その八 大空に飛び立つ

 紀乃は宮中の長い簀の子縁を、絵式部に小耳を引っ張られて歩いていた。

 絵式部のそろそろ愚痴めいてきた御説教も、その速い足取りもまだまだ止まりそうもない。

「ちょっと目を離したら、あなたって娘はこんなところにまで忍び込んで!」

「そんな、猫みたいに――」

「猫の子のほうがまだましです!」

 ピシャリと遮られ、紀乃は慌てて首をすくめて口をつぐんだ。

 いつもなら右から左に聞き逃すお説教も、今に限っては聞いてないと判断されれば容赦なく小耳を引っ張られ、返事したらしたでこれだ。

 まったく、トホホである……。




「だからわたしは、あなたみたいな娘は荒縄で縛りつけて、納戸なんどにでも閉じ込めておくようにと御進言申し上げたっていうのに、あなたのことになると宮さまったら……」

「大皇の宮さまがそんな酷いことするわけが――」

 横目でギロリと睨まれ、紀乃はつづきの言葉を飲み込んだ。

「宮さまが、何も御存知ないとでも思っているのですか?」

 絵式部はまえに視線を戻すと、さきを急ぐ。

「昨夜のことです。ある女房があまりの心の重荷に耐えかねて、宮さまの元へ相談に見えました。

 それは見事な反物を、持っていましたっけねぇぇぇ」

 わざとらしく語尾を伸ばすと、紀乃の小耳をグイッと引っ張る。

 ――イッタタタタ……。

 目に涙を浮かべた紀乃を尻目に、絵式部はフンッと鼻を鳴らした。

「あの人は播磨はりまでも、有名な社を持つ神官の娘。あの人自身も宮中に出仕するまえは、神前で姫巫女ひめみことして舞を奉納していたはずです。その人がそんな大それたこと、出来ようはずもないでしょ!」

 そして、絵式部は小声になり、「あなたがあの方に目を付けたのは、誉めてあげます」と、まったく称賛したとは思えない口調でつづけた。

「されども、宮さまがあの方を野放しにしているとでも、思っていたのですか?

 あの方の周りを固めている女房たちは、すべて同じような者たち。あなたの計略など、和歌を送った時点からすべて筒抜けです」

 紀乃は涙目で絵式部の顔を凝視しながら、もごもごと口を開く。

「―――で……でも、承香殿しょうこうでんはあの場に平気な顔して!」

「ここは宮中ですよ。口を慎みなさい」

 絵式部は小声で注意を与え、思い出したように顔をしかめた。

「あの方でしたら計略が露見したとわかったとたん、今朝一番に御本人自らが謝罪に見えました。

 そりゃもう、はたから見ている方が恥ずかしくなるほどの泣きの涙でしたよ」

 それでは、あの視線を逸らしてそっぽを向いていたのも、無口だったのも、自分だけがさっさと裏切ったのでバツが悪かっただけかっ!

 ―――ぢぐしょう……。

 紀乃は口先で呪詛の言葉を吐き捨てる。

 どういう人物だか知っているつもりでいたが、さらに性悪に磨きが掛かっていたとは見縊みくびっていた。今ごろは評定も終わって一安心。のんびりしている事だろう。

 それに比べ、わたしはどうだ。牛車の牛みたいに小耳を牽かれ、耳が痛いのもあるが、ここは格殿社からの渡り廊下に繋がる南北に伸びた簀の子縁、人通りも多くて凄く恥ずかしいのだぞ。

 また一人、事情を知らない何処どこかの女房が驚きに目を丸くしたと思ったら、口元に浮かんだ笑みをうちぎの袖で隠して行き過ぎる。




 紀乃は顔を隠すようにうつむき、涙目でうったえた。

「偶然とはいえ、御上おかみが御臨席されて丸く納まったのだから、もういいじゃないですか……」

 紀乃の泣き言に、絵式部は白い目を向けた。

「あなたは今時分、御上がヒマを持て余して、その辺をうろうろしていると本気で信じていたのですか?」

 そう言われてみて、ふと思い出す。

 あの着替えの最中、大夫の君の腕のなかで聞いた上品な足音は御上のものと似ている。そして、声を掛けることもなく開かれた承香殿の妻戸は、まるで誰かを待っていたかのようだった。まさか……。

 絵式部は呆れたように息を吐いた。

「双方ともに意見を引くことなく対立、評定が決裂することなど、やるまでもなく予想されていました。されど、宮さまが多数決などという、不確かなものに頼るはずもないでしょ。

