その五 闇夜の乱戦

 紀乃はもどかしそうに打ち橋を渡ると、挨拶の言葉もなしに東対の屋に飛び込んだ。

 大夫の君が太刀たちに手を伸ばしかけたまま目を見張り、対面の左近少将さこんのしょうしょうとおぼしき人物が腰を浮かしかけて目を丸くしている。

「――何ごとだ!」

 無礼は承知のうえ。

 左近少将の問いを敢えて無視し、紀乃は大夫の君へと顔を向ける。

「宮が尼寺に連れて行かれたの! 院の向こう、大照寺よ」

 大夫の君が唇の端をニヤリと上げ、太刀を片手に左近少将に向き直った。

「どうやら急用ができたようです。御小言のつづきはまた後日に」

 素早く座を立った大夫の君を、左近少将が慌てて止めにかかった。しかし、妻戸から響いた声に、伸ばしかけた手を止める。

「宮を取り戻しに行く!」

 東宮のよこを擦り抜けるように、大夫の君が妻戸を出る。紀乃は東宮に目礼を持って、その背を追った。




 簡潔に事情を説明しながら車の宿りに飛び込むと、牛を繋いだ牛車のまえで常磐が早く早くと手を振る。

 大夫の君が足早に乗り込み、紀乃の手を取って引っ張り上げた。その後ろから、飛び込むように乗り込んだのは東宮だ。

「あんたは左近少将と帰りなさいっ!」

 厳めしい表情で言う紀乃の声を、東宮はかたくな表情で拒んだ。

「ぼくも行く!」きっぱりと紀乃に告げる。「宮を取り戻すんだ」

 大夫の君がフッと笑みを零し、牛飼いに命じた。

「―――出せっ!」

 急発進した牛車によろめく紀乃を、手を伸ばして支えながら目を細める。

「男には必要なんだ」

 宮中に出仕する大夫の君が、誰なのか知らぬはずがない。

 紀乃はムスッと黙り込み、その場に腰を降ろした。




 牛車は速度を落とすことなく、東四足門を走り抜ける。

 唖然として一度は見送った警備の衛士えじたちが弾かれたようにバラバラと追いすがり、中を確かめるように顔を覗かせた。

「何事でございますか?」

 その顔をよく見れば、市から帰るさいに頭中将が護衛に就けてくれた利蔵さんと総司さんの二人だ。

 そう言えば、頭中将が配下の者を派遣すると言っていたが、流石と思わせる素早さだ。

 二人の目が驚きに見開かれた。

 この二人も、東宮の顔を知っているのだ。

「所要だ!」

 大夫の君が吐き捨てるように応えると、牛飼いに激を飛ばす。

「――かまわぬ、飛ばせっ」

 速度を増した牛車は二人を残し、闇に沈んだ平安京を疾走する。二人は何事か声を掛け合うと、元来た方へと駆け戻って行った。

 紀乃は前方に顔を戻し、じっと闇を睨む。

 焦りにも似た苛立ちに、ともすれば悪態さえ吐きそうになり、口を真一文字に結んだ。

 あんなもので鈴鹿と小夜が大丈夫だと思った、自分の判断の甘さに腹が立つ。そして、藤の宮にも。

 べつに宮が神仏に帰依きえしようが、最近流行りの宗教にかぶれようが、そんなのはどうでもいい。そんなもの、工面するのには苦労するだろうが、後でお金を積めばどうにだってなる。

 しかし、貴族女性の象徴とも言える、長い黒髪に手を付けることだけはダメだ。

 宮の絹糸とも見まがうばかりの長い髪は、十歳になるまえから毎月、毛先を整えながら伸ばしたものだ。その髪を切ってしまったら、たとえ添い寝役の大任を免れようとも、他の縁談を望むべくもない。

 結婚に支障がないくらいまで伸びるのを待っていたら、あっという間に行き遅れだ。

 前方に長くつづく白壁が見えてきた。院の土塀だ。

 まだ、こんなところ……思わず呟きそうになり、紀乃はグッと言葉を飲み込んだ。

 車を引く牛を叱咤しったしながら伴走する牛飼いは、もう息も絶え絶えに掲げる松明たいまつの炎を揺らしている。

 紀乃はじりじりとして待った。



 牛車は速度を落とすことなく六条大路を左に折れ、闇に静まる邸宅のまえを疾走した。

 あと二町ほど……しかし、大照寺の大門が見えてきたところで、暗がりからバラバラと走り出てくる男たちの影だ。

 紀乃はハッとして思う。

 あのとき、鈴鹿は「従者を貸せ」と言われたと告白したのだ。そして、「あんたも連れてってやる」とも。

 連れて行くって、どこへ……?

