第二章 いたずらな 移りかわりの 花吹雪 藤棚さわがす 春の訪れ

      二、いたずらな

         移りかわりの

             花吹雪

            藤棚さわがす

               春の訪れ



 六条院を滑り出た牛車は、朝をいそぐ人々で賑わう朱雀大路すざくおおじを右大臣家の三条邸に向けて北に上がる。絵式部はすでに三条邸に先乗りしてしまい、牛車の中は二人きりだ。

 紀乃は牛車が揺れるたびに、カサリと音を立てる胸元の文を押さえた。

 あれから三日が経った。

 初めの晩こそ、熱にうなされ、のぼせ上がっていたが、時間が経つにつれて気分も落ち付き、冷静に物事を考えられるようになった。

 頭中将とうのちゅうじょうから求愛―――考えれば考えるほど信じられない。そして、次の日の晩を迎えるころには、すべては何かの間違い、世迷言だったと結論に至った。

 あれだけ熱心に誠意を見せると言っておきながら、文の一つも来ないのだ。やはり、あれは夢のまた夢だったのだ。そう思うと、熱はピタリと下がり、体調も元に戻った。

 三日目にして紀乃は床上げし、早朝から忙しく働いた。今日は藤の宮の引越しだ。運び出す荷物の手配に積み込み、のんびりしている藤の宮をせかして着替えさせ、さぁ出立しようとした、その時、紀乃は相部屋だった親友に呼び出された。



 二人きりになると彼女はおもむろに文を取り出し、いかめしい顔で紀乃に告げた。

「わたしの口は深海に住む、貝のように堅いから噂になるようなことはないわ。だけど、わたしにまで隠すとは水臭い。あんたの友情を疑うわよ」

 そう言って渡されたのは、礼紙らいしで包み、上下を折った、正式な書状の形式をとった立文たてぶみだ。表書きには、藤の宮様付け紀乃殿とあり、裏書は頭中将泰宗とうのちゅうじょう やすむねとある。

 恐るべきは、女の勘だ。

 頭中将は紀乃に気遣い、目立たぬようにこのような形にしてくれたのだろうが、彼女はこの裏書にピンッときたそうだ。何かの許可証や赦免状しゃめんじょうなら、頭中将と書くだけでいい。

 それを、わざわざ名を記すところが怪しい。

 彼女は誰にも気付かれぬように文を仕舞い込み、熱に寝込んでいる紀乃を気遣い、この二晩のあいだ隠し続けていたそうだ。

「わたしたちの友情を守りたいのなら、この場で開くか、中身を教えるかしなさいよ。

 でなければ、二度とこの御所に顔も出せないような噂が流れると思いなさい」



 一瞬、このまま送り返そうか、捨ててしまおうかとも思っていたのだが、仕事で忙しいなかでも、かいがいしく世話を焼いてくれた彼女に、こうも言われてしまっては開けるしかない。

 白色の礼紙を開けててみれば、中身は品のいい水色の鳥の子紙が二つ折りにされている。その鳥の子紙には薄墨で和歌が一首。


  下思ひ

    惑うこころに

         朝露の

        おきて流れし

          紀伊の大川


 秘めた思いに、戸惑う儚いこころで目覚めてみれば、目に映るものは紀ノ川の流れだった。

 この歌がなにを意味しているかは、彼女がよく表している。

 初めは驚きに目を丸くしていたが、徐々に目を細めて満面な笑みを浮かべると、紀乃の手を両手で握って飛び上がらんばかりに上下に振った。そして、それだけでは飽きたらんと首元に抱きつき、声にならない涙声で「おめでとう」と「よかったね」を繰り返す。

 これは夢のまた夢ではない、うつつの誠だ。

 茫然としているうちに、紀乃のことを探す声が聞こえてきた。彼女に堅く口止めすると、紀乃は懐に文を押し込み、牛車に飛び乗ったのだった。



 これは由々しき事態だ。

 頭中将が身分下の女とのお遊びのつもりでいるなら、遊ばれるつもりは毛頭ないが、本気でいられるのも困ったものだ。

 世間一般の婿取り婚では、とてもじゃないが頭中将のお支度など賄えない。だからと言って玉の輿に乗るとしても、当の本人はいいだろうが家族が許してくれるのだろうか?

 同じ貧乏貴族でも、三品さんぴんの位を持つ宮家筋の藤の宮とは違うのだ。

 これは、自分で何とかできる問題じゃない。

 頭の片隅に浮かぶのは大皇の宮の顔なのだが、あれだけ優しく言ってくれたものを目の前で大見得を切った手前、どのツラ下げて相談に行けというのだ。

 やはりここは藤の宮にすべてを告白して、それとなく大皇の宮に話してもらおうか?

