その七 承香殿の歌会②
下手の右側に居並ぶ殿方の後ろを通り、右大臣の背後まで足早に歩む。
ここまで来てしまえば、
左手の上座に鋭い視線を光らせる大皇の宮、右手の
その背後に御付きの女房たちが並ぶが、絵式部が鬼の形相をして腰を浮かしかけているのを、大皇の宮が伸ばした右腕で制している。
紀乃は唾をゴクリと飲み、これも想定内、想定内だと何度も唱えて心を落ち着かせる。
視線をそうと逸らして、右手の承香殿の中宮に向かう。
まずはこいつを黙らせておかなければならない。ペラペラとよけいなことを喋られては迷惑だ。
紀乃はその場に膝を着くと手を床に、深々と頭を下げた。
「中宮さま、お久しゅうござりまする。紀乃にございます。幼きときは大変にお世話になり、今もこうして働いておれるのも、中宮さまの御教えがあるからこそと感謝の念に絶えません」
承香殿の中宮はそっぽを向いたまま返答しようともしないが、すぐ傍からは内大臣の朗らかな声だ。
「ほう、右大臣家のゆかりの者か?」
「――いいえ」紀乃は顔を上げて身体をずらし、内大臣へと向き直る。「わたしの母は藤の宮さまの
「久の宮殿か……」
言葉尻を濁す内大臣は、あの頃の久の宮家も知るところなのだろう。
それにもかまわず、紀乃は大きく頷く。
「ご存知の通り、あのころの宮中での久の宮さまの御立場は非常に微妙なもの。わたしども御仕えいたしていた者も、宮中の片隅にて密やかに暮らす日々にございました。
そのおりに特段に目をかけ、御教え頂いたのが中宮さまにございます」
「中宮殿にか――?」
さも意外そうに内大臣が呟く。
承香殿の中宮の性格は、内大臣もよく知るところなのだろう。しかし、紀乃は気付いた素振りも見せず微笑み返した。
「あれこれとなくお世話していただき、御指導いただいております。つい先日にも、このような書付をいただきました」
懐からチラリと承香殿の署名入りの書付を覗かせると、目の端にギョッとした表情で振り向く承香殿の中宮の姿だ。
紀乃は心の内でニヤリと笑いながらも、それを隠して真面目な顔で承香殿の中宮へと向き直る。
「されども、紀乃もすでに大人にございます。
いつまでも中宮さまの心を煩わせているかと思うと、心苦しいばかりにございますれば、どうかこれからは紀乃も
ゆっくりと頭を下げれば、背後から内大臣の声だ。
「幼いころから目を掛けたとあれば、幾つになろうと子供に思えるものだ。あれは危ない、これはだめだと、ついつい気を回してしまい、悪事から遠ざけようとしてしまう。
それが老婆心と言うものなのだろうが、我らも気を付けねばな」
背後からの
当人には、言葉の真意がよく伝わったようだ。
紀乃は見せつけるように書付を懐にたくし込み、大皇の宮へと膝を進めた。後方から御簾のまえに進み出たのは絵式部だ。
御傍勤め筆頭なのだから、他の者に任せておけばいいのに……。
しぶしぶと紀乃は御簾を薄く上げ、その隙間から文箱を差し入れると、絵式部にぐいっと睨まれた。
「何のつもりです?」
小声の質問に答えず、紀乃は絵式部の目を真っ直ぐに見詰め返す。
「宮が大切に持っていたものです。どうか大皇の宮さまに」
絵式部は探るように目を覗き込んできたが、すぐに文箱を手に大皇の宮へと
大皇の宮が文箱の蓋を開け、なかの書状を手に取った。
一読して、その目がすうぅと細くなる。さらに二度、三度と細部を確かめるように読み返す。そして、紀乃に視線を向け、書状をわずかに上げて示し、微かに小首を傾けた。書状の真贋を聞いているのだろう。
紀乃は力強くコクリと頷いて見せる。すると、視線で左大臣の左後方、頭中将と離れて相対する位置を示された。
そこに控えていろとの御内意だ。
紀乃がそちらへと膝を進め、まえに向き直ると、扇を広げて芝居掛かった調子で承香殿の中宮に顔を向ける。
「あなたも、これを見るのは初めてでしょう?」
大皇の宮に話しかけられて、無視するわけにはいかない。承香殿の中宮はおどおどしたようすで書状を覗き込み、目を見開いた。
「これは、東宮――!」
あまりの驚きに、絶句して言葉を無くす。
大皇の宮は口元に浮かんだ笑みを扇で隠すと、背後へと書状を差し出した。
「わたくしたちだけで見ていても、仕方ないですね」
進み出た絵式部が書状を受け取り、御簾のまえへと運ぶ。