 それが宮中を指すとしても、宮中の人事を小夜の一存でどうにかできるわけがない。小夜の裏に、宮中の人事をどうにかできるほどの人物が……。

 あの狸参議め! いっしょにはかりごとを進めといて、その裏でさらに謀を進めていやがったな。

 流石は長きにわたって宮中の謀を担っていただけのことはある。

 しかし、感心している場合ではない。

 こちらは牛車を御している、牛飼いだけだ。あの短時間で牛を繋げさせ、牛車を仕立てさせた常磐も、従者を集めるまでとはいかなかったのだろう。




 牛車が十数人の男たちのまえで急停車した。

 牛飼いが近づいてくる男たちに、二歩、三歩と後退あとずさりして倒れ、松明を取り落とす。

 ジュッと音を立て松明が消え、男たちの姿が月明かりに浮かび上がった。

 大夫の君が牛車をひらりっと飛び降り、男たちのまえに立つ。

「おれが誰なのか、わかっての狼藉ろうぜきだろうな」

 腰の太刀に手をやり、男たちを見回す。それでも道を開けようとしない男たちに、さっと抜刀すると声を張り上げた。

「死にたい奴から、まえに出ろ!」

 何人かの男たちが後退さった。

 その男たちに、真ん中の頭目格らしい男が「下がるなっ!」と命じる。しかし、後退さった男たちは「うちの姫さんはここにいねぇよ!」「たまってやることかよ!」と応じ、バタバタと後方の闇へと消えて行く。しかし、まだ半数だ。




「やるまえから半分だぜ」

 大夫の君が不敵に笑って、一歩、二歩とまえに出る。

 慌てたように、男たちが抜刀し、刀を構えた。すると、ちいさな影が紀乃の横を飛び出し、大夫の君に並びかけると腰の小太刀こだちを抜いた。

「何やってるの。あんたは戻りなさいっ!」

 紀乃が慌てて叫ぶと、東宮は振り向きもせずに声を張り上げる。

「ぼくはもう逃げない。宮を取り戻すんだ!」

「よく言った!」

 大夫の君が横目でチラリと見て破顔した。

「いいか、真の男の中身っていうのは、ヤセ我慢だ。ビビッても引くなよ」

 東宮が無言で頷く。

 何、バカなことを教えてるんだ! 東宮にもしものことがあったら、ここにいる全員、明日には打ち首よ。

 止めに入ろうと、紀乃も牛車を降りようとするが、足場となるしじがない。牛飼いは腰を抜かしたように、すぐ横で座り込んでいる。

 ぎゃんぎゃん言って持ってこさせているうちに、目のまえで真剣勝負が始まった。




「こういうときにはな、一等強い奴からやるんだ」

 先頭に立つ頭目格の男がギクリッと肩を上げ、半歩下がって引き腰になる。

 その眼のまえを大夫の君が横なぎに刀を振るい、道を開けさせ、一気に駆け抜け、最後方の暗がりに刀も抜かずに立っていた男に切りかかった。

 男は低く構えを取ると、一瞬のうちに抜刀し、やいばを右にと受け流す。

 金属が触れ合う甲高い音ともに、夜目にも鮮やかに火花が散った。

 さらに一閃、二閃と繰り出される刀を最小限に受け流し、袈裟けさ切りに刀を振り下ろす。

 大夫の君は後ろに飛び退って避け、間合いを測るようにじりじりと右に回って睨み合った。

 一方で東宮は右に、左にと素早く小太刀を振る。

 その太刀筋はめちゃくちゃで、明らかに剣術の稽古などしたことないものだ。しかし、それが幸いして、誰も間合いに入れない。

 他の男たち五人を釘付けにし、奮闘していた。




 やっと牛車から降り立った紀乃だが、目のまえの乱戦に棒立ちになった。

 今からでは止めに入ろうにも、どうすることもできず、女の身では手出しもできない。

 いっそのこと、院の御所まで駆け戻り、人を呼んでこようか?