「気分が悪いの……?」

 ふと見れば、心配そうに覗き込む藤の宮の顔がすぐそこに。

「―――車を止めましょうか?」

 考え事をしているうちに、いつのまにか懐の文を押さえていたようだ。

 紀乃は慌てて首を振る。

「そんなことないから。もう元気、元気だから!」

「ごめんなさい……」

 藤の宮がしょんぼりと、視線を膝の上の手に落とす。

「ほんとうなら、もっと休ませてあげたかったけれど……でも、紀乃がいないと……」

「バカねぇ……」

 紀乃はポンポンと藤の宮の手を叩き、顔を上げさせた。

「わたしが宮を一人で行かせるわけがないでしょ」

 藤の宮はコクリと頷き、花開くように微笑んだ。

「わたくしは紀乃のようになりたいの……だって、紀乃はなんでも一人で出来るもの。

 わたくしも紀乃のようになって、朱鷺姫に信頼して頼ってもらえるような、お姉さんになりたい」

 うっ、そんなキラキラした目で見られたら……。

 紀乃は曖昧に笑って視線を反らした。

 ―――言えない……とてもじゃないが、恋愛に悩んで大皇の宮に取り次いで欲しいなんて。

「がんばろうね……」

 ため息まじりに呟くと、紀乃は物見窓のさきに視線を向けた。



 気が付けば、牛車は五条の橋を通り越し、六角小路に差し掛かっている。

 もう三条邸はすぐそこだが、訝しげに紀乃は辺りを見渡した。

 いくら院の御紋を抱え、女人が乗っていることを表すために下簾から袖口を出して飾った出だし車とはいえ、早すぎるのでは……?

 朱雀大路といえば、内裏だいりに出仕する者の車や仕事にいそぐ者で、いつもごった返している。それを見越しての朝の出立だったのだが。

 よく見ると、道行く人々の注目を集めているようだ。中には車を通りの端に止め、何人かで集まり、ひそひそと話しこんでいる。そのうちの一人がこちらを指差し、また熱心に話し込む。

 これで、決まりだ!

 牛車を止めて牛飼いを呼べば、何か理由を知っているかもしれないが、車が進むたびに道行く人々が避けるように道を開ける。

 機会を掴めずにまごまごしているうちに、牛車は三条邸の西門を通り抜けた。



 まず目に入るものは三条邸自慢の庭園だ。

 小船を何艘も浮かべられそうな、奇岩、貴石を配した大池を中心に季節の草木が配され、ここが都の中心地とは思えない華やかさだ。

 牛車は西の対の屋から伸びる泉殿いずみどのと、大池に懸かるように配された釣り殿を結ぶ長い廊に切りとおされた中門を通り抜け、寝殿の前に出た。

 建物の中心である寝殿は六本の円柱で支えられた入母屋造いりもやつくりの桧皮葺ひかわぶきで、五尺もありそうな簀の子縁で囲まれている。院の御所にくらべてみても、見劣ることもない立派なものだ。

 それもそのはず、内裏に火事でもあれば、仮の御所として里内裏さとだいりに使われるのが前程の建物なのだから。南庭と相まって、ずいぶんと壮大な眺めだ。

 しかし、随所に警備の随身ずいじんたちの姿がやたらと目に付く。こんな都の真中で、夜盗でもないだろうに……。



 牛車はゆるゆると寝殿の前を横切ると東中門を通され、東車宿りに入れられた。

 隣には二台の網代車あじろぐるまがすでに停められている。貴人が乗るものには見えないが、そうみすぼらしい物でもない。

 紀乃は降りる藤の宮に手を貸すために腰を浮かしかけたが、どうにも宿りのなかが騒がしい。物見窓から覗いてみれば、女車が入ったというのに男性の姿がちらほら見える。話し言葉から都人ではないと知れるが、どうにも失礼極まりない。

 院の御所でこんなことがあったら、絵式部に大目玉だ。三条邸はどうなっているんだ?

