まっているのですよ。もしや間に合わぬ、なんてことがあったら、どう責任を取る御積りなのです?」
「――ですが、わたしどもは御役目を全うしているだけでして……責任をとやかく言われましても……」
「このことは、必ずや大皇の宮さまに御伝えして、きつく御叱りして頂くようお願いします」
「そんな……」
小役人の顔が情けなく歪む。
その背後を透かし見れば、滞っている御門の通行を待つ者と、紀乃の声に何事かと足を止めた者たちで黒山の
そろそろ頃合いだろう。
「通行証ならここにっ!」
紀乃は懐から立て文を取り出すと、役人の顔に突き付けた。
「頭中将さまの裏書です。行列に長々と並び、余計な時間を取らぬようにという頭中将さまの御心遣いも、あなた方のせいですっかり台無しです」
小役人は呆けたようにマヌケ顔をさらしていたが、すぐにキッと眉が吊り上がった。「持ってるなら、早く見せればいいだろう!」と言いたいのだろうが、こっちにだって中身を見せられない理由があるのだ。
「これで文句はないのでしょっ」
紀乃のたたみ掛ける声に、小役人が伸ばしかけた手を止めた。
下っ端は揉め事を嫌う。この騒ぎに、後ろの人集りだ。早く仕事に戻って、自分の持ち時間をつつが無きよう終えたいに決まっている。これだけキンキン声を張り上げる分の悪い相手に、さらに「なかを改めさせろ」と言って火に油を注ぐようなことはしない。
紀乃の思ったとおりに、小役人は手を戻して厳めしい顔を作り、「どうぞお通りください」と言いかけたときだった。
「――おれが改める」
背後からの声に、紀乃はビクッと肩を上げた。
この声は――!
恐る恐る振り返ってみれば、やっばり……。
怪我した左腕を布で首から吊った、大夫の君だ。
あんたは衛門府ではなく、近衛だろ!
山ほどの文句を言ってやりたいが、背後の小役人は突っ立ったまま、黙ってこちらを注視している。いつもなら強く縄張りを主張するのだろうが、こんなとき下っ端のすることと言ったら…………都合のいい上役に、すべて丸投げするのだ。
「ほらっ、どうした?」
大夫の君が手を差し出す。
市女傘の
紀乃は文句をグググッと飲み込み、無言で睨みつけるが、大夫の君は催促するように手を上下する。
いつもの軽い調子で、ふざけているだけなのだろうが……。
こんなことなら難波参議を待たしてでも、中身を書き換えておくべきだった。
後悔しても、そんなもん何の役にも立たない。
紀乃はしぶしぶと文を差し出すと、大夫の君は
紀乃をチラリと
無言で背を向け、ぶっきらぼうに一言、
「――付いて来い」
紀乃を待つこともなく、歩き出した。
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