その二、 わたしに言われたってねぇ

 寝殿造りの建物は、寝殿しんでんとよばれる南向きの正殿を中心に、東西北に対の屋という建物を配し、簀の子縁とよばれる渡り廊下で結ばれている。

 絵式部を先頭に紀乃たちは東北の対の屋を出て、ゆるゆると簀の子縁を進む。抜け目のない絵式部が先触れを出し、人払いしたのだろう。どの室も静まり返り、人気ひとけもない。宮を下々の人の目にさらさぬための配慮だ。

 よく気がまわるもんだぁ……。

 女房としての格の違いに、紀乃は最後尾をとぼとぼと歩む。しかし、北の対の屋に近づくにつれ、騒々しい声が耳に届くようになった。

 自然、絵式部の歩調が速くなる。やはり主人が一番のようだ。何だか、ほっとしてしまう―――と、北の対の屋から、一際、大きな怒鳴り声が!

承香殿しょうこうでんに伝えなさい! 東宮の元服の儀は期日通り。どんな言い抜けをしようとも、これ以上の延期はありません。返書は無用。あの人の汚い手など、見たくありませんからね。あなたが口頭で伝えなさい。大皇の宮が怒っていると!」

 しばらく静かになったかと思ったら、突然、大きな音が響いた。あれは脇息を檜扇で打ちすえる音だ。

「言い訳はけっこう! いそぎ伝えなさい」

 北の対の屋から、転がるように女房があらわれた。顔は青ざめ、唇がふるえ、腰から引く裳の裾がよじれてしまっている。肩に領巾を掛け、腰に裙帯を締めれば、改まった儀式にも出られるほどの正式な十二単は、宮中の命婦みょうぶだろう。それも承香殿の中宮に近いところの。

 これって、やばいんじゃ……。

 宮中に位を持つ命婦といえば、花形の職業。その自負心もかなり高く、居丈高で下っ端には禄に口も利いてくれないってくらい。それを叩き出すなんて、あとあと面倒なことになりそうだ。

 それに、承香殿の中宮は禁忌だ。嫌な思い出が多すぎる……。



 紀乃は引き返そうと立ち止まった。君子、危うきに近づかずって―――。ところが、両端の二人の女房は足を止め、目配せしあっているが、先頭の絵式部と藤の宮がどんどん先に行ってしまう。大皇の宮が大事な絵式部はわかるが、怖がりの宮はどういったことだ?

 あ~、もう!

 藤の宮を置いて行くわけにもいかず、紀乃は小走りに追いすがった。

 近づく衣擦れの音に、命婦がはっと顔を上げた。目の端に涙を溜めながらも、キッと絵式部を睨みつける。しかし、その後ろの藤の宮に気が付くと、慌てたようすで端により控えた。

 こんなときでも、身分の違いがわかるとは流石だ。略装で大皇の宮を訪ねる姫なんて、院では宮だけだもの。だけど、時節の挨拶とまではいかなかったようだ。深く頭を下げて平伏するのみ。

 絵式部を追い越す勢いで、藤の宮が命婦の前に立った。

「東宮の御身になにか……?」

 へっ?

 紀乃が止まった。命婦も訳がからず、顔を上げてぽかんっと見ている。

「御身になにかあったからの延期なのでは……。東宮になにか…何かあったのですか……?」

 あぁ、そういうこと……。

 紀乃は思いあたって肩から力が抜けた。

 宮とわたし、そして東宮の三人は、幼いころを宮中で育った幼馴染だ。久の宮が独立し、堀川に屋敷を構えるまでは、毎日のように遊んでいた。最も、わたしは元気すぎる東宮が怪我をしないようにとの見張りだったが……。

 それでも重い十二単の女房たちを振り切って、ぱたぱたと簀の子縁を走ってくる足音と、「遊んでたもれ~!」との元気な声を今でもはっきりと覚えている。宮は今でも文を交わしており、この宮がお姉さん気取りで「寒いから身体に気をつけろ」だの「食事はちゃんとしているか」だの書き送るにつけ、笑ってしまう。