 初めから御上が御臨席され、御聖断が下される筋書きになっていたのです」

 紀乃はポカンと口を開けた。

 御聖断といえば、最後の奥の手、必殺技だ。

御上御自身が下された判断に、異議を唱えられる者などいるはずがない。しかしだ……。

「そんなことしたら、後々が大変なのでは?」

 御聖断とは、諸刃の剣。

 左大臣だろうが、右大臣だろうが、太政官に属する者たちは御上が任命された者たち。その頭を飛び越え、御上御自身が判断を下すとなれば、その者たちを信用していないということの現われ。

 つまりは、なぜ信用も出来ない人物を、任命したのかが問われることになる。

 だからこそ、そのような事がないよう、御上の意向を近臣の者がそれとなく伝える、御内意ごないいなどという遠回しの手段があるのだ。

 絵式部は重々しく頷いた。

「今後はあらゆることに譲歩を迫られ、その進退をも問われることになったでしょう。

 されども宮さまは、次代の安定こそが宮中の安定。牽いては、国家の安定に繋がるとお考えになられたのです」

 そして、紀乃を小バカにしたように鼻を鳴らしてつづけた。

「今回の評定に、宮さまは御上の退位も持さずの御考えで臨まれていたのです。あなたごときの甘い考えで、どうにかなるものですか!」

 そりゃあ、何処のどいつが自分の息子を退位させてまで、自分の意見を押し通すと予想するんだ。

 紀乃は不満顔で、とぼとぼと絵式部の背後を歩む。




 その足さきは、てっきり大皇の宮が入っている殿舎に行くのだろうと思っていたのだが、右に折れれば梨壷なしつぼ桐壺きりつぼ、左に行けば藤壺ふじつぼ梅壷うめつぼ雷鳴壷らいめいつぼという、四つ辻を真っ直ぐに行こうとしているのに、あれっ?と首を傾げた。

 このさきにも麗景殿れいけいでん弘徽殿こきでんといった殿舎はあるが、それぞれに女御方がお入りになっている。これはもしかして、北の玄輝門げんきもんに向っているのでは……?

 おずおずと身を縮込ませて訊ねてみる。

「これからどちらに?」

「三条邸に帰るのです!」

 と、ピシャリッと返された。

「ちょっと待ってください」紀乃は慌てて言い募る。「そりゃ届けにもない、わたしがいたのでは大皇の宮さまに御迷惑がかかるのでしょうが――」

 絵式部が簀の子縁をドシンッと踏み鳴らし、立ち止まった。

「宮さまが御心配なされているのは、あなたの身です!」

 厳しい目で振り返り、紀乃を睨みつける。

「確かに、あなたがあの書状を持って乱入したおかげで、御上が矢面に立たずに済みました。そのことには礼をいいましょう。

 されども、あの評定であわよくば添い寝役の大任を、悪くともそれと同等の譲歩を引き出そうとしていた左大臣派の目論見もくろみを、あなたは根底からぶち壊したのです。

 今度こたびの評定で、あなたはその身ひとつに左大臣派の恨みを一身に背負ったと思いなさい!」

 そして、絵式部は視線を逸らし、気分を落ち着けるように長く息を吐いた。

「このまま宮中においては、その身も危ゆい。早々に退出させ、ほとぼりが冷めるまで三条邸に留め置くように、とは宮さまの御言葉です」

 紀乃は驚きに目を見開き、静かにその顔をうつむけた。

 まったく何て情けないんだ……。

 あれだけ大口を叩いておきながら、掌のうえで転がされ、挙句の果てにはこの身の心配までされるなんて。

 そっと唇を噛む。

 悔しい……ただ、ただ悔しい。

 これが器の大きさの違いなのだろう。今はそれを認めるしかない。わたしは目のまえことしか見ず、何も考えていなかった。さきのことはすべて二の次、三の次。目のまえのことだけで、精一杯。次代までを見通し、熟慮を重ねていた大皇の宮とは、その差は歴然としている。

 だけど……それがどうしたって言うのだ!




 紀乃は昂然こうぜんと顔を上げた。

 そんなことは、初めからわかっていたことだ。

 大皇の宮は人の器を、大鷹に例えた。そして、時節の流れを風に。

 遥か天空を優雅に舞う大鷹を目指し、小さな羽根をじたばたと精一杯に羽ばたくのがわたしなのだ。

 今は、その背すら見えない。しかし、いかに小鳥であろうとも、もがいて足掻あがきつづければ、いつかはわたしにも。

 あの大皇の宮だって、生まれてきたときは雛鳥だったのだから!

