その三、何でわたしが……

「藤の宮さま、お越しにござりまする」

 絵式部に応えた大皇の宮は、不機嫌そのままだった。しかし、藤の宮の姿を見たとたんに、ぱっと顔を輝かした。

「まぁ、これは艶やかな!」そして、自ら横にずれて座を作る。「さぁ、こちらに」

 北の対の屋に控えていた女房の面々に、一様にほっとした空気が流れた。しかし、そんな弛緩した雰囲気も絵式部の一睨みに緊張が走る。

 後でお小言の仲間が増えた……怒られるなら、一人より大勢だ。

  紀乃はひょいひょいと軽い足取りで、室の奥に作られた一段高くなっている上座に、正対して並ぶ女房たちの末席に着いた。傍勤めに部屋付きに取り次ぎ役と、大皇の宮は多くの女房に囲まれており、ここまで来てしまうと紀乃の出る幕などない。後は二人の会話を聞きながら、のんびりと過ごすだけだ。



 御簾の巻き上げられた前に目を向ければ、大皇の宮と藤の宮が親子のように並ぶ。二人とも美人だが、藤の宮がぼんやり優しい朧月なら、大皇の宮は冬の夜の冴え冴えとした望月だ。

「一足さきに、花が開いたようですね」

 藤の宮の桜襲に微笑む大皇の宮も、青の表に裏が紫のうちぎを重ねた春の盛りを先取りの早蕨襲さわらびかさねだ。枕草子であのオバンが弥生、卯月の紅梅襲こうばいかさねを笑いものにしてからというもの、ちょっとでも時期が遅れると着られやしない。まったくもって貧乏人の敵だ。

「ほんに……」一同を代表して、絵式部が相槌を打つ。「在りし日の御内侍さまの姿が思い出されます」

「あなたはことのほか、あの娘と仲がよかったから」

「おなじ宮仕みやづかえとして、話す機会も多かっただけにございます」

「隠さずともよろしい」大皇の宮がふと視線を落とされた。「わたくしはことのほか、あの娘に辛く当たった日々もありましたからね。母は違えども、姉妹は姉妹。愚かなことをしました。許してくださいね、藤の宮」

「許すもなにも・・・」小さく被りを振り「伯母上さまからのこの御恩に、わたくしは感謝の言葉も見つかりません」

 これぞ高級貴族って会話に、居並ぶ女房たちも和やかに。だけど、大皇の宮がこんな上っ面だけの会話で終わるわけがない。

 後からのこのこと後宮に入っといて帝の寵愛を独り占めにし、ほかの女御がたと争いながらの出産と子育て。ついには息子を頂点の御位に昇らせ、時の権力者だった関白左大臣を引退に追い込み、父親を摂政につけて、郷の右大臣家に栄華をもたらした才媛である。

 朝っぱら早々からのお呼び出しもあり、なにか怪しい。

 紀乃は訝しげに首をひねった―――と、大皇の宮の視線がちらりっと、こちらを向いたような……。

「これというのも、悪いのは先の右大臣です」大皇の宮が開いた扇で口元を隠し、芝居がかったようすで小さく息を吐いた。「わたくしの父は深酒をするでもなし、無体なことを言うでもなし、いい人ではあったのでしょう。それでも、あの女癖の悪さだけは好きになれませんでした」

「宮さま、この場にはオボ娘も多かりしなれば、どうか御自重を―――」

「―――なればこそ、聴いておくべきなのです!」

 鋭い視線に、絵式部が沈黙した。

 ひぇ~、あの絵式部を一喝だ……。



 紀乃の背筋が自然にぴんっとのびた。気が付けば、誰もが居住まいを正し、息を吸うことさえ控えている。隣の者の心臓の音が聞こえてきそうだ。

「あの人の女癖の悪さといったら、もう伝説です。ちょっといい女だと耳にすれば、身分や立場などお構いなし。それこそ人妻にまで手をつけて。

 あの気位の高かった母が、夜毎に隠れるように泣く姿には、子供ながら身をつまされる思いでした」

 大皇の宮が開いた扇の上から目だけを出し、一同をゆっくりと見回す。そして、末席に目を向けた。

 へぇっ?

