都の空の朧月
穂乃華 総持
第一章、こころざし あらば探さむ 仙洞の 見出づはあやし 人知れず花
一、こころざし
あらば探さむ
見出づはあやし
人知れず花
春はあけぼのと書いたオバさんもいたけれど、弥生に入って花待ちの宴が終わったあとでも、早朝はまだまだ寒い。それなのに……。
紀乃は背中に圧力をひしひしと感じながら、額に汗を浮かべて女主人の着付けの手をいそがした。
べつに待たしてもいいはず。まず先触れを出して用向きを伝え、後刻を待ってから迎えの使者をたてるのが貴族の常識。それを頭っから無視したのは向こうなのだから。
女の着替えがどれだけ大変なのかは、わかっているはずだ。この時間の私的な御用ともなれば、伯母と姪の間柄を考えると堅苦しい
文句のひとつも言ってやろうと御簾越しにちらりと視線を向けて、先頭に座する絵式部に紀乃は震えあがった。
無表情だが、目が怒っている―――。
紀乃の手がいっそう早くなった。
白の
小袖と打ち袴のうえに、まずは緑の単を着せて、袖口と裾が薄紅、極紅、薄紅と仕立てられた五つ衣を着せる。そして白の小袿を着せ掛けて、襟元と袖口をきれいに整えていく。
女主人の藤の宮は小柄で痩せているから丁寧にしておかないと色目がきれいにでない。昨年の秋口に女の成人式である
「あのね、紀乃」ふわふわした声音と、のんびりとした口調が朧月の由縁だ。「尼寺にはどう行けばいいのかしら?」
こんなときに……。
いつもなら乳姉妹の気安さから怒鳴りつけて黙らせるのだが、いまは簀の子縁の絵式部が気になって声を押し殺した。
「陽明門を抜けてまっすぐに行ったところに、たしか……大尚寺といった尼寺が―――」
「まぁ、紀乃ったら……」藤の宮は軽やかな笑い声を立てる。「わたくしが訊ねたのは、入門の仕方よ」
そんなことわかってるわよ!
ちらちら見ると簀の子縁の絵式部は顔こそ無表情を保っているが、聞き耳を立てているのは絶対だ。しかし、藤の宮はいつもなら頭ごなしに叱りつける紀乃を諭すのが楽しいらしい。
「紀乃は折をみてなんて言うけど……いつまでも伯母上さまに甘えているわけにはいかないもの。わたくし、昨晩は寝ないで考えたのよ。二人で仏門に入って、父上さまと母上さまの御霊を弔いながら、清く正しく生きていきましょう」
あんたはともかく、わたしまで清く正しくかいっ! わたしはまだ一六の乙女だぞ。ふんっ、寝なかったわりには、ずいぶんスッキリした顔してるじゃない。どうせ、たんなる思いつきを大層に言ってるだけでしょっ!
紀乃は手がぷるぷる震えるのを何とか抑えた。
「でも、入門したての若い僧にはやることがいっぱいなのよ」
「そう…なの……?」
藤の宮の眉が不安そうに寄った。ここぞとばかりに、紀乃は大袈裟に頷いてみせる。
「水汲みに洗濯、朝餉の用意と半下仕事までやるのよ。宮にできる?」
「まぁ……わたくしにできるかしら……」藤の宮が可愛らしく小首をかしげる。
できるわけがない! 水汲みなんて、夜になっても終わらない。
「紀乃、教えてくださいね」
紀乃は無言で、腰帯を力いっぱい締めた。そして、大きく息を吐く。
三大美人なんて言われた朧月の内侍が結ばれたのは、時の帝の弟君、
後を追うように朧月の内侍が亡くなると、荘園の権利書は騙し取られるは貴重な調度品は持ち逃げされるはで、久の宮家は傾く一方に。何の後ろ盾も持たない宮姫なんて零落し、身を持ち崩すのが世の常なのだが、路頭に迷う寸前で救いの手を差し伸べてくれたのが大皇の宮だった。
院の御所に招きよせ、身のまわりの品を調えて、生活のいっさいの面倒をみてくれている。
実にありがたいことだ。文句なんて、これっぽちも言えない。だけど……しかし……心苦しいのだ。
貴族が貴族らしく生活するには、多額のお金がかかる。衣ひとつをとっても正装の十二単を完成させるには、
絹織物自体が庶民には手が出ないような高価なものなら、燃やせば灰になってしまう香も高価だ。まだ眉も剃らない
この生活から抜けだす手立てがないわけでもない。いわゆる一つの、玉の輿だ!