 通りかかった下働きに聞いてみると、網代車の随身たちらしい。藤の宮を再度座らせてしばらく待たされる。すると、大慌てで姿隠しの几帳きちょうが立てかけられた。ようやくといった感じだ。

 紀乃はいらいらとすだれを巻き上げ、さきに牛車を降りて振り返ると藤の宮の手を取る。

 その背にポツンッと何かが当たった。

 そして、ポンポンポンポンポンッ…………。

 藤の宮がよろけてしじを踏み外す。小さな悲鳴をあげて倒れこむ藤の宮を、紀乃はどうにか抱きとめた。

 たった三段の階段とはいえ、身動きもままならぬ重い十二単を着ているのだ。落ちたりしたら大事だ。

 茫然として涙ぐむ藤の宮をゆっくりときざはしに座らせ、紀乃はキッとなって振り返った。



 まだ眉も剃らない、肩口で髪を切りそろえた尼削あまそぎの少女だ。

 少女の姫装束である若草襲わかくさかさね汗衫かざみの小脇に籠を抱え、眉を逆立てて睨んでいる。

 紀乃は目眩を覚えた。

 三条邸でこのくらいの汗衫の少女といえば、これが朱鷺姫ときひめに違いない。

 眉間にしわを寄せる紀乃の胸元に、ポツンと何かが当たって落ちた。

 よく見れば、布を縫った小袋に小豆だか大豆を詰めたものだろう。当たっても痛くも痒くもないが、牛車のなかで「信頼して頂けるお姉さんになりたい」と笑顔で話していた藤の宮の胸の痛みを思うと、一気に頭に血が駆け上った。

 つかつかと早足で歩み寄る紀乃に、焦ったようすで朱鷺姫が籠からいくつも小袋を掴み出して投げつける。顔や身体にポンポンあたるが、かまわず紀乃は朱鷺姫に近づき、その腕を取って身体を引き寄せた。

「何で、こんなことするの?」紀乃は怖い顔で小さな瞳を覗き込む。「宮姫さまに謝りなさいっ!」



 朱鷺姫の目に怯えの色が浮かぶ。しかし、口先だけは達者だ。

「わらわが朱鷺だと知っての狼藉ろうぜきか?」

「さきに狼藉を働かれたのは、誰なのです?」

「おまえはクビだ! すぐに出ていけっ!」

 朱鷺姫が怒鳴り、腕を振りほどこうと暴れだす。紀乃もたまらず怒鳴り返した。

「わたしを雇っているのは宮姫さま、ひいては大皇の宮さまです!

 姫にとやかく言われる筋合いではありませんっ」

「うるさいっ! おまえはクビだ。誰かこいつを摘み出せっ!」

 しかし、宿りに詰めた女房たちは誰もが凍りついたように動かない。

 権力や財力を考えれば朱鷺姫だが、血筋的には藤の宮のほうが上だ。しかも、その背後には大皇の宮が控えている。

 誰もが迷うところだろう。



 その宿りに走りこむような足音が。一瞬、入り口で見回すように足を止め、すぐに紀乃に走り寄ると足元に膝を折って手を付いた。

「申し訳ございません。お詫びなら後ほど、宮姫さまにわたしから致しますがゆえ、この場はどうかお納めください」

 視線を横に向ければ、年のいったやせせた女房だ。

近江おうみは引っ込んでおれっ」

 朱鷺姫の声に顔を上げたが、紀乃の視線にいっそう頭を低くする。

「朱鷺姫さまの乳母にございます。どんなお叱りでも、わたしが受けますがゆえ、この場はどうか御容赦のほどに」

 三条邸で朱鷺姫の乳母といえば、それなりの地位と立場もあろうに、こんな小娘の女房に平身低頭するとは……これは謝り慣れている。

 そして、平然と見下ろす朱鷺姫は、謝らせなれている……。

 もうクラクラと目眩がしてくる。しかし、近江には同情するが、宮のことを思うとこのままにはできない。

「何の落ち度もない宮姫さまに無礼を働かれたのは、朱鷺姫さまにございます。この場はどうあっても、御本人に謝っていただきます」

「理由ならあるぞっ」

 朱鷺姫は低く唸るように言うと、キッと紀乃を睨みつけた。

「朧月の物の怪じゃ!」

 紀乃はキョトンッと目を瞬かせる。

 物の怪っていうと、あの「うらめしや~」って奴……。



 流行っていたのか流行らせたのか、紫式部のオバさんが源氏物語に六条御息所ろくじょうみやすんどころの物の怪を出してから、富みによく耳にするようになったけど、この三条邸で聞くとは思わなかった。

