その六、 春の訪れ……
紀乃のこめかみを一筋の汗が流れ落ちる。
引越しの忙しさに取り紛れ、文は引越し荷物に突っ込んだまま、問題は棚の上にうっちゃったままだ。
今日すぐにどうこうあるわけではないだろうが、いったいどんな顔して会えばいいのだろう。やはり、ここは宮に話して……。
そっと横目で藤の宮を覗き見れば、うきうきと浮かれたようすで自ら使った筆を片している。
「あのね……相談があるのだけど―――」
「これはいったい!」
常磐は対の屋を素早く見回すと、足早に御簾の前に立つ。
紀乃は子供のようにうなだれた。
みんなの前で告白する勇気などない。
常磐は呆れたように嘆息する。
「こちらはわたしたちが用意しますから、紀乃さんは宮姫さまの御召し変えを!」
言うが早いか身を
「御召し変えって……ぜんぶ?」
対の屋はそれぞれが独立した家と同じだ。
そこで働く紀乃たちは
振り向いた常盤のこめかみが引き
紀乃はすぐさま背を向け、逃げるようにその場を後にする。そして、新しい一揃いを用意して、藤の宮の元に戻る。
紀乃が用意したのは、表が淡緑で裏が濃緑の
横目に見える御簾の外では、珍しくもパタパタと忙しそうに二人組みが働いている。初めて対面する宮中の
その二人組みに、常磐が釘を刺す。
「頭中将は右大臣家に婿入りするやも知れぬお方、くれぐれもご無礼なきように!―――わかりましたか?」
「は~い!」
二人は声を揃えて返事をするが、常磐の背に向けて舌を出す。そして顔を付き合わせてひそひそと……。
しかし、興奮して上ずった声はまる聞こえだ。
「頭中将だって、五年も十年も待てないわよね~」
「お子さまより、わたしたちのほうがね~」
意味ありげな笑みを交わす。
常磐の豹変の理由、二人組みの思惑はよくわかった。
告白しなくてよかった……。
紀乃は胸を撫で下ろし、着付けに集中する。
襟元に手を回して色目を整えていると―――。
「わたくしは、紀乃の
藤の宮が囁いた。
「……?」
怪訝そうに目を細めて見つめれば、いたって真面目に見詰め返される。
どうやら宮にも、何らかの思惑がありそうだ。前回のこともあるし、ここはじっくりと問い詰めて、聞き出したほうがよさそうなのだが……。
「紀乃さん、準備はよさそうね」準備が整い、御機嫌なようすで常磐が御簾の前に立った。「それでは頭中将を御迎えに参りましょう」
二人組みはと見れば、ぶーたれて口先を尖らしながら室の隅に控えている。出来るなら三人で行ってきて欲しいものだが、常磐のなかでは出迎えは上位の女房の仕事らしい。
絵式部が不在ともなれば、そのお鉢は当然―――。
「さぁ、早く参りますわよ」
常磐に急かされてしぶしぶ御簾を出る。横目で見下ろす宮は何もなかったかのように素知らぬ顔で、すでにちょこんっと座に着いている。
何もなければいいのだけれど……。
紀乃はため息混じりに対の屋を後にした。
長い
ここでも、常磐の能力が
二人組みのお付きの従者たちはさっさと追い出され、残った下働きたちも整然と配置された。
宮のときもこうしてくれれば、あんな騒ぎにならなかったのに……。
紀乃はぶつくさ言いながらも、目立たぬように常盤の影に膝を着いて座をと取る。しかし、「何してるの!」の一言で前に押し出されてしまった。
ほどなくして、頭中将が乗る車が到着した。
もう逃げ隠れもできず、紀乃はうつむき加減に牛が外されるのを見守る。
今日は珍しく
いつもの厳しい顔も、幾分か和らいでいるようだ。
頭中将は
「どうやら絵式部殿は御留守のようですね?」
「―――はい」紀乃は紅く染まった頬を隠すように、
その返答に、頭中将が軽く頷く。そして、車を振り向き、牛を繋ぐために伸びた
どうやら、もう一人、誰か乗っているらしい。
スタッと勢いを付けて立ち上がる足音がすると、
辺りを興味深そうにきょろきょろ見回し、牛車からパッと飛び降りる。薄水色の
少年は紀乃の前に立つと、口角をあげてニッと笑う。
今にも大きな声で話しだしそうな、その笑顔はどこかで見たことがあるような・・・・・・・・・・えっ!
紀乃は目を大きく見開いた。
どうして、ここに東宮が……?
驚きに、声もなく口をパクパクさせる。
頭中将が含み笑いを浮かべた口に、そっと扇を近づけた。
「本日は藤の宮さまに御挨拶したいとのことで、わたしが御世話になっている
ポカンッと東宮を見上げていた紀乃は、慌てて口を閉じた。
そっと辺りを見回してみても、頭中将の僅かばかりの供人と
これは予定された訪問でもなければ、公式な
すると身分も
紀乃は小首を傾けると、指先でちょいちょいと合図を送る。
常磐が怪訝そうに口元に耳を寄せた。
「宮に、対の屋を人払いするように言って」
耳元で囁くと、常磐が訝しそうに眉根を寄せる。それでも紀乃が視線を送り続けていると、一礼のもとに身を翻して姿を消した。
紀乃は改めて向き直り、深々と頭を下げる。
「本日のご訪問、誠にありがとうござりまする。宮姫さまにおかれましても、お忙しい身でおられる頭中将さまのお優しい御心遣いに、いたく感激した面持ちにございます。
火急な引越しに心身ともにお疲れと御心配申し上げておりました、わたしどもと致しましても、ほっと胸を撫で下ろす心地。
失礼ながら、わたしどもからも御礼申しあげます」
紀乃は長々と挨拶の口上を述べる。
西の対の屋の人払いをするための時間稼ぎだ。それを思いやってか、頭中将も二言、三言と言葉をつづける。
唯一人、東宮だけは退屈そうだ。
頃合いをみて紀乃は座を立ち、先導のために列の先頭に立った。すぐ後ろに元気な足音が続く。
長い渡り殿を歩くあいだ、東宮は所どころで足を止めて頭中将に質問を繰り返す。
訪問先の邸宅の造りや庭園の草木に目を向け、その主人の趣味や感性に注目するのは貴族としての基本だ。
子供だとばかり思っていたが、東宮も大人の階段を登っているのだろう。
紀乃はそのたびに足を止め、頭中将が一つひとつ丁寧に答えるのを待つ。
まるで頭中将は、至らない弟を導く兄のようだ。微笑ましい思いで見守っていると、頭中将に視線でさきを促され、紀乃は踵を返した。
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