 そんなことを露とも知らない命婦は、怪訝そうに眉をしかめた。

「東宮さまに置かせられましては、いたって健やかにござりまするが……」

 両手で握り締めていた檜扇から力が抜け、藤の宮がほっと息を吐いた。

 宮の心配もわからなくもない。東宮の元服の儀は当初は正月に予定されていたが、御本人の病気と療養、陰陽道による占いの物忌みで謹慎と重なるうちに、宮中行事が続くことから延期となっていた。



 それさえ聴ければ宮には用はなかったのだろうが、勢いの募った命婦は堰を切ったように捲くし立てた。

「本日は元服の儀の御支度について、まかり越しました。しかれども、大皇の宮さまは承香殿さまの母心をおわかりになろうともせず…お叱りになられ……」話しているうちに気持ちがたかぶったのか、目の端から涙が零れ落ちる。「どうか宮姫さまから、今一度お取次ぎを―――」

 命婦が足元に深く平伏した。

 藤の宮が困ったように、紀乃に視線を向ける。

 そんな目で見られたって、ただの女房が大皇の宮に意見できるわけがないでしょ!

 紀乃が視線を返す。その二人の視線のやり取りを絵式部の背中が遮った。

「大皇の宮さまの物言いは、熟慮に熟慮を重ねたうえでの御言葉。そのままを承香殿さまに―――」

「しかれども―――」

「大皇の宮さまは同じ道を歩まれた先達! お忘れか……?」

 唇を噛んで、命婦が押し黙った。

 そもそも御位とは、生まれた順番ではない。どれだけの有力な後見人を持つかで決まるものだ。

 三人目の女御として、右大臣家より入内した大皇の宮の苦労は想像に難くない。当時の最高権力者は関白左大臣であり、先に入内していた左大臣家の珠姫たまひめとの確執は、ことに有名だった。

 それに比べて承香殿の中宮は、今上帝は大皇の宮の御子息、時の権力者は関白だった祖父。御入内のときは誰もが花を上げてのお祝いに、皇子さま誕生のさいは誰もが我先にと馳せ参じた。とてもじゃないが、比べものにならない。

「承香殿さまには、早急に謝罪の文を―――」

「ですが、大皇の宮さまは―――」

「あなたが代筆すればよろしい! 大皇の宮さまが見たくないとおっしゃられたのは、承香殿さまの文字。あなたの手なれば、なんの問題もありません」

「しかし、承香殿さまは……」

「沈黙は疑心を呼び、反目となります。先の右大臣さま亡きあと、宮中での承香殿さまのお立場を支えられているのは、大皇の宮さまではないのですか?」

 これで話は終わりとばかりに、絵式部が背を向けた。現役の宮中の命婦より、一枚も二枚も上手である。それもそのはず、宮中で采配を振るっていたのが大皇の宮なら、その尖兵として矢面に立っていたのが絵式部だ。役者が違う。

「この先の対の屋は人払いされています。そこで着付けを―――」他の二人の女房に手を振って指示を出す。

 そして、藤の宮に深く一礼した。

「宮姫さまには余計な御時間を取らせてしまい、心よりお詫びいたします。どうか御容赦のほどに」

 許すも、許さないもない!わたしらはびびって声も出なかった……。

 紀乃の腕に抱きついたまま、藤の宮がコクコクと頷く。

 ふたたび絵式部が先頭に立つ。ゆるゆると進むなか、藤の宮が振り返った。

「わたくしは何のお役にも立てませんが、承香殿さまにはどうか気を落とされぬよう、お伝えください」

 何ていう優しい心根だ!乳姉妹としては、嬉しいかぎり。だけど……。

 紀乃はそっと背中を押して、先をいそがせる。宮中なんて魔物の巣窟。権力と金の亡者ばかりだ。平穏無事に暮らすには、背中を向けて見ないに限る。とくに承香殿さまには係わるな!

 北の対の屋は、もうすぐそこだ。

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