その三 東宮の有りよう
「あいつ、わたしまで一緒に釣ろうとしたのよ!」
紀乃は
「それで、北の方とはな――」大夫の君は膝を叩いて、大笑いだ。「あいつが焦る姿、見たかったぜ」
牛車は
「誰かしら……」
紀乃が呟くと、大夫の君が短くうめいて顔を
「
紀乃がプーと吹き出した。左近少将といえば、
「笑い事じゃないぜ……」
大夫の君がぼやく。
「さっさと行って、謝ってきなさいよ」
紀乃は嫌そうに逃げる素振りの大夫の君の背を、そっと押した。
「早く行かないと、余計に長くなるわよ」
「わかったよ――」
大夫の君が言い捨て、牛車のまえに
紀乃はその姿を見送り、榻が置かれるのを待ってから、ゆっくり牛車を降りた。
すると、宿りへとつづく簀の子縁から、タッタッタッという小走りにもちかい足音が響く。誰だろうと見ていると、珍しいことに宿りの入り口から顔を覗かせたのは
常磐は紀乃の姿を見とめると、ホッと肩の力をぬき、足早に近づいて来た。
「どこ行ってたのよ……?」
その声は非難するというよりも、困惑と心労で疲れ切ったというものだ。そして、紀乃のまえに立つと、辺りを気にするように声を落とす。
「貧乏宮――東宮が来てるの!」
紀乃が怪訝そうに眉を寄せると、常磐は不安そうに
「内密に紀乃さんに会いたいっていうから、局に通しちゃったんだけど…よかったのかな……?」
紀乃はチラリと左近少将の牛車に目をやる。
どうやって来たのかも、その理由も、何はとなしにわかった。
紀乃は呆れて、大きく息を吐いた。
「そんなこと気にする御方でもないし、気にする余裕もないだろうから、大丈夫よ」
それでも不安そうにする常盤を誘い、宿りを出る。
「わたしは東宮のお相手をするから、もう少しだけ宮のことをお願いね」
会うまえから疲れた調子で言うと、常磐はホッとしたようすでコクッと頷き、左に折れて
紀乃はそのまま進み、
紀乃が一声かけて枢戸を引き開ければ、振り向いた東宮は紀乃の挨拶の言葉の間もおかずに駆け寄って来た。
「どうしてなの?紀乃はなんで反対なの?」
紀乃は眉間にしわを寄せ、厳めしい顔をつくった。
「お座りくださいっ!」
低い声で言って睨みつけると、東宮はしぶしぶといった感じで座に着く。それでも身体は前のめりのまま、紀乃が座るのも待ちきれないといった感じだ。
紀乃は東宮を落ち着かせるためにも、ゆっくりと座に着き、東宮と相対した。そして、東宮の気勢を遮る。
「順を追って、わかるように始めからお話しください」
東宮は紀乃の
「午後になって
あの
紀乃は呆れながら、東宮の叫びを聞いた。
「紀乃なら、必ず喜んでくれると思ったのに!」
こうして居ても立ってもいられず、宮中を抜け出してくるくらいだ。ほんとうに宮のことが好きなのだろう。だけど、それだけで宮を任せるわけにもいかない。
「あなたに宮を守れるというの?」
東宮がホッとしたように浮かしていた腰を降ろし、笑みを浮かべた。
「そりゃ、ぼくは東宮だもん――」
「――だから、何っ!」紀乃は途中で口をはさみ、言葉を遮った。「また頭中将に守ってもらうの?」
東宮が目を見開き、固まったように黙り込んだ。
紀乃はグッと東宮を睨み付ける。
「東宮であるという意味も知らず、ただその時、その場に生まれたというだけで、天に与えられたかのように誇るは見苦しいばかり。
男だったら、その手で掴み取ったものを誇りなさい!」
静かになった東宮をまえに、紀乃は大きく息を吐いた。この子は何もわかってない。なぜ頭中将がこの日を選び、わざわざ身近な人物の名を出してまで、何を教えようとしたのかさえも。
紀乃は静かに目を閉じる。
