その四、 物の怪を捕らえよっ!

 白の単でうろうろごそごそ。

 やっぱり思ったとおりだ。すでに、二人組みと常磐さんは下がっている。それなのに、宮は御簾みすに近づきもしない。

 明日にでも探してみるからと一度は納得したはずの文箱を、今頃になって探している。眠くないはずはない。さっき欠伸あくびを噛み殺しているのを見たもの。それなのに寝ないのは、大夫の君の一言だ。

 紀乃は小さく舌打ちをする。

 夜が更けるにつれて強くなった風は、閉めたしとみを揺らし、その隙間から月明かりを零れさせている。

 絶好の物の怪日和だ。

 これでは、怖がりの宮が寝られるわけがない。だけど、疲れているのは同じこと。早く割り当てられたつぼねに戻って、放り込んだままの荷物を整理し、さっさと寝たい。

 あのグータラ大夫、余計なことを言いやがって!



「いいかげんにしなさいよっ」紀乃が目を吊り上げる。「あんたは幾つになったの?」

 藤の宮がギクリッとして身を縮こませる。

「わたくしは……」明後日に目をやり、言い訳を必死に考えている。そして、一人で頷くと紀乃を見た。「紀乃が怖いと思って……」

「わたしなら、常磐さんがいっしょだから大丈夫よ」

 屋敷内に局を与えられた者を女房というが、いくら大きな屋敷でも局の数には限りがある。

 西の対の屋に割り当てられた局は三室。絵式部が一室を使い、残りの二室を四人で分けるのだが、自然と二人組みが一室、紀乃と常磐で一室と割り振られた。

 藤の宮の顔がフニャッと歪み、涙目になる。

「わたくしは……?」

「―――一人よ」紀乃は淡々と告げた。これだけ大きな対の屋を一人で使える贅沢が、この娘はわかってないのだから。

「ほらっ、早く御簾に入って」

 紀乃が背を押すように、藤の宮を御簾に連れて行く。その紀乃の袖を、藤の宮がひしっと掴んだ。

「子供じゃないのよ」

 紀乃が睨むと、藤の宮が顔を背けた。それでも袖はしっかりと握り、離そうとはしない。

 もう……紀乃は大きなため息を吐いた。



 左腕が重い……。

 寝ぼけ眼を向けると、藤の宮が抱きつくように寝ている。幼いときと同じ、可愛らしい寝顔だ。

 紀乃はめくれあがったふすまを掛け直してやりながら、自分の甘さを思う。

 結局、宮の懇願に負けて、局の荷物もそのままに、宮のしとねで二人寝だ。明日は余計に早く起きなくては。

 顔を廻らせてみれば、蔀より漏れた月明かりはまだ長く、床に入ってからそれ程たっていないのがわかる。

 それでは、なぜ起きたのだろう……?

 ぼんやり考えていると、

 ミシッ―――!

 簀の子縁が鳴った。

 何だろうと耳を澄ましていると、再び―――ミシッ!

 そして、蔀から伸びた月明かりが、何かに遮られた。

 誰か……いる?

 紀乃は守るように、藤の宮を抱き寄せた。蔀が、カタッ、コトッ、と音を立てる。

 どうやら掛け金を調べているらしい。そして、閉まっているとわかると、また簀の子縁がミシッ、ミシッと鳴る。その音はだんだんと妻戸に向かって行く。



 まっさきに頭に浮かんだのは大夫の君だが、紀乃はすぐに否定する。

 あの大胆な性格なら、初めから妻戸を叩きそうだ。

 それでは、誰が……?

 さらに耳を澄ましていると、簀の子縁を掃くようなこすれる音が微かに混じる。これはうちぎを引く音……ならば女だ。それなら負けることもないだろう。

 紀乃は身を起こして妻戸に向かおうとすると、腰から下が動かない。顔を向けると、抱き寄せたときにでも起きたのだろう、藤の宮が目を見開き、今にも悲鳴を上げそうなようすで、腰にしがみついている。

 また物の怪などと騒がれたら面倒だ……。

 紀乃は顔を寄せ、藤の宮の目を覗き込む。

「宮、よく聞きなさい」小声でそっと話しかける。「あんたの答え如何いかんによっては、わたしたちの乳姉妹の関係も今日これまで。明日の朝にはおさらばよ」

 藤の宮が恐怖に顔を強張らせたまま、声も無く頷く。

「御内侍さまは、他人ひと幸福しあわせを妬み、死んでからも物の怪になって怨むような方だった?」

「……ちがうわ」即座に、藤の宮が小さく頭を振る。「母上さまは他人の幸福にも、自らのことのように喜ぶ方だったもの」

 その答えに、紀乃は満足そうに頷き返した。

「―――だったら、あれは御内侍さまではない。他の誰かよ」

 紀乃はさっと顔を上げた。どこの誰だか知らないが、とっ捕まえてやる!



