終章 しかと問う 都の空の朧月 惑う我が道 いずれ照らさむ
終章 しかと問う
都の空の
朧月
惑う我が道
いずれ照らさむ
待ちに待った桜の花は、一迅の桃色の風のように過ぎ去った。
大皇の宮に忠実な絵式部の人使いの荒さといったら……三条邸の豪華絢爛に催された花の宴も、よく覚えていないほどだ。ただただ忙しく働く日々に気が付いたら、輝く新緑が日ごとに深みを増す季節に。
吉日が選ばれ、長々と荷車を連ねた牛車に乗り、紀乃は藤の宮と宮中に入った。
それから三日、満開に花開かせた藤棚が紫色の雨のように花弁を舞い散らす。
この夜、藤の宮は人妻となる。
灯心を短く切った灯台で、
すでに他の女房たちは退出し、残るは紀乃ひとり。御簾の降ろされた室の奥で
紀乃は藤の宮の手を取ると、両手で包んだ。
こんなとき物語では殿方にすべて任せていればいいのだが、東宮はと視線を向けて見ると……。
室の隅の薄暗がりに、背筋をピンッと伸ばしたまま正座して微動だにせず、膝の上で握りしめた拳に目を落としている。その顔が紅いのは、決して祝い酒だけではない。
こりゃダメだっ!
紀乃は長く息を吐いた。
「あんたのほうがお姉さんなんだから……」小声で言って、向き直る。「雰囲気が大切だって言うわよ」
では、どうやってと具体的に聞き返されると、それはそれで紀乃自身も困ってしまうのだが――何せ、紀乃にとっても未知の世界だ。しかし、藤の宮はそんな余裕もなく、コクコクと頷く。
「――大丈夫っ!」藤の宮の手をぽんぽんと叩いて。「今日がダメなら、また明日。明日がダメなら、また明後日。時間ならいっぱいあるもの」
藤の宮はじーと紀乃を見詰め、コクリッと頷いて頬を緩めた。
紀乃はニッコリ笑い返す。
まだまだ話したいことはいっぱいあるが、あまりぐずぐずしてもいられない。最後に頭をひと撫でして、紀乃は藤の宮の元を離れた。
御簾の端からにじり出て、東宮に向かい丁寧に頭を下げる。
「藤の宮さま、御仕度整いましてございます」
頭を上げてみれば、東宮は口元でぼそぼそと何事か呟く。
「ありがとう」だか「ご苦労さま」なのだか言ったのだろうが、まったく言葉になってない。ますます顔をカァーと染め、身体を縮こませた。「男なんだから、しっかりしなさいっ!」と背中を一発叩き、どやしつけてやりたいが、大切な思い出の夜だ。
紀乃はしずしずとその場から離れる。妻戸を出て、もう一度その場に膝を着いて深く頭を下げる。
「翌朝、
こういう場の決まり文句を口にし、音をさせぬよう妻戸を閉めた。
紀乃は静かに梨壷を後にする。
紀乃は渡り廊下の途中で足を止め、高欄に手を掛けると空を見上げた。
ぽっかりと天中に浮かぶは、ぼんやりと優しい光を投げかける朧月だ。
紀乃はその月に向かい、細く詠じた。
寄り添いし
あゆむ旅路の
道筋を
しかとも照らせ
朧月夜よ
薄く微笑みを浮かべ
「まるで子供の旅路の無事を願う、母親みたいですね」
ちゃかすように微笑み、歩みを進めてくるのは頭中将だ。
宮中に入った際に、藤の宮の下に皆と打ち揃い挨拶こそしたが、二人きりで言葉を交わすのは評定のことを教えてもらった
傍らに並ぶように足を止めた頭中将を、紀乃は見上げるようにして軽く睨む。
「苦労が多いほど強くなるなんて、苦労知らずの
「なるほど……」
頭中将は唸るように呟き、にこりと破顔した。
「わたしもこのさきの苦労を思うと、どうにかなりそうです」
頭中将が苦労しているところなど、どう考えても想像できない。それとも、人知れず悩みを抱えているのだろうか。
紀乃が小首を
