その四、 初恋は和歌の調べに乗せて

 東北の対の屋に戻り、藤の宮を御簾の中に押し込めると、紀乃は面目をなくした恥ずかしさに背を向け、渋々ながら引越しの準備に取り掛かった。しかし、嫌々の作業の手は遅々として進まず、大皇の宮の意を覆す方策はまったく思い浮かばない。かと言って逆らうなど、もってのほかだ。

 今の右大臣は大皇の宮の末の妹婿で、身分的にも立場的にもまったく及ぶべくもない。大皇の宮の意は、右大臣家の総意だ。



 今回の文も、大皇の宮に推薦を求めたのではなく、その意向を御伺いするための文だったのではないかと思う。

 先の右大臣が亡くなって、一頃の権勢を失ったとはいえ、右大臣家に逆らうなど頭から考えられない。

 何よりも宮がノリノリでご機嫌だ。今も御簾の中で、たいした量もない文の整理をしながら、一通ずつ読み直しては思い出したような微笑みを袿の袖で隠し、綺麗にたたみ直しては文箱にしまっている。

 紀乃は重いため息を吐き、作業の手を休めた。そして、あちらにもっと大きな葛篭つづらがと思い、ふと取りに行くと、御簾の中からごそごそ動く気配と衣擦れの音がついてくる。

「そろそろではないかしら?」

 藤の宮の華やいだ声に、

「―――まだよ」

 紀乃は一言で返す。

「でもでも、早くしないと行ってしまわれるかも……」

 その声をあえて無視して、紀乃は大きな葛篭を持って御簾の前に戻ると、ヨッコラショと座りこむ。

 宮が心配しているのは頭中将のことだが、その人、御本人のことではない。頭中将が持っているであろう、文のことを心配してだ。

 頭中将こそが、東宮の信頼している文使いなのだ。

「まだ牛を繋いでないもの。きっと長いお話があるのよ」

 紀乃は顔を上げることもない。

 牛車は後ろから乗り、前から降りる。すぐにお帰りになるのなら、降りるために外した牛を繋ぎ直さなければならないが、その気配がしてこない。あの鈍重な牛を後ろ歩きに動かして繋ぐのだ。牛飼いの掛け声に、物音を聞き逃すことなど有り得ない。



「そんなに心配なら、お帰りのさいにお寄りいただきなさいよ」

 何気なさを装って、紀乃は上目使いにようすをうかがう。

 紀乃が目をつけた藤の宮の結婚相手候補こそ、頭中将、その人なのだ。

 頭中将は二十一歳にして、近衛府の中将と蔵人の次官である、蔵人の頭を兼任する秀才だ。

 蔵人とは国の根幹をなす、お役所と法が書かれた律令りつりょうには定められてはなく、後から実状に沿って作られた役職で、それだけ実務処理能力が求められる。

 そのお役目は、みかど、御本人の私的な秘書みたいなもので、宮中の節会の儀式などの諸事が滞りなく行われるように司るのがお仕事だ。

 長官である別当は左大臣が兼任する仕来たりになっており、蔵人の頭は実質的な責任者で、宮中では位階に囚われることなく、殿上人の上席に座ることになっている。

 出世街道の先頭をひた走っているような人だ。

 お家柄も、伯父上は内大臣、父君は中納言、母君にいたっては永松ながまつの宮家の二の姫と文句の付けようがない。それに、なんと言っても好ましい理由は、女性の噂を聞かないことだ。将来性抜群の頭中将がモテないはずないのに。