 だいたいにして右大臣家は、御内侍さまをないがしろに過ぎる。お亡くなりになったときだって、通り一辺倒の使者をよこしただけだったし、宮が生活に困り、路頭に迷う寸前になったときも、右大臣家は無しのつぶてだった。

 本来なら大皇の宮さまが出向く前に、総本家である右大臣家が迎えを遣すべきではないのか?

 そこには何かあったと、勘繰かんぐりたくもなる。

 御内侍さまは生前、先の右大臣さまに相談して宮中に入ったと言っていたが、右大臣さまの肝煎きもいりで入ったにしては、ずいぶんと低すぎる役職だ。

 宮中には中務省なかつかさしょうに所属した女官が勤める中宮職ちゅうぐうしょくが十二あり、いわゆる後宮十二司こうきゅうじゅうにしと言われているが、御内侍さまはこの中の一つである内侍司ないしのつかさの女官だった。

 お仕事の内容は、常に帝のお傍に仕えて、下の者からの許可を願う申し出を伝える奏請そうせいと、受け賜った御言葉を下の者に伝える伝宣でんせんで間を取り持つことだ。

 その中でも内侍とは中間職で、命婦のたかだか一つ上の位でしかない。当然のことながら、男性貴族と実際に顔を合わせることも多く、いくら母親の血筋が物を言う女系家族の貴族社会と言えども、右大臣の娘としては似つかわしくない程、低いものだ。

 長官である尚侍ないしのかみは摂関家の娘という条件が付くので無理だとしても、次官である典侍ないしのすけや、その下の掌侍ないしのじょうぐらいには就けたはずだ。

 先の右大臣が、自分の娘が騒がれるほどの美人だと、気が付いてないはずはない。

 思うに先の右大臣は、その美貌を利用しようとしたのではないだろうか?

 詰まりは、御内侍さまが誰と結ばれようが、どうでもよかったのだ。

 それが右大臣派の一人なら、それはそれで良し。もしも左大臣派の者だったら、その者ごと自分の派閥に釣り上げる腹積もりだったのだ。

 しかしながら、御内侍さまが実際に釣り上げたのは、この国で最も尊い血筋を引く、左大臣家本家にもつらなる、超大物の久の宮さまだった。

 これは裏から手を引こうにも、後見の問題や左大臣家の管理下にある財産の問題など、左大臣家と直接ぶつかり合うことばかり。さすがの右大臣家でも、手に余ったのだろう。

 だからこそ、久の宮家が宮中で寂しい暮らしになろうとも、あの大皇の宮さまさえも口出しさせることなく、見てみぬ振りを通したのだ。

 だけど、今となってみれば、御内侍さまの御結婚は右大臣家にとっては大きな行幸のはず。

 もしも久の宮さまが左大臣派の姫を娶っていれば、先の帝の血を引く大きな敵対勢力となっていたのだから。

 容易に押さえ込みようもない血筋を、根こそぎから無に帰した御内侍さまの功績を右大臣家はもっと称えるべきなのだ。



 それを無視するどころか、物の怪なんてバカにするにも程がある。

 絶対に、何としてもとっ捕まえてやる!

 ここから妻戸まで走り、掛け金をはずして飛び出せば、悪くしたって姿ぐらいは見られるはず。

 さぁ、観念しなさい……。

 影が妻戸の前までくるのをうずうずした気持ちで待ち、紀乃は素早く体を起こして飛び出した。

 しかし、やはり腰から下が動かない。前のめりに頭から崩れ落ちると、額と鼻をしたたかに床に打ちつけた。

「―――宮、何してるの!」

「だって、だって……!」

 必死な形相でしがみつく藤の宮を振りほどこうと、紀乃はじたばたと足搔く。しかし、物音を聞きつけた影が簀の子縁を逃げていく足音が。

「いいから、離しなさい!」

「でも……」それでも藤の宮は必死にしがみついて離さない。「知らない人の物の怪なら、もっと危ないもの……!」

 影の足音が遠ざかる。

 今さら追いかけても、もう遅い。

 紀乃は舌打ちをして鼻息も荒く、その場にペタリと座りこんだ。

 足音も高く逃げ出す物の怪なんているもんか!

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