貴族同士の結婚は、別居して男性が女性の元に通い、生活の一切の面倒をみてもらう婿取り婚が一般的なのだが、その逆の場合もけっこう多い。源氏物語のなかでも、紫の上は身寄りがないからと光源氏に引き取られている。父母を亡くし、財産とてない淋しい身のうえの藤の宮を引き取ろうと思う者もいるはずだ。
これからの季節は都合のいいことに、賀茂の祭り、
ちらりっくらいなら、宮を見せるのも手だ。朧月の内侍の内侍とは、低い役職だから実際に対面している者も少なからずいて、面差しが母親に似ているとなれば、噂になるに難くない。求婚者の十人や二十人、少なくとも五人くらいはなんて企んでいるのだが。
まぁ、それがだめでも
それでも……やっぱり宮には身分のある人と結婚して幸せになって欲しいと思うのは、乳姉妹だからだろうか。
実はこれっていう人がいるのだが、それとなく宮に話してみても、どうも反応が薄い。歳のわりには子供っぽい娘だから、まだ結婚って気にならないのかもと様子を見ているのだけど……。
最後に白色に薄紅で桜が透かし織りされた表着を着せかけ、襟元と袖口をなおす。絵に描いたような、お姫さまのできあがりだ。その姿を見て、紀乃の気持ちは複雑に沈む。
宮には話してないが、彼女の結婚のときが二人のお別れになるだろう。宮が裕福になってしまえば、こんな半人前の女房を御傍勤めに使う必要なんてなくなる。きっと絵式部のような、万事において有能な人が御傍勤めになるのだろう。
ちょっと淋しいが、それもしかたがない。わたしも堅苦しい御所を飛び出して、自由を手にいれるのだ。院の御所で働いていたとなれば、きっと勤め口もあるはず。それでも同じ京の都にいるのは気が引けるから、すこしだけ離れた場所に。吉野では遠すぎるから、嵯峨か宇治あたりの貴族の山荘を探そう。そこで和歌でも詠みながら、のんびりと暮らすのだ。
紀乃は気持ちを奮い立たせて、仕上げに
「扇は? 扇はどこにやったの!」
「あらぁ、どこかしら……」
どこかしらじゃない!
扇は貴族にとって必需品だ。これで顔や口元を隠したり、裏に書付を貼り付けたりと便利に用いられる。とっさの受け答えのにぶい宮のために、さっき五首ほど春の歌を詠んで貼り付けといたのだが、どこかに置き忘れたらしい。紀乃は辺りをきょろきょろと見回した――――――あった!
大皇の宮に買い足していただいた漆塗りの調度品のあいだ、宮が宝箱と称する母譲りの古ぼけた文箱の横。誰にも触らせない、その文箱を覗き込んでは、宮はよく一人で微笑んでいる。ちょっと目を離しているうちに、また見ていたのだろう。
紀乃がひょいっと手をのばして檜扇を取ると、手が文箱にあたり、箱がずれた。
「あぁん、もう!」
宮が拗ねた声を出す。なかに何が入っているのかは知らないが、そんなのかまっていられるか!
「いいから、これ持って!」
文箱をまっすぐに直し、あげくに蓋のうえを大事そうに撫でる藤の宮の手に、紀乃は強引に檜扇を握らす。
「背筋を伸ばして、まっすぐに立つ!」
そう言いおいて、紀乃は背を向けて
「藤の宮さま、御支度整いましてございます」
紀乃の挨拶への答礼は、絵式部のぎろりと睨む目だった。
これは、後でお小言だ……。肩を落として端により、藤の宮のために道を開ける。
進み出た藤の宮に、絵式部が手を着いて頭を下げた。
「御先導いたしまする」
絵式部が音もなく立ち上がり、
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