書状を目にしたはずなのに、眉ひとつ動かさないのは流石だ。しかし、目線で紀乃を指名し、御簾の下から書状を差し出しながら囁く声は早口だった。
「いつ書いたものです?」
「堀川に引っ越す前日、二人で書いたと!」そして、慌てて付け足す。「二人の御心は、今も書状のままに」
絵式部は小さく頷いて膝を返して戻る途中、大皇の宮の傍らで足を止め、その耳元で紀乃の言葉を囁く。
紀乃はその姿を尻目に左大臣へと向き直り、膝のまえに書状を差し置いた。
左大臣は無表情で書状を見下ろし、
一方で、相対する右大臣は書状を手に取り、一読してニヤリと口元を緩めた。その目を左大臣に向け、その姿を目に映しながら内大臣に書状を手渡した。してやったりという表情だ。
「どれどれ……」
内大臣はしげしげと書状を覗き込み、「これはこれは、ふぅーむ……」と唸り声を上げながら、上に下に裏までも丹念に調べて上げ、隣の大納言に手渡して胸のまえで腕を組み考えに
書状が手から手に、殿方に回されて行く。その反応を見ていれば、誰がどちらの派閥に属しているのかは一目瞭然だ。
最後に、右大臣の斜め後方に控えていた頭中将の手にへと書状は運ばれた。頭中将は書状から顔を上げ、座に戻った紀乃へと目を向けて、口元に浮かんだ笑みを扇の影にと隠す。
最初に、殿舎の沈黙をやぶるかのように声を上げたのは、先ほど紀乃を睨んだ下座に付く中納言のうちの一人だ。
「その書状は、本物――!」
さっと顔を向けた左大臣に睨まれ、途中で言葉を無くす。しかし、落ち着いた声で大皇の宮が言葉を継いだ。
「書状の真贋を問うのなれば、この場に本人を招き、直接問えば済むこと。違いますか?」
「それには及ぶこともないでしょう」左大臣が静かに返した。「母親たる中宮殿が認めた物なら、真贋に問題はない」
「なればこそ、その書状の真意を本人に問い質してはいかがです」
「添い寝役の大任に、本人の好悪の情が問われるとは初耳です」
「わたくしは身分もわからぬ幼い子供が書いたものだからこそ、純粋で尊いものだと思いますが」
「この場は、いつから恋物語を語る評定になったのです」
未だ帝位に非ずとも、東宮の口から発せられた言葉は取り返しがつかない。
何としてもこの場に東宮を招きたい大皇の宮と、それを阻止したい左大臣の攻防だ。
二人の間を割るように、下座の中納言が口を挟んだ。先ほどの失点を取り返そうとしているのか、やたらと声に力がこもっている。
「その書状には証明できる署名もなければ、証人もいない。子供のイタズラ書きではないのですか。
わたしには、今も二人が心を通わせているとは、
殿舎が張り詰めた沈黙に包まれた。
やはり中納言にまで登り詰めた男だ。痛いところを突いてくる。紀乃は二人が約束を交わした、さも重要なものと見せるために書状で通してきたが、既存の書程を踏んでいない書状は、単なる書付、イタズラ書きと取られてもおかしくない。
密度の濃い静寂を破るように、澄んだ高い声が殿舎に流れた。
かぜに舞う 空に旅する ほとどぎす 翔ける翼は 藤の花房
ふと顔を上げると扇のうえから目を覗かせ、頭中将が目線で紀乃を促している。紀乃は扇を口元に引き上げ、返歌を返した。
霞立つ 春日にふるえる 花房の 咲くは遠きし 朝陽みるまで
集中する視線に、頭中将はにこやかな笑みをみせた。
「一応は歌会ですから、このへんで歌の一首でもと思ったのですが……」
冗談めかした余裕の笑みに、内大臣が驚きを隠せない震える声で問いかけた。
「そ、その歌は……」
頭中将はすぅーと笑みを消すと、いつもの眉根を寄せた厳めしい顔で向き直った。
「わたしが東宮の和歌の相談に乗る者なら、そこもとに控える女房は紀氏の流れを汲む、藤の宮さまの和歌の
居並ぶ面々が一様に納得して頷くなか、下座の中納言だけがぶるぶると肩を震わせた。一度ならずとも、二度までの失態だ。このままでは、その座も危ういのだろう。
中納言が座を蹴るように立ち上がる。
「たかが和歌の一首、それがどうしたと言うのだ!」
その声は上ずり、叫びにも近い。
頭中将がじっと中納言を見返した。
「一首だけだと御思いですか?」
姿勢を正し、口元に引き寄せた扇のうえから紀乃に視線を向ける。しかし、紀乃の知る限り、恋歌のやり取りはあれ一度きりなのだが……。
頭中将の目が妖しく輝いている。
―――まさか、即興っ!