「―――ですが、わたくしは父上が悪いとは思えなかった。世間知らずの子供だったのです。

 すべては、父上を惑わす女が悪いと。その女が産んだ子供など、下種下種しいはずだと信じました。

 まったく、愚かしい!」

 いらただしげに扇を閉じ、視線を末席に。気が付いた者も数名いたのだろう。囁くような声がちらほらと。

 なんで?

「いつの世も、女は待つ身。不埒を働くのは男です。

 あの娘が下卑た女だったかどうかは、この藤の宮が証明しています。そして、不埒な行いを及ぶに身分の上下が関係ないことは、先の右大臣が証明しています。

 身に覚えのある者は、よく聞きなさい!」

 視線がいっせいに紀乃に向けられた。古参女房は侮蔑を含み、まだ若い新参者は興味しんしんに。

 無実だ! この場で立ち上がって叫びたい。しかし、そんなことができるわけもなく、紀乃は身を堅くした。

「不埒な者は優しげな顔をして、耳に甘い言葉を囁きます。

 今一度、己の身を振り返り、よく考えてみなさい!」

 大皇の宮の視線に、紀乃は身をすくめた。

 考えるまでもない。捨て宮同然だった藤の宮の交際範囲は限りなく狭く、親しい人物といえば、お世話になっている大皇の宮と、文通のある東宮ぐらいのものだ。その文も、次代を担う重責の東宮は表ざたにならぬよう、口の堅い、信頼する側近が文使いとなり、あいだを取り持ってくれている。

 そんな宮の傍勤めに、男性と知り合う機会などあろうはずもない。だからこそ、藤の宮ちらり作戦なんて考えるのだ。これはなにかの間違いにちがいない。冤罪だ!

 しかし、突き刺さるような視線が痛い……。

「宮さま、そろそろ刻限が  」

 絵式部が控えめに声をかけると、大皇の宮が「ああ、そうでしたね」と頷き、パチリッと扇を鳴らした。

 人払いだ。

 紀乃は大きく息を吐いた。

 このまま東北の対の屋に帰ってしまいたいが、宮を置いていくわけにもいくまい。きっと控えの間ではみんなに取り囲まれ、詰問攻めだろう。針のむしろだ。やれやれ……。



「紀乃、そこの文箱をここに!」

 ―――えっ!

 重い腰を浮かしかけたまま、紀乃が凍りついた。

 お部屋付きの女房がいるのに個人指名とは、このまま残れとの御内意。これなら、針のむしろのほうがまだましだ。

 世話好きの女房が「ちゃんと謝るのよ!」と小声で注意を与えていく。「謝るもなにも……」訴えようとしたが、その姿はすでに背を見せて歩み去っている。女房なんて口性くちさがない女の集まりだから、きっと夜までには時代を代表する大悪女になっているだろう。わたしの評判は地の底に落ちたも同然だ。これでは寄り付く物好きだっていない。

 まだ恋に恋する乙女なんだぞ……。



 紀乃は涙目でのろのろと質素な文箱を持った。

 金で押された御紋は右大臣家。きっと郷から内々に送られてきたものだろう。大皇の宮にうやうやしく文箱を差し出し、「下がってよろしい」の一言を待つがなにもない。

 ガクッと肩を落として末席に戻ろうとしたら、絵式部に扇で席を示された。大皇の宮の目の前、左に絵式部の絶対の布陣。これでは本格的にお裁きを受ける罪人ではないかっ!

 助けを求めて藤の宮に目をやれば、人払いが済むのを待っていたかのように口を開いた。

「ここに来る途中、承香殿さまの命婦に出会いました。なにやら大変に気落ちしたさまで、いったい何ごとなのでしょうか?」

 嫌なことを思い出したかのように、大皇の宮の眉間にしわがよった。

 あんたはいきなり御奉行さまを不機嫌にさせて、どうする気だ!