 この御所でも、容姿に自信のある女房が流し目を送る横を素通りするたびに、控えの間ではイケズの中将と呼ばれている。

 御役目がら、帝の傍近くに控えるためか、柔和な女顔が好まれる貴族社会に、眉根を寄せた難しい顔で歩む姿は凛々しく見えて素敵だ。

「でもぅ、お時間をとらせてしまったら、悪いもの……」

 しかし、藤の宮は素っ気無い。噂のあれこれに御様子と、何かにつけて耳に入れているのに、興味の欠片もなさそうだ。

「あっ、そう!」



 紀乃は内心を押し隠して仕事に戻った。こんなに心配しているのも知らないで、この娘はやれ相談役だ東宮だと浮かれやがって……ぶちぶち。

 次から次に文句が出てくる。すると御簾越しに、藤の宮が座り込んだ。紀乃がふと顔を上げると、改まった顔で紀乃に語りかける。

「紀乃、この対の屋に戻ってからのあなたの態度は目に余ります。伯母上さまと絵式部のことを、まだ怒っているのですか?あれは、あなたのことを心配してのこと。いつまでも怒っていると、わたくしも怒りますよ」

 何かと思えば、さっきのこと……。

 あんたは他人の心の傷を、そっとしておけないのか!

「絵式部も言ってたでしょ。紀乃は頭がいいから、殿方が遠慮してしまうと」

 あれはわたしが漢籍を読むのを皮肉っているのだ!

 紫式部のオバさんも日記の中で、女が学ぶべきでない漢籍に造詣ぞうけいが深いことを揶揄やゆされ、日本紀の御局なんてあだ名を付けられたと愚痴っているのを知らんのか!

「わたくしだって、恋歌など頂いたことなどないもの。紀乃だったらそのうち、きっと素敵なお歌を頂けるわ」

 いたわるような藤の宮の笑みに、紀乃の頭のどこかがブチッと切れた。

「あんたは宮姫だから、大皇の宮が鉄壁な城砦で守っているの!

 わたしなんて、真っ平らな平地に垣根だってありゃしない―――貧乏学者の娘のわたしとは立場が違うでしょ!」

 強く言い返されて、とたんに藤の宮がおろおろしだした。

「紀乃だって、あの古今和歌集の紀貫之きのつらゆきの一門だもの……和歌の名門のお家柄でしょう……」

「何代前のじいさんよ!」

 紀乃は鼻で笑って吐き捨てる。

「わたしの家は傍流の傍流。女文字で日記を書いた、ナヨッた爺さんの名を出さなきゃ、誰も知らない家柄なの。

 一人息子を遠い下野しもつけの空の下で生活させて、一人娘を働きに出し、右大臣家のお情けで生活させてもらってる学者の家が名門なもんか!」

 紀乃は床をバンバン叩いて、腰の引けた藤の宮を座り直させる。

「だいたいあんたはね、何かっちゃ東宮、東宮と。あんなハナタレのミミズ文字の文なんか、何の役に立つの。

 現実を見ろ!」

「何て不敬なことを……」

「わたしはお漏らしの世話までしているのよ。いまさら尊敬もあるかい」

「それは幼きときのこと……いまでは御立派に東宮職を御務めになられて―――」

「ふんっ、すっかり雲上人ねっ!」

 紀乃が鼻を鳴らして言葉を遮る。

「あんた、実際に対面したのはもう何年まえなの? 東宮が行啓でこの御所を訪れたさいに、対の屋越しにちらりと見るぐらいでしょ。

 わたしなんて階のすみっこで控えたまま叩頭こうとうして、顔だって見られやしない。わたしたちの可愛かった弟は、もういないの」

 そして、紀乃は真顔で藤の宮の目をの覗き込む。

「宮に必要なのは、楽しかった思い出の人ではなく、生活の面倒をみてくれる、実際の優しい人よ」

 藤の宮の瞳が揺れ、長い睫毛まつげの陰が落ちる。

「あのね…紀乃……」ぽつぽつと言葉をとぎらせる。「わたくしは、結婚すること…ないと思う……」

「まだ尼寺なんて言っているのっ!」頭に血が上り、紀乃は思わず怒鳴りつけた。「もう勝手にしなっ! そのかわり、わたしは一緒に行かないわよ。この若い身空で、何であんな抹香臭まっこうくさいところで半下はんした仕事なんてするかっ」