 絵式部が小耳を引っ張り、さきを促す。

「さぁ、行きますよ」

 しかし、紀乃はピタリと足を止めた。

 多くの随身ずいじんたちに守られた三条邸に帰れば、確かに安全なのだろう。だけど、邸の奥に閉じ籠って何ができるのだ。

 紀乃は手近な高欄に手を掛ける。

「何のつもりです」

 絵式部のまなじりが吊り上がった。

「もう一度、大皇の宮さまにお会いします」

「冗談は帰ってから言いなさい」さらに小耳をむぎゅー!と引く。

 ここまで来るあいだに、何人と擦れ違ったと思うんだ。今さら恥も外聞もあるもんか!




 紀乃は高欄の支柱にしがみついた。

 絵式部が鬼の形相で、意地になって小耳をぐい~っと引っ張る。

「ほ、ほ……本当に千切れるっ!」

「それなら、その手を離しなさいっ!」

「絶対に嫌っ!」

「御礼の言葉なら、わたしから伝えてあげます!」

「自分で言いますっ!」」

「三条邸に居れば、いずれは御会いできる機会もありましょう!」

「いずれじゃ遅い……!」

 背後を通りかかった女房が驚きに目を丸くして、次いで噴き出した笑いを袖で隠し、足早に通り過ぎて行く。そしてまた一人、笑いを隠した女房が通り過ぎようとしたところで、慌てて端に寄って膝を着いて控えた。




 涙目で振り向けば、二人の女房が行列を先導しているのが見える。

 庭側の姿隠しの几帳きちょうを後ろからまえに、交互に運んでいる女房の一人はくだんの親友だった。

 大皇の宮の行列だ。

 先導役の女房が紀乃と絵式部の姿を観とめ、驚いたようすで足を止めた。背後に並ぶ者たちも、次々とそれに従い足を止めて行列がその場で止まる。

 貴人の行列を止めるなど、本来はあってはならないこと。御叱りどころでは済まないのだが、それはそこ大皇の宮。

 先導する女房たちを割って、後方から足早に姿を現したのは大皇の宮、御本人だ。

 その早足に付いて行けず、件の親友が几帳ごとコケた。しかし、そんなことにも目もくれず、先頭に立って二人を睨みつける。

「早々に退出するよう、命じたはずです」

 絵式部が改まったようすで向き直り、姿勢を正す。

 紀乃はそのスキを突いた。弛んだ手をするりと逃れ、絵式部の「――あっ!」という声を背後に残して一目散に簀の子縁を走り、大皇の宮のまえに滑り込むように手をついて頭を下げた。

「これまでの数々の御無礼、この通りひらに、平に謝ります」

 さらに深く頭を下げ、額を簀の子縁へと擦り着ける。

「是非とも、宮姫さまが宮中にお入りになります御一行にお加え頂きますよう、切に、切に御願いいたします」

 沈黙の時間が流れる。




 紀乃はその重さに耐えられなくなり、言葉を募る。

「半下仕事だろうが、下働きだろうが何でもします。ですから、どうか……どうか御願いします」

 やがて、大皇の宮の声が静かに響いた。

「面を上げなさい」

 そっと顔を上げると、大皇の宮の鋭い視線が紀乃の目を覗き込む。紀乃は真っ直ぐに、その視線を見返した。

「宮中なんて、欲と権力に取り付かれた亡者ばかりの伏魔殿ふくまでん。そんなところは、まっぴら御免だったのではないのですか?」

 素直に理由を話せば、大皇の宮はわかってくれるのだろう。しかし、この場はそんなものなど求められてはいない。

 大皇の宮が求めているものは、背後に控えている女房たち、皆を納得させられるだけの理由だ。

「そんな所だからこそ、宮を一人にさせられません」

 うまく切り返せたと思ったのだが、大皇の宮はプイッと視線を紀乃の背後に向けた。

「この娘を早く連れ出しなさい!」





 厳めしい声色に、絵式部が「畏まりました」と早口で応える。

 また謝罪すべきなのか、ここは取り敢えず逃げるか、一瞬の迷いのうちに背後からガシッと襟首を掴まれた。紀乃は愕然と大皇の宮の顔を見上げた。

「手筈は指示した通りに――」そして、大皇の宮はフッと口角を上げた。「思わぬ出来事に、人少なです。この娘をせいぜいこき使いなさい」

 茫然としてしまい、意味を理解するまでに時間が掛かった。しかし、じわじわとゆっくり紀乃の顔に笑みが浮かぶ。

 やはり大皇の宮は一枚も、二枚も上手だ。

「ありがと―――グェッ!」

 御礼の言葉も終わらぬうちに、背後から絵式部に襟首を引かれた。

 今度こそは抵抗することもなく、紀乃は子猫よろしく従う。

 襟首を持たれ、玄輝門に向かうため簀の子縁を左に折れるとき、紀乃が最後に目にしたのは、静かに微笑む大皇の宮の御姿だった。

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