その五、 せせらぎの音に恋歌を

 紀乃は東北の対の屋を出て、東の対の屋を内に回り込み、東車寄せへと頭中将を案内する。

 簀の子縁の朱塗りの高欄越しに遣水やりみずがさらさらと清らかな水音を立て、南庭の大池へと流れて行く。水面から菖蒲の若葉が顔を出し、膨らみかけた桃色の蕾をつけた桜の木々が春も深まりつつあることを告げていた。



 しずしずと歩みを進める紀乃の背後で、ぴたりと足音が止まった。

 東車寄せはそこの角を曲がった、すぐそこだ。警護の随身たちの話しあう早口の高い声に、牛飼いの激しく牛を追う掛け声が漏れ聞こえてくる。

 さきほどのやり合ったお小言を頂戴するのだろう。

 紀乃は振り返って膝を着き、頭中将のお言葉を待った。

 頭中将は数瞬、迷う素振りを見せたが、やがて扇を口元に引き寄せると低い声で詠じた。


   若鳥の

    おしえにさがる

        帆掛け舟

         熊野の社の

          見ゆる地こそ


 そのままの意味では、帆掛け舟が若鳥の教示に目指す地は、熊野神社の見えるところ、という歌だ。しかし、即興で詠んだのだろうが、多くの仕込みが含まれている。

 若鳥を藤の宮に置き変えてみれば、教えとは教示と取れないから、教育のことだろう。下がるとは、都言葉で南に行くこと。都から南に向かった熊野神社のある地とは、紀ノ国だ。

 つまりは、藤の宮を教育しているのは、紀乃、あなたですか? と訊いているのだ。

 紀乃はうつむいて目を閉じると、頭の中で言葉を組みたてた。そして、涼やかな声で返す。


   西国に

     つづく大河の

         渡し舟

        凍てつく風に

         肩をよせつつ


 古来より極楽浄土は西方にあるとされており、そこに流れる大河とは言わずと知れた三途の川だ。人は、一日、一年、生きるたびに、誰もが避けられぬ死へと近づいていく。

 それを渡し舟にたとえ、わたしたちは身を寄せ合って生きているのです、と返したのだが……。



 何度か小さく暗唱して、頭中将がぴくりと眉を上げた。

「―――なるほど!人生とは、渡し舟に揺られるが如しか……」そして、困ったように破顔する。「あなたに歌を詠み掛けるとは、わたしが愚かでした。あなたのほうが数段うまい」