「あれほどの恋歌をやり取りした仲だというのに、こちらが忙しいだろうと遠慮していると、まるっきりの無しの
評定でのやり取りがまざまざと頭に浮かび、紀乃は頬を染めた。
「それは…あの……ほんとうに忙しくて……」
しどろもどろに言い訳していると、頭中将がプッと噴き出した。
「あなたのことなら、わかっているつもりです」
ずいぶんと意味深な言い回しに、紀乃はうつむいて「ありがとうございます」ともごもご礼を述べていると、
「それでも、心配しているのはほんとうのことです」
打って変わった堅い声に、紀乃が顔を上げると頭中将の真剣な表情だ。
「大皇の宮さまの御気に入りで、絵式部殿の片腕、それに実力も伴っているともなれば、この宮中であなたが名を上げるのも時間の問題に過ぎない。
あなたを利用しようとする
そして、真っ直ぐに紀乃の目を覗き込む。
「そのまえに、確証が欲しい……」
頭中将は紀乃に向き直り、その手を取った。
「わたしの妻になっていただけませんか?」
紀乃は声も無く、その場に立ち尽くした。
梨壷からはもちろん、温明殿からも渡ってくる人影は見えない。
元服につづいて行われた宴はとうの間に終わり、大半の者はすでに帰宅している。御上も
今にして思えば、宮に付き添うことを予想して、わざわざ待ってくれていたのだろう。たかが女房風情に、その御気持ちはとても嬉しい。しかし、その返事はとなると……。
紀乃は避けるように、視線を落とす。
容姿端麗で頭脳明晰。出世頭で家柄も良く、その人柄もいい。このまま頷いてしまえば、まさに玉の輿。
けれども、それは
それならば、わたしも頭中将だけを見て、決めなければ。
ふと脳裏に浮かんだものは、更級日記だった。
あれを読んだのは、幾つのときだろうか。あのなかで彼女は夫の不実をぐちぐちと愚痴っておきながら、顔を見られたなら嬉しいようすを、二人で居られたら楽しいようすを記している。
あの頃は「だから、男に舐められるんだ」と憤慨したものだったが、結婚を身近に感じるようになってわかった。
彼女は心から夫のことが好きだったのだろう。だから、顔を見られなかったら不機嫌にもなるし、一緒に居られなければ愚痴りたくもなる。わたしは頭中将のことを、そんなふうに愛せるのだろうか?
紀乃は静かに首を振る。
頭中将のことは信頼もしているし、尊敬もしている。いずれはこの気持ちが苦しいほどの恋に変わる、その日が来るのかもしれない。しかし、それはまださきのさき。
いつ訪れるのかもわからない未来を、「それまで待ってください」なんて余りにも虫が良すぎる。それでも頭中将の誠意に応えるためには、この気持ちを正直に話さなくては。
小さく吐息を付き、紀乃は顔を上げて見詰め返す。
気軽に口をきけた関係も、これで終わりだ。それが残念でならない――けれども、口を開こうとしたときだった。
「そこに居るのは、誰だ!」
前庭から厳めしく
「
頭中将にしては珍しく怒った口調だ。
その隣で、紀乃はビクッと肩を上げ、慌てて頭中将から離れる。
この声って、もしかして……。
薄闇から足早に玉砂利を鳴らして現れたのは大夫の君だ。
あの告白されて以来、邸で顔を合わせたら「気まずい」なんて思っていたのだが、朝も早くから出仕すると晩も遅くまで帰ってこない。あんなサボり魔だったのに、人が違ったような変わりようだ。
それが、こんなときに限って……。
「そこで何を――」
大夫の君も二人を認めると厳しい声を止めた。
驚き顔で二人を交互に見て、おもわず頬を染めて視線を逸らした紀乃に事態を悟ったようだ。
