その七、 秘密は歌の調べの中に

 寝殿から釣り殿に延びる透廊すきろうから打ち橋を渡れば、そこが西の対の屋だ。

 伝言がうまく届いたようで、今はまったく人気ひとけがない。

 二人組みがぶーぶー文句を言っている姿が目に浮かぶ。

 紀乃は二人の来訪を告げるために、妻戸の前の簀の子縁に膝を着いた。しかし、来訪を告げるまえに、東宮が紀乃の頭の上からひょっこり顔を出してしまう。

「まぁ……!」

 御簾の中から、短い驚き声がした。

 宮は一目でそれが誰なのかわかったようだ。

 転げるように慌てたようすで御簾から出ると、紀乃の静止もかまわず東宮に駆け寄り、胸元に手を置いて顔を見上げる。

「何て軽々しい御振る舞いを―――!」

 宮にしては珍しく、怒った厳しい顔付きだ。しかし、その足元で簀の子縁に膝を着いたまま、紀乃は顔をしかめて藤の宮の裾を引く。

「軽々しいのは、あんたもよ……」

 東宮の後方から「コホンッ!」と咳払いが一つ。広げた扇で顔を隠し、明後日の方向を向いてくれてはいるが、素顔をバッチリ見られたことだろう。

「キャッ!」藤の宮が可愛い悲鳴をあげ、袖で顔を隠した。

 今さら遅いわよ……。

 紀乃は動けなくなった藤の宮を対の屋のなかに連れて行く。

 途中、急いでいるときに落としたであろう扇を拾うと、藤の宮に持たせて座に着かせた。そして、もう今さらと御簾を巻き上げ、その正面に二人の座を作り、妻戸のまえに目隠しの几帳きちょうを置いて二人をいざなう。

 東宮が笑い声をあげながら、藤の宮のまえの座に着いた。その横に頭中将が、紀乃は見張りをするように几帳のまえだ。

 顔のまえで広げた扇の上から、目だけを見せて藤の宮が東宮を睨む。

「東宮がいけないのです。子供じみた真似をして、驚かせたりするから」

「―――だってさ……」東宮がしゅんと肩を落とす。「宮中でも宮の噂はよく耳にするし、急に引越しだって言うしさぁ。ちょっと宮のことが心配になってようすを見に来たんだよ」

 面と向かって心配だったからなんて言われて、嬉しくないはずもなく、藤の宮は赤くなった顔を扇で隠したが、その口元の笑みまでは隠しきれない。

 東宮がほっと息を吐き、笑顔を見せる。現金なもので、その笑みを紀乃にまで向けるほどの余裕だ。

「久しぶりに紀乃にも会えたし、宮中を抜け出して来たかいがあったよ。院だと誰もが叩頭こうとうしているから、どれが紀乃の頭だか……。

 すっかり優秀な女房でびっくりした」

 紀乃は丁寧に頭を下げる。

「ありがとうございまする。東宮さまに措かれましても、お元気そうでよろしゅうございました」

「紀乃に改まわれると変な感じだなぁ。

 ここには四人だけ、昔のままで構わない。何か言いたいことがあったら言ってよ」

 そう気安げに言われると、前々から気になっていたことが。

「それでは遠慮なく、一つだけ」

 笑みを返した顔を、紀乃はキッと引き締める。

「あんたはもうすこしお習字の練習をしなさい!

 何なのあのミミズみたいな字は。あんたはいずれ帝になるのよ。その気がなくたって、ちょっとした書付や手紙が御手ぎょしゅなんて言われて、後々まで残るのだから!

 あれじゃ東宮に字を教えたのはわたしですって、恥かしくってエバれないじゃない!」

 東宮の顔が苦虫を噛み潰したように歪む。

 その横で、頭中将が堪らずに吹き出した。

「―――だから言ったではないですか。女性は見た目の美しさも重視するものなのです」

泰宗やすむねまで……」東宮がぶーたれてぼやく。「紀乃は小さいときから、ぼくの顔を見ると勉強勉強って、もぉ!」

「東宮は五歳で漢詩がすらすら読めたとは、承香殿さまの自慢の種の一つでしたね。その恩恵は充分に受けているのでは。諦めて真面目に勉強なさい」

「―――わかったよ……」

 東宮が渋々と応える。



 その声に、藤の宮がクスリと笑い声を漏らした。それが合図のように、それぞれの顔に笑みがひろがる。

 しかし、簀の子縁の足音に、紀乃は素早く顔を引き締めた。口元に指を立て、笑い声を消す。足音は妻戸の近くまで来ると、躊躇ったように歩調を緩めた。

 紀乃が斜めに身体を妻戸に向ける。

「西の対の屋は人払いされているはずです」

 紀乃の声に、足音の主がほっとしたように妻戸のまえに膝を着いた。

「朱鷺姫さまが朝の御無礼をお詫びしたいと―――」

「―――来客中です。後にして頂くように」

「それがその……もう対の屋を出られまして、もうそこまで―――あっ、先導の者が」

 あのまま姫は何のつもりだ!

