その六 承香殿の歌会①
早足に歩む大夫の君の背を、紀乃はときおり小走りになって追い駆ける。
気まずい沈黙がつづく。
こんなことなら、あのとき話しておけばよかった。いくら後悔したところで、やはり後悔なんて役立たずだ。
ちらちら見る大夫の君の背中は、不機嫌そのまま。
紀乃は瞬となってうつむいた。
いつもの軽い調子で話し掛けてくれたら、「それはね――」なんて気軽に説明できるかもしれないのに…………うんっ?
何で話さなきゃならないんだっ!
それらしき言葉を掛けられたこともなければ、将来を誓い合ったわけでもない。
そりゃ、約束はした。もしも島流しになったときには、一緒に行ってあげると。だけど、それはこの坊ちゃん育ちの大夫の君では、帯も満足に結べないだろうと思ったからだ。きっと身の回りのこともできず、苦労するだろうと。
そこには、変な下心があったわけではない。誤解されたら、こっちが迷惑だ。
別にわたしと頭中将がどう付き合っていようが、大夫の君には関係ないじゃない。
紀乃は頭を振り上げ、大夫の君の背に向けてべーと舌を出した。
どうせ向こうからは見えやしない。
ツンッと顔をまえに向けてみると、目のまえに建つのは
正面に十八段の大階段、右に
流石に貴人を護衛する
仁寿殿のよこを足早に通り過ぎると、緊張感がふつふつと沸きあがった。
紫宸殿に負けない壮麗さを誇る承香殿は、もう眼のまえ。今頃は評定の真っ最中だろう。そこに集う者たちは、実質的にこの国を動かしているのだ。
紀乃は両手で荷物をぎゅっと抱き、高鳴る心臓を押さえつけた。辺りにはまったく人気はない。思った通りに、人払いされているのだろう。紀乃は探るように辺りを見回した。
大夫の君は承香殿のよこの階段を使うつもりなのだろうが、この姿のままでは貴人のまえに出られない。
きょろきょろしながら後を追いていくと、さきに階段を上がった大夫の君がチラリと紀乃を
顎をしゃくって、紀乃を誘う。すぐ左手には、本殿の閉ざされた妻戸が見える。引き戸からなかを覗いてみると、壁際に
どうやら下っ端の女房たちが、控えの間に使っているものらしい。戸を閉めると薄暗くなるが、着付けには慣れている。ここで、充分だ。
紀乃はなかに入ると荷物を置いて、市女傘の顎紐を解いて床に放る。大夫の君はと見れば、閉めた戸のまえで、こちらに背を向けて立っている。「着替えるから、出て行ってよ」と言いたいが、こちらから話し掛けるのは癪にさわる。
背中を向けていることだし、まぁいいか……。
紀乃は後ろを向くと、腰帯を解いて
「おまえのことだから、評定でまた何かやろうとしているのだろう。だけどな、おれの位階じゃ、一緒に居てやれるのもここまでだ」
ふんっ、今さら優しいこと言ったって遅いんだからね!