東宮に字を教えたのは、まだ
そこには名を上げようだの、何らかの利益を得ようなどという、目的など何もない。ただ机の前に座らせて置きさえすれば、東宮が傷をつくることもなく、好きなことをする時間が持てたからだった。
その自分が、東宮の有りようを教えなければならないとは、皮肉なもんだ。
「今夜、あなたがここに来たことを世間が知ったら、宮はどうなると思う?」
紀乃は目を見開き、じっと東宮を見詰める。
「明日の評定でどのような結果が出ようとも、宮に求婚しようという物好きはまずいないでしょうね。
誰もが、東宮が宮中を抜け出してまで会いに来るほどの姫に、横合いから手を出す
あなたはそのことを、ちらりとも考えたの?」
東宮が無言で首を振るのを確かめると、重々しく続けた。
「明日の評定で添い寝役が決まれば、
誰もが、あなたの行動に注目し、あなたの言葉に耳を傾けるようになる。
もし、あなたが誰かを名指しで批判しようものなら、その者は
もしも
進められていた縁談も、すべてが中止。
家の者たちは、あちらこちらに頭を下げてまわり、あなたの真意を確かめるために奔走するでしょうね。
なぜだかわかる?
それが、その家の行く末を左右するからよ。
あなたの東宮というその地位は、天から与えられた贈り物なんかでは決してない。この国とそこに住まう多くの民草を、あなたは背負わされて生まれてきたの。
だからこそ、誰もがあなたの足元に
多くの他人の人生を、
あなたは子供でいてはいけないの」
紀乃は東宮が理解できるようにしばしの間を開け、膝のうえの手をぎゅっと握り、
「それとも、その東宮という地位、宮のために捨ててくる?」
東宮が驚きに目を見開くのを見て、紀乃はゆっくりと問いかける。
「それなら、わたしも宮も歓迎するわよ。あなたがただの貴族であれば、宮になんの不都合もない。わたしだって、あなたたちのために一生仕えたっていい」
紀乃は東宮の目をふかく覗き込み、再度問いかける。
「―――どうするの?」
東宮の目が迷うかのように左右に揺れる。しかし、ゆっくりと
「そんなことはできないよ」そして、震える声を絞り出した。「こんなぼくでも、支えてくれる多くの者がいる。その者たちの信頼を裏切るなんて、ぼくにはできない……」
紀乃はほっと息を吐き、握り締めていた手を緩めた。
その
「今夜は、宮には会わずに帰りなさい」
紀乃の声に、東宮は声もなく、微かに頷いた。
男が生きる道を決めた、華の日だ。膝のうえで握りしめた拳に落ちる滴は、見なかったことにしておこう。
紀乃は暖かな目で見詰め、口元を緩めた。すると、局のまえの
不審そうに眉根を寄せて座を立ち、枢戸を引き開けると肩を上下に息をする常磐だ。
本日、二度目ともなれば驚きもしないが、常とは違う慌てように、紀乃はキョトンと目を丸くした。
「宮姫さまは一緒なの?」
常磐が紀乃の肩越しに、局を覗き込もうと爪先立つ。
「宮なら、対の屋でしょ」
紀乃の返事に、常磐が呆然となってへなへなとその場に座り込んだ。
「どうしたのよ……?」
常磐が目の端に涙を溜め、紀乃の顔を見上げた。
「いないのよ……どこにもいないの!」
そして、紀乃の顔に向かって習字の練習用に用意されていた土佐の紙を突き付けた。
丸っこい可愛らしい手は、見間違いなく宮のもの。その文字で、和歌が一首。
舞い散る桜の
身なれば
しかとも隠せ
春の宵闇
数にも入らぬ、儚い身ですから、どうか隠してください、春の闇夜よ……。
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