 紀乃は素早く立ち上がると、裾捌すそさばきも鮮やかに妻戸を出た。

 先導の女房はすでに打ち橋に差し掛かろうとしている。紀乃は早足に歩を進め、簀の子縁の中程で膝をついた。

 あの朱鷺姫が素直に謝りに来たとは到底思えない。またあれやこれやと難癖つけて、一騒動起こすつもりなのだろう。ほっといても面目をなくすのは朱鷺姫なのだが、行く行くは夫になるかもしれない東宮のまえで恥を掻かすわけにもいかないだろう。

 先導の女房が紀乃の姿に足を止めた。その女房を押し退けるようにして、朱鷺姫が進み出る。

 表が白で裏が淡紅の汗衫姿かざみすがたかさねの色目は薄花桜うすばなさくらだ。

 御簾の中でおとなしく座っていれば、かわいいのに……。

 朱鷺姫が扇を紀乃の顔に突きつけた。

「そこを退かぬか!」

 真っすぐに紀乃は見詰め返す。

「宮姫さまは来客中につき、後刻にして頂きたいとのことです」

「フンッ」朱鷺姫が鼻を鳴らす。「それはどこぞの馬の骨よ」

「頭中将さまと、その御連れさまにござ―――」

「―――その連れとは誰じゃ? 名を申してみろ!」

 紀乃はぐっと押し黙った。

 東宮の名前を出すのは簡単だが、朱鷺姫の肩越しに後ろを見れば、数人の女房たちが壁を作っている。

 こんなところで名を告げれば、すぐにでも屋敷中の話題になることだろう。そうなれば、屋敷の外に漏れるのも時間の問題。

 宮のことを心配して宮中を抜け出して来てくれた東宮と、御連れしていただいた頭中将に迷惑をかけるわけにはいかない。ここは穏便に済ませなければ。

「どうしたのじゃ、早うせぇ!」

 朱鷺姫が上から目線で、目を細める。

「どうせ名乗れもしない下賤げせんやからなのじゃろう?」

「その逆とは思えませぬか?」

 紀乃は小首を傾げ、意味ありげな視線を送る。しかし、朱鷺姫は小馬鹿にした笑みを浮かべた。

「また血筋だけは高い貧乏宮か……」そして、眉を逆立てる。「伯母宮さまの目が届かなくなったとたん、対の屋に男を連れ込むとは何て破廉恥はれんちな!

