その五、 物の怪の正体わかっちゃった!
うららかな春の日差しに、紀乃は眠たげに目を
昨夜からの風も夜明けにはおさまり、都は天下泰平の快晴だ。しかし、紀乃の気分は晴れない。
昨夜、取り逃がしたのは返すがえすも残念だ。
もしやと思い、朝っぱら早々に簀の子縁の砂埃に足跡、格子と高欄に手の跡を探したのだが、すべては無駄骨。早朝から大皇の宮の使者を迎えていた絵式部からは、不審者を見る目で見られる、おまけ付きだ。
めげずに、警備の随身たちに当たってみたが、外からの侵入者を見張っているだけで、邸内のことは知らないとのこと。それでもと粘って訊いていると、目つきがだんだん険しくなってきたので、すごすごと逃げ帰ってきた。まったく、世の中とはうまく行かないものだ。
紀乃は対の屋の真ん中にほげぇーと座り込み、
こんなところを見られたら、またお小言を頂戴するのだろうが、絵式部は院の御所に戻って留守にしている。何でも、予定外に大皇の宮が宮中に上がるそうだ。その手配と準備には、やはり絵式部が必要らしい。
ここ数日は行ったり来たりを繰り返し、吉日を待って大皇の宮に付き従い、一緒に宮中に上がるということだ。出掛けに、事細かに注意を与えられたが、寝不足の頭には右から左。要するに、宮を御簾のなかに、おとなしくしていろと言いたかったらしい。
幸いにも昨夜さんざん怒られたせいか、宮は御簾の中でおとなしく縮こまっている。
このスキにと、みんなで対の屋の引越し荷物の整理に取り掛かったが、それもみんなでやれば思いのほか早く終わり、今は東北の対の屋に使いに出ている常磐を待っているところだ。
紀乃は何度目ともなる、欠伸を噛み殺す。
「紀乃さん、眠そうですね」
それまでぺちゃくちゃと隣で話していた二人組が、しげしげと紀乃を見ている。
「あんたたちは今日も元気ね」
気のない返事をしてから、ふと思いつき、目に浮かんだ涙を拭く手を休めて顔を上げた。
「ねぇ、あんたたち、昨晩なにか見なかった?」
「わたしたちですか……」
珍しく二人が顔を見合わせて口ごもった。
「わたしたち、昨日は早く寝ちゃったから……ねぇ?」鈴鹿が小首を傾げて同意を求める。
それに慌てたようすで、小夜が大袈裟に頷き返した。「そうそう、昨日はいっぱい働いたから疲れちゃって……ねぇ!」
あのくらいでいっぱいなら、わたしたちの仕事はどんなに楽なのだろう。
紀乃は脱力し、目をしょぼしょぼさせる。
「わたしも昨夜は早く寝てしまって」
「うわっ!」
突然、背後から声を掛けられて、紀乃はビクッと背筋を伸ばした。振り向いてみると、いつもの微笑を浮かべた常盤が立っている。
もう、いつ戻ったのよ。すっかり目が覚めたわ!
「あら、驚かせてしまったようで……」常盤が声を立てて笑う。「紀乃さんが朝方から何やら調べている御様子だったので、ご報告までと思ったのですが……」そして、意味有り気に口元を袖で隠す。「まぁ、わたしには証人がいませんけど。だって、紀乃さんは朝方まで戻りませんでしたもの」
クスクスと笑う常盤を、紀乃は下から睨んだ。
「もう! どこにいたのかわかって、からかってるでしょ?」
「それはもう―――」常盤が笑い声を高くする。「だって紀乃さんは、殿方と甘い一夜を過ごすようには見えないもの」
そんな大笑いで言われても、褒められているのか
この人、仕事ができるわりには絵式部のように真面目一筋ではなく、ふざけた一面も持っているようだ。どうも今の状況を楽しんでいるように見える。何を考えているのやら……。
紀乃は
「それで、東北の対の屋は?」
「姫さまは、朝より御身体の御加減がよろしくなく、訪問は後日にして欲しいそうです」
やっぱりそう。予想はしていたから特に感想はないけれど。
紀乃はちらりと静かな御簾のほうに目をくれる。
前以って話しておいたけど、まためそめそしているかも……。
御簾のほうに気をとられている紀乃の袖が、くいっくいっと引かれた。
「病気なんて嘘です!」鈴鹿が口先を
それに、小夜が大袈裟に頷いて口添えする。「わたしたち、山盛りの
「そんなこと、わかってるわよ」紀乃は興味なさげに御簾を見たままだ。「だから、常磐さんに行ってもらったの」
昨日、みんなの前であれだけ派手に宣言したのだから、あっさりと宮を入れてくれるとは思えない。だからこそ、元の御付きで顔見知りの常磐さんなら、もしかしてって……。
しかし、二人はなおも鼻息も荒く紀乃の袖を引く。
「これは宮姫さまへの挑戦です。受けてたちましょう!」
「徹底抗戦あるべきです!」
いつもと調子がちがう二人に振り向いてみれば、二人の顔はくっつかんばかりの距離だ。
「朱鷺姫は宮姫さまの御身分を
「御身分の差を思い知らせるのです」
紀乃はたじたじと身体を引いて、二人から距離をとる。いつからこんな忠誠心厚くなったのよ……。
「宮は喧嘩しに来たのじゃないのよ」
「―――だったら、すぐにでも院に帰りましょう」
「みんなでちゃっちゃとやれば、夕にはみんなで院の御所です」
へっ……。
そんな急に帰ったりしたら、右大臣家に問題があると宣伝するようなものだ。朱鷺姫ばかりか右大臣の対面にも泥を塗ることになる。ましてや大皇の宮の意に背いたら、帰る場所さえなくなるかも。
「そんなのだめに決まってるでしょ!」紀乃は二人の頭に手をやると、強く押さえ込む。「いいから、何もしないの。―――わかった?」
二人は唇を尖らせて、むくれてみせる。それでも紀乃は怖い顔で二人を睨む。
「常磐さん、二人が余計な真似しないようによく見張っていて」
常盤が嫌そうに顔を顰めるのが見えた。それでも変わることはない。
「―――お願いよっ!」
紀乃は返事も待たずに背を向けて御簾に歩み寄る。そして、端からにじり入ろうとしていると。
「かしこまりましたっ!」
「きゃっ!」
背後からの声に驚き、手が外れて御簾が頭に落ちる。振り向けば、すぐ後ろにクスクス笑う常盤の姿。
「わたしたちは控えの間に。―――では」常盤が笑いながら、二人を連れて逃げるように去って行く。
あんにゃろ、わざとやりやがったな……。
ぷりぷりしながら御簾に入ると、落ち込んでいるかと思った宮は思いのほか元気だ。口元に浮かぶ笑みを袖で隠している。
紀乃はほっと息を吐き、顔を
「もう、あの人ったら猫みたいなのだから」
藤の宮がたまらずに笑い声を漏らした。「わたくしには紀乃の足音もわからないもの。御傍仕えの人って、足音を殺して歩くのだから」
「―――だって、初めにそう教えられるのだから……」
ああ、そうか!
紀乃は一人、納得顔で頷いた。
昨夜の物の怪……でも、何でだろう?
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