 そして、ぷいっと顔を背けた。



「紀乃……」藤の宮の眉が寄り、大きな瞳に涙が浮く。「紀乃は、わたくしよりも……」

「はぁ~っ! 何のことよ?」

「もう、いいの……」藤の宮はぷるぷると首を振り、うつむいた。そして、ギュっと手を握ると震える声を絞り出す。「わたくし…紀乃のこと、いつでも応援しるから…紀乃は幸せになって……」

 藤の宮が涙顔を上げ、無理に微笑む。

 何のことだか、さっぱりわからない。

 前々から早とちりの不思議な娘だったが、このところ前にも増して不思議さに輪がかかってきている。

 紀乃が膝を進め、問い質そうとすると――。

 簀の子縁から足音が近づいてくる。一瞬、また絵式部かとギョッとしたが、小走りにちかい早歩きは取り次ぎ役だ。

 紀乃は妻戸に向き直り、居住まいを正した。やがて、衣擦れの音と共に取り次ぎ役が妻戸の前に控える。

「藤の宮さまに申し上げます。頭中将さま、お帰りのさい、御挨拶にお寄りしたいとのこと。いかが致しましょう?」

 紀乃は訝しげに眉根を寄せる。

 頭中将は帝の御使いとして、たびたび院の御所を訪れていたが、今まで藤の宮との面会を求めたことなどない。いつも文の受け渡しをすると、楚々くさとお帰りになるのが常だ。それが、今日に限って……?

 紀乃が数瞬のあいだ、何と返答させるか迷っていると  。

「御通し…してください……」

 頭越しに藤の宮の声。

 紀乃が驚いて振り向くと、藤の宮が目に涙を溜めて見詰めてきた。

 いやに力がこもっているけど……もう考えている時間もない。何があるにしろ、どうせ対面させようと思っていたのだ。

 藤の宮の涙声に、怪訝けげんそうな顔を上げている取次ぎ役に向かい、

「宮姫さまのお言葉のままに」

 と、言い置く。ほっとした顔で立ち去る取次ぎ役を見送って、紀乃は御簾の中に潜りこんだ。



 懐から畳紙たとうがみを出し、藤の宮の頬を拭いてやる。目が赤く、まだ鼻をクスンクスンいわせているが、どうせ会うのは御簾越しだ。出来れば、着替えさせて、化粧を直してやりたいのだけれど、引越し作業の後片付けをして頭中将の座を作らねば。

「わたくし、がんばるからっ」

 何を頑張るのだか知らないが、問い質すのは後だ。

「はいはいっ」

 紀乃はおざなりに返事しながら藤の宮に背を向け、急いで御簾から這い出ると葛篭の片付けにかかった。そこに、一人、二人と手すきの女房が顔を出す。大皇の宮が差し向けてくれたのだろう。集まりがいいのは、頭中将が目当てか。しかし、泣いたあとの物静かで儚げなようすの宮にくらべたら、誰もが引き立て役だ。

 紀乃は内心ほくそ笑むと、テキパキと指示を与えて対の屋を片付けさせ、お部屋付きの女房のかわりに室の隅に控えさせる。そして、御簾の中に潜り込み、藤の宮の下手に控えた。