 紀乃は藤の宮を睨みつけた。しかし、そんな紀乃の思いなど通じることもなく、藤の宮は言いつのった。

「東宮の元服の儀のお支度についてと聞きました。何かあったのでしょうか?」

「―――聞いたのは、それだけですか?」

 藤の宮がコクリと頷くのを見て、大皇の宮は確かめるように絵式部に視線を向け、無言で目配せしあうと大きく息を吐いた。

「捨て置いてよろしい」言い捨てて、大皇の宮は藤の宮を見る。「あれは承香殿の見栄にほかなりません。東宮を賑々しく着飾らせて、他の女御たちに見せびらかしたいのです」

「しかし、母親ともなれば―――」

「わたくしが何も知らぬとでも!

 年長の弘徽殿こきでんにたいする物腰、病がちでお子を成すことができぬ梅壷うめつぼへの物言いを。

 中宮ともあろう者が弱者に情けをかけられず、あろうことか打ち据えるなど、言語道断。東宮のお支度など、どうでもよろしい!

 禁色さえ身にまとっていれば、誰もが有難がるものです」

 そして声を落とし、優しく語りかける。

「あなたの東宮の身を案ずる気持ちはようわかります。ですが、御位への階段は一歩ずつあがるもの。事実の積み重ねです。

 まずは元服の儀を期日通りに済ませ、いかに多くの公達きんだちを分け隔てなく身のまわりに集めることが肝要。さすれば、東宮ご自身もみがかれましょう。

 なにも賑々しく着飾らなくとも、目映いばかりに輝きます。―――わかりましたか?」

 藤の宮はこくっと頷くと、視線を手元の扇に落とした。

「叔母上さまの御心を、承香殿さまにお伝えできたら……」

「さすれば、宮姫さまが御文をお書きになられたらいかがでしょう」絵式部は優しく言うと、藤の宮の視線に微笑んでみせた。「初めは驚かれましょうが、いずれはきっとお喜びになられます」

「……そうですね」藤の宮は意を決するかのように大きく頷くと笑顔をみせた。そして、文の相談をしようと紀乃に目を向け、小さく悲鳴をあげて扇の陰に隠れるように身を縮こませた。



 やっと気がついたか! 人の気も知らないで、吞気な会話しやがって。ふんっ、誰が承香殿の文の手伝いなんかするもんか!

 鼻息も荒く、紀乃は顔をそむけた。だが、その方向には座する絵式部の顔があり、バッチリと目があった。紀乃は慌てて目を前方にそらす。しかし、そこには大皇の宮の視線。

 まずぅ……。絵式部も怖いが、大皇の宮はもっと怖い。紀乃は震えあがった。

「あなたには訊ねておきたい儀があります。正直に返答なさい」

 藤の宮にみせた優しさなど、微塵も含まない絵式部の声。

「そんな頭ごなしに言わずとも、この娘は話してくれますとも」

 大皇の宮の声は存外に優しい。余裕たっぷりってとこか。このままでは、ないことまで自白させられそうだ。

 紀乃はガバッと平伏した。

「大皇の宮さまに申し上げます。これは何かの間違い、事実無根、冤罪にございますれば―――」

「―――さすれば、何でも話せますね」

「だから言ったではないですか、話してくれると」

 へぇっ!

 紀乃が顔を上げると、無言で頷きあう二人。

 しまった、はめられた……。



「それでは話していただきましょう」絵式部が膝を進め、にじり寄る。「あなたもそろそろお年頃。言い寄る殿方も、さぞかし多いことでしょう。これまでに、何人いたのですか?」

「そんな人―――!」

 紀乃は勢い込んで否定しようとして、ふと気が付く。さっきまで亀のように首を縮こませていた藤の宮が、扇の上から覗かせていた目を視線が合ったと思ったとたん、さっと引っ込ませた。そして、そろりそろりと興味深そうにまた目を覗かせる。