紀乃は息を飲み、頭中将を見返した。
その瞳に揺るぎはない。大きく息を吐き、扇を口元に引き寄せると、頭中将は薄く目を閉じて高らかに詠じた。
天の原
零れる蛍の
我が胸のうち
きみに届けよ
夏の歌だ。恋心を真っすぐ読む歌に、壁際に並ぶ若い女房たちがざわついた。
紀乃は目を閉じ、ややうつむきぎみになって返歌を詠じる。
蛍火と
水面で
朧月
吹きゆく風に
散りに消えにし
叶わぬ恋の儚さを、女性的に、婉曲的に返した歌に女房達から感嘆の声が漏れた。
宮中でも注目を浴びる貴公子の恋歌に舞い上がり、紀乃の返歌にまるで我がことのように酔いしれている。しかし、紀乃は額に汗を浮かべ、目を固く閉じる。
宮の未来のためにも、頭中将の名誉のためにも、下手な歌は詠めない。
秋風に
雲にかくれし
月影の
朧のつきは
だれを照らさむ
春、夏と来て、秋の歌だ。秋はその音から
紀乃は一拍の間に、返歌で応じる。
舞い散るかぜを
秋を写すは
心寂しく
飽きてしまわれたのは、あなたなのではないですか。
紀乃は静かに問い返す。
壁際に並んだ女房たちが一様にあられもない声を上げ、扇で顔を隠した。
紀乃は眉間にしわを寄せ、騒音に負けじと歌を聞き取ろうと耳を澄ます。一音たりとも聞き逃すことはできない。季節から言っても、次が最後になるだろう。
締めは、冬の歌だ。
吹きすさむ
白き野に出で
仰ぎみる
朧の月を
天に探さむ
恋する人を求める心を、直接的に、男性的に読み上げた歌だ。
壁際から「いやー!」と叫ぶ声が上がる。すっかりその気だ。その目が期待を込めて、こちらを向けられた。
紀乃は緊張感をグッと堪え、返歌を詠じる。
かえりみて
長き旅路の
雪の原
春の藤棚
振り返ってください。あなた色に染まった、わたしが居るはずです。
悲鳴にも近い、叫び声に包まれた。
紀乃はほっと息を吐き、顔を上げる。
その目に映ったものは、こちらを向く、顔、顔、顔。
―――はたと、気付いた!
東宮と宮の名を借りたとは言え、大勢の面前で好きだと言ったり、拗ねて見せたり、挙句の果てはわたしはあなたのものよと……カァーと顔に血が駆け登り、耳まで火照って真っ赤に染まった。
頭中将はまんざらでもないようすで見返してくるが、紀乃は身体を縮こませ、あたふたと顔を扇で隠した。
すると、殿舎の入り口から声が掛かった。
「ずいぶんと楽しそうだね」
壁際から「御上よ……っ!」との囁き声が上がり、次々と叩頭して行く。
紀乃も慌ててそれに倣う。
「私的な場だ。構わぬ、面を上げよ」
殿舎に響く御声掛かりに、恐る恐る顔を上げてみれば、にこやかに
「皆の華やいだ声が、清涼殿の端まで聞こえていたよ。何があったの?」
一同を代表して、母親である大皇の宮が応える。
「皆で、和歌を聞いていたのですよ。あなたもここに来て座りなさいな」
御上は
今上帝という思い込みからか、所作の一つひとつが上品に見えるから不思議だ。私的な場ということで上座は母に譲り、左大臣の左側の御簾のまえ、紀乃の斜めまえに優雅に座を取った。
「それで、何の和歌なの?」
御上の問いかけに、頭中将が膝を進めてまえに出た。
「まずはこれを御覧ください」
差し出されたのは、紀乃の持ってきた宮の書状だ。
御上は書状を手に取ると、
「――これは、東宮の……」
と一言漏らして、そのまま書状に見入った。
しばし書状に見入っていると、御簾の下から一枚の
「こちらも御覧なさいな」
大皇の宮の御声に、御上は陸奥紙を手に取った。
どこにでも準備のいい人はいるものである。きっと御簾のなかに持ち込んだ筆と墨で、耳にしたばかりの和歌を書き留めていたのだろう。
紀乃が斜め後ろから陸奥紙を覗き見れば、まだ墨も乾かぬ黒々とした文字で、頭中将の和歌と紀乃の返歌が交互に並んでいる。
御上はしばらく無言で和歌に見入っていた。
「ねぇ、左大臣。二人の仲を許してはくれまいか?」
おもむろに口を開き、ゆっくりと顔を向ける。
「これほどまでに想いを交わす二人を引き裂いたとあったら、わたしは末代まで『酷い父帝よ』と噂されそうだ」
左大臣は無表情で御上を見詰めていたが、やがて静かに頭を下げた。
「御言葉のままに――」
御上はぱっと笑顔を見せた。
「そう、ありがとう」そして、他の者へと目を向けて問いかける。「皆はどだろう?」
御上と左大臣が下した決定だ。殿舎に声が上がることはない。御上はにこにこと皆を見回し、小さく頷いた。
「それでは藤の宮の後見役なのだが……。藤の宮はいま何処にいるの?」
右大臣が膝を進めてまえに出る。
「わたしめの邸にて、娘たちの姉代わりに日々を過ごしております」
「それでは、右大臣が後見役ということで異存はないと思うが、どうだろうか?」
御上の声は、沈黙を持って了承された。
固唾を飲んで見守っていた紀乃は、ほっと息を吐いて笑みを零した。
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