 その貧乏宮もろとも追い出してくれるっ」

 もう腕まくりしそうな勢いだ。

「そんなこと……」

 紀乃は吐息と共に吐き出し、ふと思いついたように目をぱっちりと見開いた。

「ただいま、みなさまで春の和歌をお楽しみちゅうです。朱鷺姫さまも一首いかがでしょう」

 そして、扇を口元に引き寄せて詠じた。


   いたずらな

      移りかわりの

          花吹雪

         藤棚さわがす

             春の訪れ


 東宮の別名の春宮を季節が移り変わるのと引越しに掻けて、東宮の訪れの騒動を春一番に見立てた和歌だ。

朱鷺姫にもわかりやすく、そのままに詠んだつもりなのだが……。

 朱鷺姫がドンッと足を踏み鳴らした。

「おまえの下手な和歌など聞きとうない。そこを退け!」

 こりゃ、だめだ……。

 紀乃がどっと脱力する。



 すると女房たちの壁を割るように、後方から常磐が飛び出してきた。

 朱鷺姫の横をすり抜け、紀乃のまえに膝を着く。

 その素早さからいって、後ろのほうでようすを見ていたとしか思えない。

 紀乃が目を細めて見詰めると、常磐はかまわずに顔をぐいーと近づけた。

「それは誠のことですの?」

 コクッと頷くと、常磐の顔からさあーと血の気が引いた。

「あの貧乏宮が―――」茫然と言いかけて、慌てて口をつぐむ。

 耳元に口を寄せ、紀乃が小声で囁く。

「お忍びよ。このことは内密に」

 常磐は声もなく、コクリと大きく頷いた。

「二人でこそこそと何をしておるのじゃ、わらわの御前ぞ!」

 れた朱鷺姫が地団駄を踏んで叫ぶ。

 常磐が膝を着いたまま、向き直った。

「すぐに対の屋にお戻りください」

「わらわは貧乏宮を追い出し―――」

「―――早く!」

 皆まで言わせずに、常磐が下から睨みつける。

「何を怒って……」朱鷺姫がたじろいで腰を引く。「わかったから、そう怒るでない……帰るっ!」

 朱鷺姫が踵を返した。

 その背後に慌てたようすで女房たちが続く。その姿を見送って、常磐が改めて向き直った。

「朱鷺姫さまにはのち程、必ずお詫びに伺わせます」そして、丁寧に頭を下げた。「後のことは、よしなに」

 そう言い残して、クルリと踵を返して後を追う。

 あの朱鷺姫があっさり引き返すとは、恐るべし……。

 常磐さんって朱鷺姫の傍仕えだったと聞いたが、あのようすを見たところ、おそらくは教育係か何かを兼ねていたのだろう。右大臣家での地位も、かなり高いはずだ。それが、なぜに宮の傍仕えに……?



 紀乃は首を捻りひねり対の屋に戻る。

 そこの雰囲気はどんよりと暗い。話し声や笑い声など皆無。その主な原因は藤の宮だ。

 扇で隠した顔をうつむかせ、身を縮み込ませてピクリとも動かない。

 東宮がいたたまれずに身動みじろぎした。

「何か…うまくいってないみたいだね……」

 宮がいっそう身を縮込ませる。

「誤解してるんじゃないかな……宮のこと。ぼくから話してみようか?」

 紀乃が無言で首を振る。

 東宮なんかに出てこられたら、事がどこまで大きくなることやら。

「……そう」

東宮は困ったように頭を掻き掻き、ちらちらと宮を見る。

「ぼくたち、これから市に行くところだったんだけど、宮も行かないかな……?」

 宮がちらりと目を覗かせる。

 それに意気込み、東宮がくし立てた。

「お祭りみたいなんだ。出店の売り子の売り口上に大道芸人たちのはったり。凄い人出で見ているだけでもわくわくするよ。

 いい気晴らしになる。行こうよ!」

 宮の視線が紀乃に向く。

 それにつられて東宮も紀乃を見た。

 二人の視線に、紀乃はぶるぶると首を振った。

「ダメに決まってるじゃない。外歩きする姫なんていないわ」

「ちょっと行って帰ってくるだけだよ」

東宮が前のめりに熱をこめて言い募る。

「何だってあるんだよ。紀乃だって欲しい物の一つや二つあるだろ?」

 そりゃ、欲しい物くらいある。一つとは言わず、二つも三つも。だけど女の身で、大声で言うにははばかれる。

「……懐風藻かいふうそうもあるのかしら?」

 東宮が目をパチクリさせる。

 紀乃は上目使いに頬を染めて、唇をとがらせた。

「漢詩集よ。前から読んでみたかったの」

「絶対にあるさっ! ……ねっ?」そう言って、頭中将に目を向ける。

「そうですね……。探してみれば、あるいは」

 紀乃の目の色が変わった。

「それじゃ、杜甫とほとか李白りはくも?」

 頭中将がおかしそうに目を細めて頷く。

「御一緒に探してみますか?」

 勢い込んで返事しそうになり、ふと我に返った。

 絵式部が出掛けに残していった注意は、宮を御簾の中に入れておとなしくしてろだ!

 紀乃は力なく肩を落とす。

「絵式部に言われてるもの、やっぱりダメよ……」

「えっー!」東宮が抗議の声を上げる。「ちょっとだけだもん、バレやしないよ。これも宮のためさ。ぼくと頭中将が一緒だもん、心配ないよ」

 東宮があれやこれやと理由を付け、熱心に言い募る。

 それを聞いていると、何だかそんな気もしてきた。

 そうよね…これも宮のため……東宮はどうだかわからないが、頭中将なら頼りになるし、ちょっと出掛けて……そのついでに買い物するだけ。

 ちょっとだけならねぇ。

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