つーんとして返事もしないで、着替えに集中する。あっという間に、白の
「――紀乃っ!」
突然、呼び名を呼ばれた。
その声が思いのほか近く、不審に思い、ふと顔を上げると――いきなり後ろから抱きしめられた。
紀乃は口から洩れそうになった悲鳴を、慌てて飲み込む。
こんなところで悲鳴を上げたら、本殿にまる聞こえだ。
身を
「三年だけ待っていろ。必ず奴に追いついてやる」
へぇっ! まぬけな声を発し、固まったまま数秒。やっと意味を理解して、ぼっと顔が熱くなった。
「あ…えぇぇ…その……」
口から漏れるのは意味のない音ばかり。まったく言葉にならない。
そうこうしているうちに、簀の子縁からしずしずと歩みを進める上品な足音だ。
紀乃は慌てて大夫の君の手を叩く。
「ひ、人が来る……」
大夫の君は最後に強く抱きしめると、紀乃から離れ、戸の前に戻った。
紀乃は身を固くして、聞き耳を立てる。
足音の主も、こちらの物音に気が付いたのだろう。しばし逡巡したようすで足を止めていたが、やがて元来た方へとしずしずと戻って行った。
おもわずホッと――一息吐いてる場合じゃない。
紀乃は慌てて着替えを再開した。赤い打ち
頭のなかは真っ白なのだが、寝ぼけ
――まずい……真っ直ぐ大夫の君の顔が見られない。
おたおたしていると、大夫の君が音も無く、すぅーと戸を開いた。
「行ってこい」
どぎまぎしながら、「うんっ」と頷く。
「いいか、おれはここにいる。何かあったら、大声で叫べ。かまわず乗り込んでやる」
口元でもごもごと「ありがとう」と呟き、大夫の君のよこを通って小部屋の外に出ると、背後で静かに戸が閉ざされた。
紀乃はふぅーと大きく息を吐く。
どうして、こうも自分の手に負えない人物ばかりなのだろう。頭を抱えてヘタリ込みたい気持ちを、ここは宮中だと事実で抑え込む。
そうだ、ここに来たのは宮のためだ。自分の未来も大変だが、今は宮の未来がさきだ。
ふいっと右手を見れば、すぐそこには本殿の妻戸がある。紀乃は足早に進み、妻戸のまえに立った。
緊張感なんて、驚きすぎて
紀乃は慌てて、その場で深く平伏する。
「皆さまに御覧いただきたい品があり、持参いたしました。是非に御覧ください」
ゆっくりと顔を上げると、すぐ近くから素っ頓狂な声が上がった。
「紀乃っ!」
チラリと壁際に目をやれば、控えている女房の列に大皇の宮さま付きの
とすると、大皇の宮は――。
紀乃は素早く殿舎を見回した。
奥に降ろされた
その御簾からすこし離れた位置に、三人、二人、四人の殿方が相対するように、二手に別れて向き合って座している。
右列の奥の人物は知っている。三条邸でたびたび目にしている右大臣だ。
すると、その前に座をとる、細面に切れ長の目をした人物が左大臣なのだろう。
まだ若い。大皇の宮とそれほど変わらないだろう。さきの左大臣がお爺ちゃんだったから、てっきりそれ相応の歳だと思っていたのだが、見た目だけなら右大臣とたいして変わらない。しかし、その身に
その横で人の良さそうな笑みを見せる、恰幅のいいオジさんが頭中将の伯父君、内大臣なのだろう。この三人が
どうやら役職順に並んでいるようだ。その手前の二人が大納言。目のまえの四人が中納言なのだろう。例外は、右大臣の右斜め後方に控えるように座している頭中将だ。
静まる殿舎に、紀乃の凛とした声が響く。
「この評定を一変するするやも知れぬ、この書状。どうか御回覧のうえ、議決に及びください」
何事かと、こちらに顔を向けていた手前の中納言、二人が眉根を寄せて気分を害したとばかりに紀乃を睨む。だけど、このくらいは想定内だ。
紀乃はその視線を真っ正面から受け止め、肩を上げて身構える。しかし、その視線のぶつかり合いを割るかのように、奥から大皇の宮の声が届いた。
「こちらに御持ちなさい」
弾かれたように御簾を振り返る中納言に、静かに言葉をつづける。
「双方、意見も出尽くし、これ以上は停滞するのみ。
されならば、この辺りで外よりの意見を取り入れ、新たな視点から見るのも良いことでしょう」
その声に内大臣が大きく頷き、おおらかな声でつづけた。
「わしも評定を一変させるという、その書状に興味がある。こちらに持ってきなさい」
ダメだと言われても、無理矢理にでも押し通るつつもりでいたので、あまりにも簡単に許しが出て、ちょっと拍子抜けだ。
しばしポカンとしていると、人のいい笑顔で内大臣に「どうした?」と問いかけられ、紀乃は慌てて文箱を手に簀の子縁を立って本殿に踏み入った。
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