その二 狸御殿、再び!
承香殿の使者は、あくまでも紀乃の私的な来客として迎えられる。そのために使者は三条邸の近くに牛車を停め、徒歩で現れた。
紀乃は
使者は驚きの表情で
警備に立つ、
時は黄昏、
使者が怖そうに、紀乃に身を寄せた。
大皇の宮の元に遣わすほどの命婦を自分のところに遣わすとは、宮中での裏工作はちゃくちゃくと進んでいるらしい。
紀乃は驚きを隠し、闇に飲み込まれようとしている道を歩みかける。―――と、慌てたように後ろから腕を取られて引き止められた。播磨少佑が今にも叫びだしそうな顔で、抗議の声を上げようとする。それを、紀乃は口元に指を立てて黙らせた。
「あなただって、他の者に聞かれたくない話のはずよ」
播磨少佑がグッと言葉を飲み込み、黙り込んだ。しかし、その手を放そうとはしない。紀乃は構わず歩みを進めると、身を寄せるようにすぐ後ろを追いてくる。少しの物音でも身をビクつかせ、歩みを止める。
紀乃はそのようすにほくそ笑む。よく耳を澄ませてみれば、付かず離れず追ってくる足音が聞こえるはず。衛士たちが声も掛けずに門を通してくれたのも、紀乃が平然として暗がりの道を歩けるのも、大夫の君が護衛として見守ってくれているからだ。
紀乃は一町ほど離れた四つ辻で足を止めた。
播磨少佑がビクビクと落ち着きなく辺りに目を向ける。その目が、薄闇のなかから近づいてくる牛車に釘付けとなった。
紋もない
牛車は音もなく、二人のまえで停車した。
紀乃が乗るように促すと、播磨少佑は怖々となかを覗き、おっかなびっくり引け腰に牛車に乗り込む。つづいて紀乃が乗り込むと、肩を並べるように隣に座を取った。
紀乃は込み上げる笑いを必死に抑える。
そこの覗き窓から外を見れば、狩衣姿の大夫の君が素知らぬ顔で立っているのに。
しばし牛車の揺れに身を任せ、やがて
その色のない庭に、播磨少佑が体裁を気に掛けてか、口から漏れ出しそうになった悲鳴を慌てて飲み込み、灯りの燈った車宿りにほっと息を吐く。
宿りには、女性の姿が見えない。完全な入り婿だとは聞いていたが、難波参議の生活の一部が透けて見えるようで、
牛車を降りた紀乃たちの案内に現れたのも、例の若侍だ。一瞬、大夫の君と睨み合いヒヤッとしたが、クルリと背を向けて案内に立つ。
寝殿につづく
紀乃がさきに立ち、寝殿に足を踏み入れると、難波参議の弾むような声だ。
「よう来た、よう来た!」
播磨少佑が目を丸くして「難波参議……」と呟き、足を止めた。
宮中で顔は知っているが、敵方の重鎮なだけに、口を交わしたことなどないのだろう。しかし、難波参議はそんなことにも頓着せず、笑顔のままだ。
「さぁさぁ、遠慮せんとなかに」
尻込みする播磨少佑の背を押すように、紀乃は中央に用意されていた円座に座らせ、妻戸のまえに戻り、その場に膝を着く。後は、難波参議のお手並み拝見だ。
「こないなところまで、よう来てくれたな」
「―――いえ、わたしは……」
「美人のお客はんなら、いつでも歓迎や」
戸惑う播磨少佑を
「さっそくで悪いけどな、これを
そう言って一通の立文を取り出した。紀乃が仲介に立ち、播磨少佑の元まで運ぶ。そのとき見えた文字は、表書きが承香殿、裏書が左大臣だ。
播磨少佑の眉が、怪訝そうに歪む。
「これは……」
「なあに、約束の書状や」難波参議は笑って答えた。「左大臣はんも喜んでたでぇ。承香殿はんみたいな美人の後見をできるなんて、まさに男冥利に尽きるってもんや」
「後見なんて―――!」播磨少佑は絶句し、怖そうに文を遠ざける。
「そない驚かんでも……」
難波参議がハッハハと、さも可笑しそうに笑い声を立てた。
「―――されども、御後見なら右大臣さまがお勤めになられております」播磨少佑が早口で捲くし立てる。
「それが、あかんかったんやな……」難波参議が大きく首を振る。「こう言っちゃなんやけど、右大臣はんはまだまだ若造や。女心の機微がわかっとらんがなぁ。波風立たんよう務めるだけで精いっぱい、承香殿はんも不安にもなるがな」
「ですから、大皇の宮さまが共に後見を―――」
難波参議がうんうんと何度も頷く。
「そりゃあ大皇の宮はんはようやっちょるけどな、とうに宮中を離れた御方。宮中の物事に疎くなっとるんと違うか……?」
そして声を潜め、身体をまえに乗り出した。
「あんた、元服の儀の延期、断られたそうやな」
「どうして、それを……!」
播磨少佑が驚きに目を丸くした。
「誰からでも、ええがな……」
難波参議が顔のまえで手を振り、問いかけをはぐらかして、ゆったり座り直した。
「この絹は
「それは、そうですが……」
播磨少佑が顔に苦渋の表情を浮かべ、うつむいて黙り込む。その静寂を打ち破るように、難波参議がポンッと手を打った。
「そやった! これも、渡しとかな」
そう言って、背後にあった包みを取ると播磨少佑へと押し出す。
目線で促され、紀乃が仲介に立って荷を運ぶ。持った感じは柔らかな感触だが、見た目より案外に重い。膝のまえに荷を置くと、播磨少佑は怖々と腰を引いた。
「開けてみぃ」
難波参議の嬉々とした声にも、引け腰で手が伸びない。
「紀乃、開けたれや」
その声に、紀乃は荷を解いた。あらわれたのは、赤や青といった色とりどりの反物だ。
播磨少佑がきょとんっと目を見開く。
「どや、見事な織りやろ」
難波参議の声に、紀乃がそのうちの赤の反物を手に取り、播磨少佑の膝の上に広げて見せた。
その反物の見事な織りに、二人の口から思は知れず感嘆の声が漏れる。
播磨少佑がひと撫でして、うっとりと目を細めた。赤や青といった織物は、
「その反物で
「御冗談を……」静かに嘆息し、首を振る。「わたしに許された物ではありません」
「なあに、すぐ必要になる」そして身を乗り出し、含みある笑みを見せた。「ちょいちょいと口添えしてくれはった、おまえさんのこと、左大臣はんが忘れるはずあらへんがなぁ」
難波参議にまっすぐ見つめられ、播磨少佑の目が落ち着きなく、反物とのあいだを行き来する。
この使いさえ上手くこなせば、すぐそこに憧れていたものがあるのだ。しかし、それは裏切りにも繋がる。罪との狭間で、揺れ動く心はあと一押し。
紀乃は隠れるように、そっと息を吐いた。
こうして罪なき真面目な女房が、闇の世界へと落ちて行くのか……。恐ろしいものを、見てしまった。―――と、難波参議がこちらを向き、口の端をにぃーと上げた。
「紀乃、おまえもよお働いてくれたな。ほれ、褒美や」
そう言って背後から取り出したのは、播磨少佑に渡したのと同じ包みだ。
こいつ、最後の一押しにわたしを使う気だ!
紀乃がきつい視線で睨みつけるが、難波参議は余裕のニヤニヤ笑いだ。
背後からは、播磨少佑のじーと見詰める視線が感じられる。
ここで、この包みを突っ返したりしたら、彼女も右に
紀乃はすくりと立ち上がった。
「これだけ働いて、これっぽっちの褒美なんて! 参議のお心、よーくわかりました」
そのまま、足音も荒く室を横切り、妻戸を押し開けて振り向く。「ちょっと北の方さまに御挨拶に行って参ります。あれやこれや口走るかもしれませぬが、それもぜーんぶ、参議の御責任。あしからずっ!」
顔をつーんとまえに戻し、
若侍がふっと目を逸らし、声を押し殺して肩を小刻みに震わせて笑う。
この瞬間、勝ったと思った。
「ちょっと待たんか、こらっ!」
背後から、難波参議の慌てた声だ。
紀乃が振り向けば、難波参議が腰を浮かせて手招きする。
「―――わかった……。わかったから、戻って来―な!」
紀乃が
「おまえさんには後で、もっとえーもん考えとくがな。それでえーやろ……」
にっこりと紀乃は微笑み掛けた。
「その品をよく見て、参議のお心、御判断させて頂きます」
紀乃は心のなかでべーと舌を出す。
用事さえ済めば、こんな所さっさとオサラバだ。
「それでは参りましょうか」
播磨少佑を
それでも、ぐずる播磨少佑に、
「使いの小僧でも、駄賃を請求する世の中。この荷を頂いたとして、誰が文句を言いましょう」
紀乃はその背を押して、難波参議の元を後にした。
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