 まずい……。

 いまでこそ歳の近い女房も珍しくないが、宮の乳母めのとになった母に連れられて宮中に伺候しこうして以来、回りは常に年長者。女房なんて、宮中でも堀川のお屋敷でもこの院の御所でも、集まれば噂話と恋話だ。

 人払いで退出した後の控えの間なんて、だれがカッコいいやら素敵かに始まり、恋文から和歌の話しに、興が乗ってくるとそれ以上まで。なかには女房歴が十年や二十年にも及ぶ強者もいて、姫の寝所の忍び方に口説き方まで、はじめは女童のわたしを気にして小声で話していても、そのうちに大声になり、すべてを聞かせてくれた。

 宮に偉そうに話してきた交際の手順や結婚の手順、あれやこれやの話はここで仕入れたものだ。つまるところ、耳年増の知ったかぶりなのだが、宮の前でそれを告白するのは女の沽券に係わる。

「三人かな…五人くらい……」

「―――そうですか」

 絵式部は笑顔で大きく頷く。しかし、つぎの瞬間ギロリと睨んだ。

「一人ずつ、役職と名前を聞かせなさい!」

 紀乃が恐れおののく。「な、なんで…ですか……?」

「当然です!」絵式部は事も無げに告げた。「婦女子をかどわかす、不届き者!ことによっては解雇します」

 へたに名前をあげると、それこそ冤罪を着せてしまう。紀乃はガクッとうな垂れた。

「…ません……」

「よく聞こえませんが―――!」

 紀乃が涙目で応える。「嘘でした。誰もいません……」



「それならそうと早くおっしゃいっ!」

 最古参女房の本領発揮といった厳しさだ。

「文はどうなのですか? あなたのことですから、さぞや心ときめくような和歌を貰っているのでしょうねぇ。

 一つ聞かせていただけませんか?」

 紀乃が口をパクパクとさせ、やがてかぼそい声で口ずさんだ。

篝火かがりびに たちそふ恋の 煙こそ―――」

「―――世には絶えせぬ 炎なりけれ」下の句を、絵式部が引き取った。「わたしも大好きなお歌ですよ。ですが、あなたの光の君から送られた和歌が聞きたいですね」

 流石に源氏物語は知っていたか……。それでも、自分自身に恋歌を詠むのは悲しすぎる。

「…ありません……」

「えっ!なんですって―――?」

 ヤケクソ気味に紀乃が応える。

「貰ったことありません!」

 しかし、絵式部は柳に風と受け流した。

「そうですか。紀貫之の末裔のあなたに、和歌を送るのは勇気がいりますものね。殿方たちも、さぞやお困りでしょう」

 誤解だ……紀乃は唇を噛んでじっと耐えた。

 そりゃあ下手より上手いほうがいいが、それでもどんな和歌だろうが送られたら嬉しいに決まっている。それが日頃から気になっている人だったりしたら、小躍りしてしまうかもしれない。それとも、何も言えずに身を任せるか?

 まだしたことないけど、恋って素晴らしいものだと信じているのに……。



「それでは―――」

 ギョッとして紀乃が叫ぶ。

「まだあるんですか?」

「これが最後ですよ」

 絵式部のニコニコとした作り笑いに、紀乃はほっと息を吐いた。しかし……。

「わたしも経験があるのですよ。控えの間では、特に盛り上がりますものね。

 わたしは誰、あなたは誰、あの人は、この人は。ここ、院の御所は誰彼となく多くの殿方を目にしますし、耳にしますもの。

 あなたの意中の殿方は、誰なのでしょうねぇ?」

 紀乃は真っ赤になって口ごもった。

 ここで好きな人の名まで告白しろというのか!