奥歯をギリッと噛むように顔を歪め、歩調を緩めて近づいてくる。
「てっきり、もう御帰りになったのかと」
大夫の君がぶっきら棒に問うと、頭中将が不機嫌に返す。
「まだ仕事がありましてね」
その返答に、大夫の君は小バカにしたように「ほぅー」と口を尖らし、二人の前に立った。
まったく信じていない、といった表情だ。
「あなたこそ、こんな宴の夜に仕事とはどういった風の吹き回しです?」
「こんな夜ですからね」ニヤリと唇の端を上げて笑う。「宴の雰囲気に当てられて、良からぬことを企てる不届き者がいますから」
頭中将が眉間にグイッとしわを寄せ、嫌味に嫌味で応じる。
「何かに付けては出る持病も治ったようで、結構なことです。これからもせいぜい御役目に励んでください」
「それは、もう……」
大夫の君が笑って応じる。しかし、その目は笑ってない。
「三年後にはあなたに追いつくと、約束した女がいますから」
そう言って、意味深に紀乃の足元の高覧に寄りかかり、言葉をつづけた。
「あまり待たしては、可哀想です」
ギョッと目を見開き、頭中将が紀乃を見た。その視線に、紀乃はぷるぷると首を振る。
確かに、そう言われはした。しかし、待っているとも何も返事などしていない。
頭中将はほっとしたように息を吐くと、鼻先で笑い声を漏らした。
「これは失礼」
謝罪しながらも、その笑い声は堪えきれないといったように、だんだんと大きくなる。
「しかし、独りよがりの思い込みとは、これは滑稽な……」
「何だと!」
大夫の君が怒声を上げていきり立ち、高覧に手を掛けた。そのまま登って来そううな勢いだ。
慌てて紀乃は二人の間に割って入る。
「――落ち着いて、隆道」
とっさのことに思わず名を呼んで制止すると、その声に頭中将の眉がピクリと動いた。それを目聡く認めた大夫の君が頭中将をせせら笑う。
「あんたこそ、そろそろ察したらどうなんだ」
紀乃の肩越しに顔を覗かせ、鼻を鳴らす。
「あんたの位階と役職で、
頭中将の眉が逆立った。ふらりと一歩まえに踏み出し、足を鳴らす。
「その言葉、聞き捨てなりませんね!」
紀乃は背後を向いて止めにかかる。
「頭中将もやめてください」
しかし、顔だけ覗かせた大夫の君が、「だったら、どうすんだよ」と挑発。それに、頭中将も挑発で応え、さらにとつづく……。
あいだに立っておろおろと仲裁していた紀乃だが、頭の
「二人とも、やめてくださいっ! 宮の大切な夜なんですよ」
つい大声を出してしまい、紀乃ははっとして口を抑える。そして、恐る恐る梨壷を振り向いてみれば、
――あっ、隠れた。
だけど興奮しているのか、声がまる聞こえだ。
「修羅場だよ、修羅場っ!」
「紀乃が頭中将と大夫の君となんて、びっくりっ!」
さきほどまでのガチガチの緊張感は見事に消し飛び、いつも通りの仲の良い二人だ。
「紀乃はどうするのかしら?」
「そりゃ泰宗じゃないかなぁ。役職も位階も上だもん」
「でも、大夫の君なら郷下がりのときも、紀乃と一緒にいられるわ」
勝手なことを言ってくれちゃって……。
紀乃はほーと息を吐き、天を仰ぐ。そして、ぽっかり浮かんだ朧月に和歌を口ずさんだ。
しかと問う
都の空の
朧月
惑う我が道
いずれ照らさむ
はっきり返答しなさいよ。わたしはどっちに行けばいいの?
何処からともなく一陣の風が吹き抜け、天を見詰める紀乃の長い髪を乱れさせ、ほんの一瞬だけ目を逸らした。再び見上げた夜空は――。
あっ、くもった……。
了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます