第四章 数ならぬ 舞い散る桜の 身なれば せめても隠せ 春の宵闇

    四、 数ならぬ

         舞い散る桜の

            身なれば

            せめても隠せ

               春の宵闇


 女房の朝は早い。東の山の稜線がだんだんと白くなり、棚引く雲が紫色に染まりだすころ、紀乃は起きだし、身支度を整えてつぼねを出た。

 二日連続の寝不足だが、使者を迎える緊張感に眠気はない。

 大夫の君がいる東対の屋にふと目を向ければ、静まり返っている。きょうもサボりということだろう。まったくいい御身分だ。

 紀乃は足早にろうを歩き、藤の宮が待つ西対の屋に急ぐ。

 昨夜は絵式部の局で一緒だったから身支度の心配はしていないが、宮のようすが気になる。

 打ち橋を渡って簀の子縁を足早に進み、朝の挨拶とともに妻戸から顔を覗かせれば、返ってきたのは思いのほか明るい藤の宮の声だ。

 意外に思いながらも、御簾みすの端からにじり入る。

 さすがは絵式部。着付けも化粧も、一分の隙もないほど完璧だ。それでも紀乃は藤の宮ににじり寄り、艶やかな黒髪に手をやって整える。

 藤の宮がくすぐったそうに首をすくめ、クスリと微笑んだ。



 昨晩は不自由はなかったかと紀乃が問えば、明るい笑顔で昨晩のようすを話す。紀乃の袖口を握り、微かに小首を傾けて話す姿は幼い頃そのままだ。

 もともとが甘えっ子なのだが、昨日の落ち込みようからこうも変わるとは……。

 訝しげに話を聞いていると、絵式部が常磐を引き連れてあらわれた。

 室の中央に座を取ると、本日の予定を淀みのない口調で話す。最後に、大皇の宮が宮中に上がることを告げた。

 頭中将が教えてくれたとおりだ。

「それにともない、わたしは随員に加わるため、昼より留守にする予定でおります。大皇の宮さまに言付けがございましたら承ります」

 藤の宮がフッと微笑んだ。

「伯母上さまに、心より感謝していますと伝えてください。伯母上さまの身に、幸多きことをお祈りしていますと―――」そして、身を乗り出すように絵式部を見つめる。「あなたも忙しくはあるでしょうが、身体をいとうように」

 絵式部を気使う優しさをみせる藤の宮の手は、紀乃の袖口をギュッと握りしめたままだ。

 絵式部も不審に思ったのだろう。チラリと紀乃に視線を向ける。しかし、難波参議なにわのさんぎとの密約を内密にしている以上、紀乃にも思い当たることはない。

 紀乃は無言で首をかしげて見せた。



 それ以上は、深く問えなかったのだろう。

 絵式部が簡単な事務報告へと移る。

 その最後に、紀乃は昨夜の対の屋の見張りのことを適当にデッチ上げて報告し、姿を見せていない鈴鹿と小夜の訳を話す。

「鈴鹿は郷心が出て、親元に帰りたいとの希望です。仲の良い小夜を付けて話をさせておりますが、その意向に変わりはないでしょう」

 言葉の裏を読み取るかのように、絵式部の眉間にグイッとしわが寄る。しかし、言及することもなく、事務報告は終わった。

 絵式部が下がって朝餉あさげとなっても、いつもなら嫌々する和歌の勉強となっても、藤の宮の機嫌は変わらなかった。にこにこと話し掛け、甘えるように身体を寄せる。昨日の落ち込みようが嘘みたいだ。だけど、本人に直接聞くのは躊躇われる。

 変に昨日のことを思い出させたくない。



 紀乃は藤の宮のようすを見ながらそっと御簾を抜け出し、常磐に並びかけると小声で問いかける。

「きょうの宮、変じゃない?」

「そう……なの?」

 常磐がきょとんっとした目を向ける。

「小さな頃から、あんたにべったりだって聞いてたけど」

 そう言われてしまうと、紀乃に返す言葉はない。

 人少なで乳母めのとさえ立ち働かなくてはならなかったながみや家において、藤の宮がままを言い、甘えられたのは紀乃しかいなかったのだから。

 ため息を吐いて紀乃が御簾に戻ると、藤の宮が待ってましたとばかりに話し出す。

 話題は何でもない思い出話だ。話しているうちに口先をとがらして怒ったかと思えば、すぐに身を摺り寄せて甘えてくる。まったく忙しいかぎりだ。

 紀乃がじっと見詰めると、小首をかたむけて、「なに……? 」とばかりに見詰め返す。

 紀乃はフッと笑った。明日は添い寝役の評定が行われる。承香殿しょうこうでんの裏切りが明らかとなったとき、その裏で動いた者を捜すのは急務となるだろう。大皇の宮が真実に辿り着くまでに、そう時間がかかるとは思えない。こうして宮と居られるのも、あと僅か。

 そう思えば、この時間は宝玉と同じなのかもしれない……。



 紀乃は手を伸ばし、藤の宮の頬に手を添えた。

「あれは、宮が悪いのでしょ―――」

「だって紀乃が―――」

「だからわたしは、早くしなさいって言ったの―――」

「もっと早く言ってくれればいいのに―――」

 藤の宮が膨らませた頬を、紀乃が指先で突っつくとぷーっと吹き出し、紀乃もつられて笑う。

 あのときは、このときは―――話題が尽きることはない。二人で過ごしてきた時間は、あまりにも長いのだから。

 夢中で話し続けていれば、いつの間にか陽はおおきく傾き、対の屋にながい影を落としている。そろそろ時間だ。

 紀乃は御簾のまえを通りかかった常磐の顔を、心配そうに下から覗き込む。

「ちょっと来客があるのだけれど、ここを任せてもいいかしら?」

 二人組が謹慎中のいま、対の屋には常磐ひとりとなってしまう。しかし、あっさりと了承された。

「宮姫さまなら、わたし一人でも大丈夫よ。ただ―――」言葉を切り、にっと笑う。「明日でいいから、わたしも手伝ってほしいことがあるの」

 そういうこと―――。借りもいっぱいあるし、手伝うのはやぶさかではないのだが……何をするのか問うと、誤魔化すように視線を逸らす。

「東北の対の屋から、荷物を運ぶだけよ」

 常磐は早口で言うと、逃げるようにその場を後にする。

 紀乃はその態度にピンッときた。どうやら探し物が見つかったようだ。 


 深々とため息を吐いて常磐を見送り、視線を戻すと藤の宮が寂しそうにうつむいていた。

「なるべく早く戻るから」

 藤の宮が小首を振る。

「大切な御用なら、仕方がないもの……」

 その頭をひと撫でして、紀乃は座を立った。

 御簾の端からにじり出ようと腰を屈めていると、

「―――紀乃っ!」

 不意に呼び止められ、紀乃は振り返った。

「いってらっしゃい」

 花開くような、可愛らしい笑顔だった。

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