 だけど、宮ならすぐそこでピンシャンしている。まさか生霊ってわけでもあるまいし、宮の物の怪なんて怖くもないだろう。

 藤の宮と朱鷺姫のあいだで、視線を行ったり来たりさせていると―――。

御内侍ごないしさまにございます」近江が言い難そうに口添えする。「この三条邸ではここ数年というもの、御内侍さまの物の怪に悩まされているのでございます」

「そんなバカなぁ」

 幼いときより身近で生活し、朧月の内侍のことをよく知る紀乃の口から、思わず付いて出る。

「バカはおまえじゃ」

 朱鷺姫が偉そうに鼻を鳴らした。

「同じ父の下に生まれ、同じ父帝を持つ宮に嫁しながら、片や女の人臣を極めた国母の宮なら、一方は寂しい暮らしのままにこの世を去ったのだぞ。

 妬んでいるに違いない。逆恨みじゃ!」

「それなら、大皇の宮さまの元に出るはずでしょ」

 紀乃が小ばかにしてやり返す。しかし、足元に座したままの近江がおずおずと口を挟む。

「―――ですが……大皇の宮さまが宮姫さまを御引き取りになられたのは、物の怪が発端だと伝え聞いておりますし……こたびの三条邸入りも御内侍さまの御霊を鎮めるためと噂されております……」

 あの大皇の宮が物の怪なんかを怖がるなんて、それこそチャンチャラおかしい。物の怪の方が逃げ出すわよ。

 そんなことより、噂されてるって―――。

「噂って……それじゃ、あの朱雀大路の人たちは宮の三条邸入りを知ってのことなの?」

「はぁ…人の口には戸を立てられないといいますか……」

 近江が小さくなって縮こまる。

 呆れた……御邸の出来事が外に流れてるなんて!

 御邸の出来事を外部に漏らさないなんて、真っ先に教えられることじゃない。この三条邸の綱紀こうきはどこまでゆるゆるなんだ。

 どおりで朱鷺姫がこれだけ自由奔放なわけだ。



「理由がわかったのなら、この手を離せ!」

「だからって、宮姫さまには関係ないでしょ!」

「母御の物の怪を使って三条邸に入り込み、好きにしようなど、このわらわが許さん!