 横目に見える藤の宮は、沈みがちにうつむいているが、落ち着いているようすだ。



 紀乃はほっと息を吐く。ほどなく先導の女房に案内されて、頭中将があらわれた。

 頭中将は居並ぶ美形の女房たちに目をくれることもなく、優雅に藤の宮の前に作られた座に着いた。

 これから宮中に参内するのだろう。頭に黒の立て烏帽子えぼし、表が白で裏が紫の桜襲に濃い紅の出だし衣をのぞかせた直衣姿のうしすがただ。

 ―――とすると、大皇の宮の朝っぱら早々のお呼び出しは、頭中将の参内さんだいの時間に合わせてか……。

 そう思うと、せっかくのお似合いの凛々しいお姿も怨めしい。

 紀乃が上目使いに見ていると、頭中将にしては珍しい微笑を浮かべて見せた。そして、扇を開き、口元を隠すようにして口上を述べる。

「本日は突然の申し出、失礼いたしました。

 不作法を続けておりましたが、御役目がら目立ちますがゆえ、口性ない輩にわたしなどの名と共に藤の宮さまの御名が汚される事を思うと、つい足が遠のいてしまいました。

 しかれども、さきほど大皇の宮さまより右大臣家に居を移されることを聞き及び、その前に一言でも御挨拶をと参上いたしたしだいであります」

 宮中でしなれているのか、まったく隙のない挨拶だ。

 丁寧に謝罪しながらも、それはあなたのためだったと、さり気なく聞かせる。

 表立っての対立を嫌う貴族社会の保身術としては、満点に近い。

 紀乃は素早く頭の中で返答の言葉を組み立てた。あとは宮が口伝えの仕草さえしてくれれば、いいだけなのだが……。

「わたくしも、お忙しい頭中将さまに文使いの真似ごとなどさせてしまい、心苦しく思うておりました。

 どうかお気になさらず、おくつろぎください」

 藤の宮の声に、紀乃はあんぐりと口を開けた。



 初対面の殿方に声を聞かせるなんて……尻軽姫と噂されたらどうするのっ!

 頭中将も驚いて眉をピクリとさせ、目を見開いている。しかし、藤の宮は先ほどまでうつむかせていた顔をしっかりと上げているばかりか、軽やかに笑ってみせた。

「これは失礼いたしました。わたくしの傍勤めが頭中将さまのお話をよく聞かせてくれますから、初対面とは思われず、つい不調法をいたしました。どうぞお許しください」

「傍勤め殿が……」

 頭中将は目を細め、ちらりと視線を動かす。

「紀乃は紀氏の家柄を持つ者。和歌は勿論のこと、その書も、奏でるそうの琴も見事なものです。わたくしは乳姉妹であることが嬉しい」

 頭中将が視線を戻し、フッと笑った。

「藤の宮さまは、傍勤め殿がお好きなのですね」

「はい」藤の宮がコクリッと頷く。「実の姉とも思うております。

 わたくしがこうしていられるのも、紀乃のおかげ。紀乃はいつも優しいってわけではないけれど、それもわたくしのことを思ってのこと。

 わたくしは紀乃のことが大好きです」

 紀乃は居心地の悪さにうつむいた。

 さっきから紀乃、紀乃って、この娘はどうしちゃったんだ!

 横目で藤の宮を睨みつけ、小さく咳払いする。

「頭中将さまは御忙しい身。いらぬことで御時間をお取りしてはご迷惑となります」

「そうでしたね」藤の宮が小さく頷き、頭中将に微笑みかける。「御覧のとおり、わたくしは紀乃がいなければ、何もできないので―――」

「―――だから、もういいって!」

 思わず口から出て、頭中将の視線に紀乃は慌てて口をつぐんだ。

 広げた扇で隠してはいるが、その口元には笑みが零れているに違いない。

 紀乃は恥ずかしさにうつむき、唇を噛む。その耳元に、柔らかな笑い声が届いた。

「お二人の仲の良いことはよくわかりました。しかれど、もう御一方、幼馴染を思い出していただけないでしょうか。わたしはその御方の文使いなのですから」そう言って、傍らの文箱を引き寄せる。「本日は急なお召し故にお時間がとれず、和歌が一首にございます」

「わたくしのことを思い出していただいた、その御心だけで、わたくしは幸福しあわせにございます」

 藤の宮がにっこりと微笑んだ。

 いつもの宮の笑顔だ。



 紀乃はほっと息を吐き、御簾の端によると背後に控えていた女房に合図を送り、文箱を受け取らせた。うやうやしく御簾の下から差し入れられた文箱を、藤の宮のもとに運ぶ。紋もない黒塗りの文箱。宮が組み紐をそうっと解き、両手で大事そうに蓋を開けた。

