その六 闇の中の古狸
闇に沈む平安京を、牛車は
不安そうに覗き込む牛飼いに、大夫の君は顎をしゃくって催促する。牛飼いは怖々と松明を左右に二回、上下に二回振り、ぐるっと円を描くように回した。すると、音もなく、門が開かれる。
鈴鹿が話したとおりだ。
大夫の君がニヤリと笑い、牛車を門のなかに乗り入れさせた。
ここはかつての
その名が示すとおりに、夏の草木で庭は埋め尽くされており、その季節になれば色取りどりの花々で目を見張るような眺めになるのだろうが、いまのこの季節は若葉もまだ揃わず、枯れ枝が陰鬱な雰囲気をかもし出し、
牛車はゆるやかに進み、西対の屋の横を通り過ぎようとしたとき、いきなり牛飼いに抜き身の刀が突きつけられた。
「ひっ!」
牛飼いが短い悲鳴を飲み込む。
「どこの者だ?」
よく見れば、市で助けてくれた若侍だ。
紀乃が止める間もなく、大夫の君が牛車を飛び出して行く。牛飼いを守るように刀を抜き、間に身を入れる。
若侍が飛び退き、刀を構え直した。
二人が刀を向け合い、視線をぶつけ合った瞬間、横合いから間の抜けた、のんびりとした声だ。
「俊、やめとき。怪我でもしたら、つまらんでぇ」
すでに床に入っていたのだろう。乱れた髷に、白の
「
思わず名を呼び、紀乃は急いで牛車を降りる。
しぶしぶと刀を納めた大夫の君が難波参議に向ってニヤリと笑い、憎まれ口を叩く。
「おまえと手下の命、ひとまず預けといてやるぜ」
「ふんっ、若造が―――!」難波参議が不機嫌そうに鼻を鳴らす。「おまえごとき、どないだってなるんやぞ」
いきり立って言い返そうとする大夫の君の袖を引き、紀乃はまえに進み出た。
「そうも行かないわよ。書置きは残してきたもの。わたしたちが無事に帰って回収しなければ、明日の朝には
「検非違使がどないやって言うねん!」
紀乃は静かに歩みを進めながら、軽く頷く。
「そうね、参議の身分を使えば捕まりはしないでしょうけど、身動きできなくなるわよ。―――少なくとも、添い寝役の評定が終わるまでは」
難波参議は鼻を鳴らし、のそのそと動いて寝殿の中央の
「誰やと思うたら、宮姫のお付きの女房やないか。確か、紀乃とか言うたな。いま時分、何ようや?」
紀乃は階のしたに立つと、難波参議を見上げた。
「わたしは宮の添い寝役に反対なの。それで、話し合いに来たのよ」
「そやったら、今すぐ姫の寝所に案内せぇ! それで、終わりや」
「だめよ! 宮の意に沿わぬ相手なんか、まっぴら」
紀乃は考えるまでもなく、即座に拒否する。
「―――ほなら、どないしようって言うねん?」
紀乃は難波参議の鋭い眼光を真っ直ぐに見返した。
「承香殿の中宮を寝返らせるのよ」
難波参議が鼻先で笑った。
「そないバカなこと―――」
「バカかどうか、よく考えてみて!」
紀乃は声を張り上げて、難波の参議声を遮る。
「あの人は、自分のことしか考えてない。右大臣家のことなんてどうだっていいし、ましてや大皇の宮なんて目の上のタンコブ、単なる重石ぐらいにしか思ってないわよ。
自分の身が安泰で、そのうえで大皇の宮を排除できるとなれば、喜んで寝返るわ」
難波参議はしばらく紀乃をじーと見詰めていたが、鼻から息をながく吐くと階のうえにドカッと座り込んだ。
「どないするつもりか、話してみぃ」
紀乃はこれまでの経緯を事細かに話した。藤の宮の文を書き換え、不安感を煽りにあおったこと。一緒に和歌を送り、下心があると見せかけて取り入ったこと。そして、使者を迎えることになったこと。
「左大臣の書状を用意して。承香殿の身分を今まで通りに保障し、今後は左大臣が後見すると―――」
「そないな紙切れ一枚で、このさき安泰だと思うんか?」
「そんなこと知らないわよ」口先をとがらし、声を荒げて返す。「わたしは承香殿の御傍勤めじゃないもの……!」
グスリと、難波参議が笑い声を漏らした。そして、さも
「おまえさん、気にいったでぇ。どうせ、このままじゃおれんのやろ。わしのしたで働かんか?給金ならはずんたる。それに―――」視線が上から下へと舐めまわすように動く。「おまえさんなら、ようけ可愛がったるでぇ」
ぞわわ~と背筋に寒気が走ったが、紀乃は努めて平静を装った。
「残念ながら、先約があるの」ちらりと大夫の君に視線を移す。「それがダメになったら、お願いするわ」
難波参議はたいした執着も見せず、大きく頷いた。そして、ぐいっーと身を乗り出す。
「その承香殿の使者、わしのとこに連れて来い。宮中の手回しとその使者、わしがうまいことやっちゃる」
紀乃は隠すように大きく息を吐いた。ひとまず交渉は成功だ。
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