 成敗してくれるっ!」

 朱鷺姫が暴れ、紀乃が取り押さえる。その足元で、近江が泣き崩れる。まったく初めに逆戻りだ。

 すると―――。



「静まりなさいっ!」

 いつの間にいたのやら……宿りに続く簀の子縁の入り口に、絵式部だ。

 こっちの方が物の怪よりもよっぽど怖いわよ。

 絵式部はギロリと宿りの中を一瞥いちべつすると、静かに歩みを進めた。

「その手を離し、下がりなさいっ」

 紀乃は飛び退るように、藤の宮の前まで下がる。

 その前に絵式部が無表情で仁王立った。

「宮姫さまが御着きになられたと聞き及び、対の屋で御待ち申し上げていれば、いつまでたっても参られない。

 もしやと思い、ようすを見に来てみれば、このばか騒ぎ……。

 恥を知りなさい!」

「ですが―――」

「これくらい捌けずして、なにが御傍勤めです!」

 紀乃は口先をもごもごとして言い訳をさがすが、やがてショボンと肩を落とした。

「申し訳ありません……」

 絵式部の背後にちらちらとのぞく朱鷺姫が小憎たらしい。しかも、その尻馬に乗って、居丈高に叫ぶ。

「この無礼者を今すぐクビにせよ!」

 しかし、慇懃に振り返る絵式部は冷ややかだ。

「この者を雇われておりまするは、大皇の宮さまにござりまする。

 この一件のすべて、宮さまがお耳にすることになりまするが、よろしゅうございますか?」

 朱鷺姫がたじろぎ、近江の顔がさぁっと青くなった。

「絵式部殿、それだけはお許しを……」

 すがりつく近江を、絵式部は袖をふって払い捨てる。

「姫さまを対の屋にお連れしなさい」

 返事する間もなく近江は朱鷺姫の手を取り入り口に促すが、朱鷺姫はその場から動かない。



「あの者が相談役など、わらわは認めんっ」

 絵式部が淡々と返す。

「大皇の宮さまがお決めになられたことです。姫さまの許可の有無は求められておりませぬ」

 朱鷺姫が赤くなって叫ぶ。

「東北の対の屋には、一歩たりとも入れん!」

「ご随意になさりませ」

「わらわは本気ぞ!」

「姫さまの真意、しかと承りました」

 涼しげに応じる絵式部に、朱鷺姫は怒りで足を踏み鳴らす。

 大勢の眼前の手前、引っ込みが着かなくなってしまったのだろうが、どこをどう見ても大人と子供の喧嘩。結果は目に見えているのだが―――。



 クックックククク・・・ハッハッハハ。

 抑えたような笑い声がだんだんと大きくなった。やがて、げらげらと腹を抱えたような爆笑に変わる。絵式部が入ってきたのとは正反対、南庭からの入口だ。

「兄上……」

 朱鷺姫の声に、紀乃は慌てて藤の宮をその背にした。

 南庭側の入口に、笑みを顔に張りつけたまま青年がひょっこり現れた。紀乃は素早く視線を走らせる。

 薄青の狩衣かりぎぬに赤紫の蘇芳の指貫さしぬき

 朱鷺姫が兄と呼ぶからには、この人が右大臣家の長男なのだろうが、良家の子息のひ弱さは微塵も感じさせず、背が高く、ガッチリとした身体つきだ。年齢はたしか一七と聞いたけれど、上背があるからか、それより大人びて見える。しかし、その立ち姿にはどこか違和感が……。

 青年は女ばかりの宿りにスタスタ入ってくると、紀乃の横で意味ありげな笑みを見せた。

 紀乃は身体をずらし、藤の宮の姿を完全にその背に隠す。

 右大臣家の長男はとかく評判が悪い。グータラだの怠け者だの。なかには、バカと呼ぶ者までいる。紀乃は眉間にしわを寄せ、上目使いにきつい視線をおくった。しかし、青年は足を止めることもなく歩を進め、朱鷺姫と絵式部のあいだに割り込んだ。



 背をかがめ、目線を朱鷺姫に合わせる。

「おまえが絵式部に勝てるはずもなし、いい子だから室に戻って貝合わせでもしてろ」

「でも、兄上!」

「引き時を見誤ると、親父殿と母上の説教で遊んでいるヒマもなくなるぞ」

「いつも子ども扱いじゃ」

 朱鷺姫の拗ねた声に、甘えの響きが含まれている。

「兄上も一緒に来てくれる……?」

 青年はぽんっと朱鷺姫の頭に手を置いた。

「後でなっ」

 朱鷺姫は頬をプーと膨らませたが、なにも言わずにきびすを返した。近江が何度も頭を下げ、その背を追う。

 それを見とどけると、絵式部に振り返った。

「まだお子さまなんだ。おれの妹君をそういじめるな」

「右大臣家の総領姫ともなれば、世間の道理をわきまえてもいい年頃です」

そして、言葉を切って目を細めて睨む。

大夫たいふの君はとうに過ぎているのでは!」

 それを聞いて、紀乃も目を細めた。

 大夫といえば、位階で五位の者の総称だ。帝の御座所である清涼殿せいりょうでん殿上でんじょうの間に上がるのにはギリギリ。それでも並みの貴族ならば充分だろう。下野に飛ばされている兄は、従五位下じゅうごいのげなのだから。しかし、右大臣家の長男としてはどうだろう。

 おそらく元服出仕したときには、帝に謁見できる五位を与えられていたはず。それが今のいままで足踏みしたままなんて、落ちこぼれもいいとこだ。

 だけど、とうの本人は平然としたもの。

「ときどきは思い出すさ」



 絵式部が目を伏せて、短く息を吐いた。

「今時分は宮中に参内している刻限と思われまするが、大夫の君が何ゆえこのような場におられるのでしょう?」

「そりゃ、おまえ。噂の宮姫ともなれば、ひと目でも見とかなきゃな」

 失礼極まりないことを、さらっと言ってのける。

「それで覗きに来たと――?」

「それがな、先触さきぶれにあって引き返してきたんだ」そして両手をいっぱいに広げる。「こーんな鹿が牛車の前で遭えなく昇天。こりゃあ、殿上の間のお偉方に障りがあってはいかんと思ってな。

 そのついでだっ」

 宇治や嵐山でもあるまいし、この都の真中に鹿なんて出るわけもない。要するに、宮を見るために、理由をでっちあげて戻ってきたと……呆れた奴だ。

 紀乃は内心で悪態を吐く。だが、絵式部は一枚上手だ。

「それでは、すぐにでも加持祈祷の手配を」

 大夫の君がギョッとして眉根を寄せる。

 今から僧侶を招いて加持祈祷かじきとうとなれば、まる一日潰れてしまう。それではせっかくサボった意味もない。

「なんか腹が痛くなってきた……」そして頭を抑える。「頭もだ。おれは室で休む。誰も近づけさせるな」

 そう言い置き、背を見せてさっさと逃げ出した。引き時を知る者は、逃げ足も速いのだろう。

 絵式部が音を立てて、ため息を吐いた。どうやら、これが右大臣家の現状らしい。

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