 空色の鳥の子紙と薄茶の羽。

 藤の宮は指先で羽を摘み上げると、顔の前でくるりと回して微笑む。そして、蓋の上にそっと置き、文を開いた。

 紀乃が横目で盗み見て、相変わらずのミミズ文字に顔をしかめる。しかし、その瞬間、紀乃は眉をピクリッと引きつらせ、藤の宮は頬を朱に染めた。


   かぜに舞う

     空に旅する

        ほととぎす

       翔る翼は

          藤の花房


 恋歌とは、生意気な……。

 本来の歌の意味は、ほととぎすが飛び行くのは藤の花だろう、くらいしかない。しかし、羽とともに送られたのが藤の宮ともなれば、藤の花房が誰を指し、ほととぎすが誰なのかは明白。

 もともと歌の題材として梅にウグイスと同様、藤とホトトギスは付き物だ。おまけに、渡り鳥のホトトギスを空に旅するとは、言いえて妙。そのホトトギスに自分を重ねるとは、元服前のハナタレにしてはうますぎる。

 文箱の中身を知っていたことからも、どうやら入れ知恵したのは頭中将に違いない。

 けれど、宮はそんなことなど、どうでもいいらしい。

「まぁ……こんな戯れ歌を!」

 その口調とは裏腹に、表情はずいぶんと嬉しそうだ。そして、その視線がちらりと動く。口元には、いたずらっぽい微かな笑み。

 あんた……今、勝ち誇ったろ! ふんっ、ハナタレからの恋歌なんて、くやしくないもんっ!

 紀乃はつんっと顔を前に向けた。そこには、相も変わらず微笑を湛えた頭中将が座している。



「お喜びいただけたようで、何よりでございます」

「もうおふざけばかりで……藤が困っていたとお伝えください」

 藤の宮は終始にこやかだ。

「―――でしたら、返歌をいただけませんでしょうか?」

「へぇっ!」

 藤の宮の笑顔が凍りついた。

 その横で、紀乃がにんまりと笑う。

 送り主に合わせ、気のきいた和歌を返すなど、宮の最も不得手なことだ。しかし、頭中将はさらに言いつのる。

「ご無礼の段は重々に承知しております。

 されど、わたしがお見受けしたところ、あの御方のお悩みはとても深く、藤の宮さまの和歌の一首でもいただけますれば、御心お休まりになられるのではと拝察はいさついたします。

 おりよく、わたしはこれより宮中に参内するところ。この場で頂けますれば、すぐにでもお届けできましょう。

 いかがでござりまするか?」

「ですが……」

 藤の宮は困ったように視線を彷徨わせ、紀乃に目をむけると萎れたようにしょぼんっとうな垂れた。宮も反省しているみたいだし、さっきのことは水に流そう。それに、これは見過ごすことなどできない。なんでもほいほいと言うこときく、軽い姫だと思われたら一大事だ。



「恐れながら!」

 紀乃は膝を進めると、その背に藤の宮を隠した。

「頭中将さまは誤解なされているようですが、宮姫さまが初対面で頭中将さまにお声を掛けなされたのも、日頃よりの感謝の心のあらわれ。

 考えのない、軽々しい姫と取られるのは心外にございます」

「藤の宮さまにお声を頂けるとは、光栄の至り。そのようには、けして思っておりません。

 わたしはただ、あの御方の御心を思ってのお願いにございます」

 紀乃がさらに言いつのろうと前のめりになると、うしろから袖をクイクイッと引かれた。

 紀乃はその腕を振り払う。

「たかが和歌の一首で返歌を求めるなど、古今を持ってしても聞いたことがございません。宮姫さまが当惑なされるのも、当然のこと。しかるべき手順を踏み、誠意をお見せくださるのが筋ではないでしょうか」

 紀乃がキッと頭中将を睨みつける。しかし、頭中将も紀乃を真っすぐに見つめ返し、引く構えを見せず、透きとおった堅い声で返す。

「これはわたしの一存にてのお願い。

 あの御方の御心ではございません。しかしながら、あの御方の御心の安寧あんねいを願うのは、貴族としては当然のこと。

 藤の宮さまも、御自身の体裁をお気になされるまえに、貴族としての義務をまっとうすべきではないでしょうか」

 クイクイッと引かれた袖を、紀乃は乱暴に振り払った。「ただ屋敷にこもるばかりで、弁明の場も与えられぬ身の姫が、御自身の風聞を気に掛けて何がいけないのでしょう。弱き者の身を案じられず、ただ己の心の安寧だけを願うは傲慢にございます!」

「藤の宮さまの身を案じる心はわかりますが、言葉が過ぎるのではごさいませんか、傍勤め殿」

 ぶつかりあう視線が火花を散らす。だが―――。



「紀乃……」場にそぐわぬ、のんびりした声がクイクイッと袖を引く。

 さっきから、何よ!