 この人も、こんなふうに笑うんだ。紀乃はちょっとした驚きをもって、頭中将を見つめた。

 いつも難しそうな顔をしているので、それが普通のように思っていたが、その笑顔は若々しく身近に感じられる。

「そうでもありません」

 紀乃は笑って肩をすくめた。

「あのホトトギスの恋歌は、とても素敵でした。

 わたしが頂いたなら、天高く舞い上がって、どこかに飛んで行ってしまいそうです」

 頭中将が笑い声を漏らした。

「恋歌ですからね。誰が詠んだ歌かは、言わずもがなにしてください」

 紀乃がこくりと頷く。

「宮には内緒ですね」

 二人は視線を合わせて、笑みを噛み殺す。

「前々から思っていたのです。

 東宮への文では拙い和歌の宮姫さまが、ここぞというときに限って、趣向を凝らした巧みな和歌を詠まれる。

 わたしの知る、どの名手とも趣が違い、修辞技巧に凝り、繊細で、優美な調べを持つその和歌を、ほんとうは誰が詠んでいるのだろうかと?」

「それで宮を困らせたのですね」

 紀乃が軽く睨むと、頭中将が困ったように目を反らした。

「東宮が返歌を欲しがっていたのは、ほんとうなのですよ……」そして、苦笑を漏らした。「あんなに反撃されるとは思ってもいませんでした」

「それはお生憎さまです」

「―――そうでもありません」頭中将がいたずらっぽく唇の端をあげる。「あなたの知らない一面を知ることができました」

「わたしの……」

 頭中将がにこやかに頷く。

「いつも忙しそうに立ち働く姿に、優秀だが、面白味にかける人―――そう思っていたのですが」そして、改めるように紀乃を見つめた。「あなたでしたか……」

 紀乃は面映おもはゆさにうつむいた。「お綺麗な姫君たちを目にする機会の多い頭中将さまにとって、わたしなどお目に留まらなくとも当然のことにございます」

 頭中将が目を伏せて静かに息を吐いた。

「―――わたしはね、頭のいい女性が好きなのですよ」そして、やさしい笑みを浮かべる。「その人が見目に麗しいとなれば、なおのこと良い」

 思わず目を上げた紀乃の視線を、頭中将は真っ直ぐに捕らえた。

「あなたの御心を射とめたならば、宮姫さまを黙り込ませるほどの甘い和歌を頂けるのでしょうか?」

 時間が止まった。



 紀乃は茫然と頭中将の笑みを見詰めた。誠実な光をたたえた瞳が、その目を見つめ返す。

 鑓水の清らかなせせらぎの音がさらさらと耳を打つ。

 幾つもの言葉を積み重ね、三十一文字の調べを作り出してきたはずの頭が真っ白になり、喉がひくつき、何ひとつ言葉が出てこない。

 頭中将が薄く目を閉じ、笑みを扇の影に隠した。


   こころざし

      あらば探さむ

          仙洞の

         見出づはあやし

            人知れず花


 その気になって院の御所を探してみたら、見つけたのはだれも知らない不思議な花だった。

 花とは、もちろん……。

 紀乃の頬にさあっと朱がさし、心臓がドキンッと音を立てた。嬉しいというより、信じられない気持ちでいっぱいだ。

 見上げる紀乃の前で、頭中将が片膝を着いて手を伸ばした。

「あなたには手順を踏み、誠意を見せなければならないのでしたね」そして、紀乃を立たせる。「幾年掛かろうとも、必ずや」

 爽やかな笑みを見せ、頭中将が歩み去る。

 気が付けば、東車寄せが静かになっている。後は頭中将を待つばかりになっているのだろう。直衣に焚き込めた、涼やかな白檀びゃくだんの香りを残し、曲がり角に姿を消す。

 紀乃は声もなく、その場に立ち尽くした。



*         *  *         *



 そこは東北の対の屋だった。

 紀乃はふわふわした足取りで室の真中まで進み、その場にぺたりと座り込む。どこをどう辿り帰ってきたのか、まるで覚えていない。

 もう驚きを通り越して、茫然自失の体だ。

「随分と、ごゆっくりでした」

 身動きする気配に御簾に顔を向けると、そこには藤の宮が。

 気合を入れて待っていたのだろうが、普段から言い慣れないうえに、のんびりとした口調ではまったく嫌味になっていない。

「―――あ、ごめんね」

 素で謝ってから室内を見回せば、詰めていたはずの女房たちの姿が消えている。皆、雰囲気をさっして逃げ出したのだろうが、もうそれどころではない。

「ちょっと頭中将に―――」

 そう話掛けて、紀乃の頬がさぁっと紅くなった。

 頭の中に浮かぶのは、頭中将の笑顔と言葉。

 幾年掛かろうとも―――胸の内でドキドキと音が鳴り、止まりそうにない。



「どうしたの……?」

 藤の宮が怪訝そうに小首をかしげる。

「へぇっ!」紀乃はぶるぶると首を振る。「な、なんでもないの―――えっと……引越しの準備だっけ。今やるからっ!」

 紀乃はいそいで立ち上がろうとして、クラッとしてその場に座り込んだ。

 のぼせ上がっているところを急に動いたのがいけないのか、なんだか身体に力が入らない。

「紀乃っ!」

 藤の宮が驚いたように、御簾から這い出してくる。

「ちょっと休めば、大丈夫だから……」紀乃は目頭を押さえた。「宮は御簾の中に戻って……」

「―――でも、顔が赤いわ。熱があるのかも……」

 藤の宮が額に手を伸ばし、驚いた表情で手を引っ込めた。

「誰か、呼んでくるから!」

 妻戸に駆ける藤の宮の背に、紀乃が手を伸ばす。しかし、その姿は妻戸を曲がって消えた。宮が走る姿なんて、幼いとき以来だ。

 もう、扇も持たないで……。

 初めての和歌を貰った、その日、紀乃は発熱した。

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