 あそこなら、常時、警護の衛士がいる。だけど、その間に何もないとは思われない。

 そうこうしているうちに、東宮の背後からそっと近づく男の影だ。

 紀乃は悲鳴を上げ、男に叫ぶ。

 その声に、大夫の君の視線がチラリと動く。

 すかさず、男が動いた。

 あっという間に間合いを詰めると、横なぎに太刀を振るう。

 大夫の君は上から下に受け流し、右へと間合いを取るが、はらりっと左の狩衣かりぎぬの袖が垂れ下がった。

 男は大上段に刀を構え、振り下ろすかに見えたが、急に動きを止め、一歩、二歩と後退する。そして、手馴れたようすでクルリと刀を回し、逆手に持ち替えると鞘に納め、そのまま振り返りもせずに、背後の闇へと姿を消す。

「てめい、待ちやがれっ!」

 大夫の君の声が闇のなかに吸い込まれる。しかし、男を追う余裕はない。




 紀乃の騒ぐ声に、太刀を大きく振って残った男たちを追い散らし、二人のまえに戻った。

 背後から見える大夫の君は肩を大きく上下に呼吸し、太刀を構えるが、その左腕は軽く添えられているだけだ。

 その手から滴り落ちるものは……。

「隆道――!」

 蒼白となった紀乃の声に、大夫の君は笑って見せた。

「ちょっと掠っただけだ」

 しかし、その顔からは血の気が失せ、男たちに囲まれ、じりじりと追い詰められている。

 手負いの男と手助けにならない小僧、そして何もできない女。

 絶体絶命の危機だ。

 そのとき、後方から探し呼ぶ声が微かだが、確かに近づいてくる。

「紀乃殿……」

 あの声は――。

頭中将とうのちゅうじょうよ!」

 紀乃の嬉々とした声に、大夫の君が低く唸る。

「あんな奴の手なんか、死んだって借りるかよ」

 一瞬、呆然とし、紀乃は顔を赤くして叫び返す。

「バカ! 死んだら元も子もないでしょ」

 しかし、大夫の君は「フンッ」と鼻を鳴らし、答えない。

 貴族女性としては有るまじき行為だが、誰かの命には変えられない。

 紀乃は大きく息を吸い込むと、あらん限りの声で叫んだ。

「中将、頭中将!ここです、こちらです」




 紀乃の呼び声に応えるように、闇のなかから騎馬のいななきが響いた。

 目を凝らせば、遠く馬上に身を躍らせる頭中将が侍の一団を率いて近づいてくる。その一団の先頭を駆けるのは、東四足門で置き去りにした利蔵さんと総司さんの二人だ。おそらくは、二人が頭中将に知らせてくれたのだろう。

 東宮に袖を引かれ、背後に気を取られていた紀乃は、まえに顔をもどした。

 大夫の君が及び腰になった男たちを、太刀をまえにじりじりと道の端に追い詰めている。

「さきに行けっ!」

 大夫の君が顎をしゃくり、紀乃を促す。しかし、紀乃は大夫の君の左手を見て躊躇う。

 左腕は未だにに血が滴り、痛々ししい。頭中将が駆け付けて来るとはいえ、もしものことがあったらと思うと足がまえに進まない。

「おれなら大丈夫だ」

 大夫の君が唇の端を上げて笑う。

「死んだりしねぇよ。死ねない理由ができたからな」

「―――でも……」

 紀乃の弱気を断ち切るように、大夫の君が声を張り上げた。

「行けっ―――!」

 こくんっと頷くと、紀乃は身を翻して走り出す。その背後に、東宮の足音がつづいた。

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