 控えの間では、みんながわいわいと披露し合うから楽しいのであって、けっして尋問ではない。それに、そんな話題になると話しが振られぬよう隅のほうで小さくなっているのが常だ。

 この院の御所に出入りする人のほとんどが貴族とあって、見えないところのお洒落にも気を使う素敵な人も多いが、それはその人の一面であって、身分の上下にうるさかったり、遊び人との噂が多かったりと特定の人に魅かれたことは、これまで一度もない。こんなことを言っているから文の一つも貰えないのだろうが、それも仕方のないこと。

 完璧な人などいないと、頭ではわかっている。だれもが長所を持ち、短所を持つのが普通なのだろう。しかし、その短所でさえ素敵に見える、そんな人と恋がしてみたい。そう思ってしまうのは、まだ運命の人に出会えてないからだ!

 そう信じたい……。



「…いません……」紀乃は小さくなって俯いた。

「ふむ、口が堅いのは女房としていいことですよ。しかし―――」絵式部がちらりと視線を左にむける。「宮姫さまは、なにやら御存知のごようす。東北の対の屋では、さぞや楽しく盛り上がるのでしょうね」

 そして、藤の宮に向き直ると両手をついて平伏した。「この絵式部めも、どうかお仲間に加えてはいただけませぬでしょうか?謹んで、お願い申し上げます」

 紀乃が驚いて藤の宮を見ると、両手で扇を握り締め、視線をきょどきょど彷徨わせいる。

 これでは、何か知っていると言っているのと同じだ。しかし、宮とそんな会話など交わしたことなどない。

 何やっているのよ、あの娘は!

「知りません……」

 落ち着きなく、藤の宮が応える。しかし、絵式部に見つめられると気後れしたように後ずさり、大皇の宮の袿の裾をつかんで訴えた。

「しかと聞いたわけでもなし、ほんとうに知らないのですよ」

 まじまじと藤の宮を見て、大皇の宮は短く息を吐いた。

「それくらいでよろしい」そして、絵式部に目を向け「あなたも調子に乗り過ぎです」

「申し訳ございません」

 絵式部が悪びれたようすもなく、一礼して姿勢を正した。そんな絵式部に苦笑を漏らしながら、大皇の宮は紀乃に視線を向ける。



「紀乃、面を上げなさい」

 紀乃は上目使いに大皇の宮を見た。怒ったようすもなく、うっすらと優しげな笑みを浮かべている。

「この藤の宮を引き取るさいに、まだ女童のあなたも一緒にと命じたのは、わたくし。

 頃あいをみて裳着の判断をくだしたのも、わたくし。

 お支度の準備を整えたのも、わたくしです。

 しかれば、この藤の宮と同様、あなたもわたくしの娘の一人と思うています。どうか急がず、焦らず、事ある前にわたくしに相談して欲しい。

 わかりましたね?」

 それって平たく言えば、自由に恋愛なんかするなってこと……。

 しかし、そんなことを聞き返せるわけでもなく、まごまごしていると、小さな咳払いに続いてギッと睨む絵式部の視線。

 さんざん弄んで、いじめられて、素直に感謝できるか!



 紀乃は向かっ腹を立てながら平伏した。

「何てもったいない御言葉。心にしかと刻みまする。しかしながら、わたしにかぎってはそのような御心配はご無用にお願いいたします。わたしは恋愛で問題を起こすことなどございません」