 紀乃が肩越しに振り向けば、そこにはもじもじと扇を開いたり閉じたりする藤の宮の姿。

「わたくしはお返事を書いてもいい……と言うか、書きたいのだけど…和歌はちょっと……」

 あんたの心配はそっちかい! さっき何で怒られたか、わかってるの!

 紀乃が睨みつけると、藤の宮が縮こまった。

 ぷいっと顔を戻すと、そこには笑みを扇で隠した頭中将の姿が紀乃の怒りにさらなる拍車をかける。

 紀乃は内心の憤懣を押し隠し、硯箱を取った。

 言いたいことは山ほどあるが、これ以上はさらに頭中将の笑いを誘いそうだ。

 怒りに任せ、乱暴に墨を摩り、藤の宮の前に押しやった。そして、薄紫色の鳥の子紙を選び出して手渡す。あれこれと世話を焼きながら、不安そうな面持ちの藤の宮の耳元に唇を寄せ、和歌を一首囁いた。

 藤の宮はぱっと顔を輝かせたが、次の瞬間、ぽっと両の頬を紅く染める。うつむいてもじもじと何度も紀乃に目を向けるが、紀乃は斜め後ろに控えると、つんっと顔を背けた。

 いやなら、自分で考えなっ!

 藤の宮は諦めたように渋々と筆を動かし、和歌を書き上げた。


   霞み立つ

     春日にふるえる

          花房の

         咲くは遠きし

           朝陽みるまで


 朝霧に震える蕾も、いずれは朝陽の暖かさに咲くだろう、っていう和歌だ。しかし、その裏には隠された意味がある。

 言わずと知れた花房とは、藤の花。つまりは藤の宮のこと。そして、朝陽とはこれから昇る太陽。春とならぶ、東宮の例えだ。

 詰まるところ、この歌の真の意味とは。どんなに辛い日々が続こうとも、あなたさまをお待ちしております。となる。

 恋歌の返歌は、おもいっきり甘い恋歌だ。



 藤の宮は恥ずかしそうに小さく署名すると、うつむきながら差し出した。それを紀乃は綺麗に飾り折にして、文箱に納める。そして、花瓶の膨らみかけた桜の蕾をつけた小枝をはさみでチョキンッと切り、これみよがしに一緒に納めて蓋を閉じた。

 ほんとうなら、藤の花房がいいのだが、季節がら芽も出ていないので致し方ない。

 紀乃は組み紐を丁寧に結び、御簾の下から差し出した。

 文箱は紀乃の手から離れると、礼儀正しく見てみぬふりをしていた頭中将の傍らに運ばれる。

 誰にも歌才があるわけでもなく、代作者がいるのも当然なことなのだ。要するに、誰が、どんな和歌を、誰に、送るのかが重要であって、作者が誰なのかはあまり問題でもない。

 藤の宮は頬を紅く染めて、上目使いに文箱を見詰めている。頭中将の謝辞の言葉も、辞去を告げる挨拶も耳に入ってないようだ。二言、三言、ぼそぼそと返答するのがやっと。

 頭中将が座を後にするため、かるく一礼する。しかし、先導に立とうとする女房がいない。あれだけ目の前でやりあったのだ。へたに先導して怒られでもしたら、とばっちりだろう。

 紀乃は先導のために、自ら席を立った。藤の宮が怨めしそうに下から紀乃を見る。それを紀乃は真正面から受け止めた。言いたい事があるのは、お互いさま。だけど、それは頭中将が帰った後だ。

 ふんっと紀乃は目を反らした。

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