 大皇の宮は口元にうっすら笑みを見せたが何も言わず、手元に文箱を引き寄せた。

「あなたにつらい思いをさせたのも、この書状にあります。これは一昨日に右大臣から届いたもの。右大臣家の姫は知っていますか?」

 そう言って藤の宮に目を向け、小首を振るのを確かめると紀乃に目を戻した。

 右大臣家は、男、女、女の三兄妹。しかし、末姫はまだ幼少で、乳母の手も離れていないだろう。と、すると……。

「朱鷺姫さまのことでしょうか? 御歳、八つにおなりかと」

 大皇の宮が頷いた。

「その姫の相談役を求めています。書状によれば、姉のごとく親身に教え諭せる教養ある者とあります。

 わたくしは藤の宮を送ることに決めました。当然、あなたにも右大臣家に移ってもらいます。

 この御所から女房を送るとなれば、へたな者では院の御名にも係わる。あなたに何一つ恥じることがないとわかり、ホッとしました」

 そりゃ院の御名は守られただろうが、わたしの沽券はズタボロだ……。

 紀乃はトホホ顔を伏せるが、そのすぐそばからは藤の宮のはずんだ声が。

「まぁ、わたくしがちいさい姫のお姉さんに……。わたくしにできるかしら?」

 そう言いながらも、その頬はゆるみっぱなしだ。あらゆる妄想に、目が完全にイッている。

 紀乃は小さく首を振った。朱鷺姫といえば、右大臣家を背負って立つ総領姫。未来の后がねだ。その重大さがわかっているの――――――。

 ちょっと待てっ!右大臣家の総領姫だった人物を二人知っている。一人は目の前の大皇の宮。もう一人は……承香殿だ!

 どちらに似ていようが、宮に扱える人種ではない。



 身を乗り出すように、紀乃は両手を着いた。

「御言葉ではありまするが、大皇の宮さまに申し上げます。お所変えといっても、宮姫さま付きの女房はわたし一人と手が足りず、移ったとしても先方にご迷惑をかけるのは必須でござりますれば―――」

「右大臣家より三人、その後さらに五人、手配してあります」大皇の宮は事も無げに遮ぎった。「こちらからは、あなたとこの絵式部を遣わします。絵式部はわたくしが郷にいたころよりの御傍付き。右大臣家の仕来たりや作法にも精通しています。安心してよろしい」

 へぇっ!

 紀乃は驚いて顔を上げ、まじまじと絵式部を見た。

「わたしでは不満ですか?」

 絵式部に問いかけられ、紀乃はぶるぶると首を振る。

 これまで藤の宮の身の回りの世話を一人でやっていたことを思えば、摂関家の姫並みの破格の待遇だ。それに絵式部が一緒ともなれば、心強いともいえるが……なぜ、大皇の宮の利き腕とまで言われる絵式部が……?

 そんなことより問題なのは、今までは怒られたとしても口うるさい隣のオバさんくらいの程度だったが、直接の上司ともなれば、そうもいかない。

 悪夢だ……。



 紀乃はガバッとひれ伏すと、最後の抵抗を試みる。

「しかれども、宮姫さまは裳着を済ませて、まだ半年。

 御自身の楽に手習い、和歌などと習い覚えなければならぬことも多かりしなれば、とてもではありませぬが、朱鷺姫さまに御教えするなどままならず、返って御紹介いただいた大皇の宮さまの御名の恥となりはせぬかと思いますれば、今一度ご再考のほど、お願い申し上げます」

 一息に、早口でまくし立てた。

「一人も二人も同じこと。あなたが教えればいい」

しかし、大皇の宮には通じそうもない。

「東北の対の屋から流れる、軽やかなる琴の音が誰の手によるものか、この院で知らぬ者などいないでしょう。

それに手習いに和歌ともなれば、もっとお手の物ではないのですか?」

 その目は藤の宮の手元に向けられている。

 膝に置かれた手には開かれたままの扇。そこに貼り付けられた書付の小川のせせらぎのような流麗な文字は、紛れもなく紀乃の手だ。藤の宮のまるい可愛い文字とは、誰が見ても間違いようがない。

 文の代書ともなれば、そっくりに真似て書いてみせる自信があるのだが、油断した……。



 紀乃は顔をしかめた。しかし、大皇の宮の顔は出来のいい子を見るかのように優しい。

「きょうは何首詠みましたか?」

「はぁ…五首ほどです……」

 紀乃は渋々と応えた。

「一首ずつ吟味したいところですが、その時間はなさそうですね」

 そう言われて、紀乃ははっとして顔を上げた。

 牛飼いの牛を追う声に従者らの賑やかな声は、車寄せの方からだ。絵式部が一礼すると、音もなく立ち上がり姿を消す。

「頭中将がお着きのようですね。今日のところはこの辺にしておきましょう」

 大皇の宮の声に、紀乃は苦虫を噛み潰したような渋い顔で、藤の宮はぱっと顔を輝かして頭を下げた。

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