その八、 市には危険がいっぱい

 牛車は七条大路を渡り、市から通りを一本隔てた小路で止まった。

 右大臣家の三条邸や、六条院のある平安京の北半分が大貴族の邸宅が並ぶ高級住宅地なら、この辺りから南は小さな家が軒を連ねる庶民の町だ。

 まずは頭中将と東宮が降りて辺りをうかがい、促されて紀乃が牛車を降りた。

 市女笠いちめかさのつばから顔を見られぬように真麻の虫垂むしたきぬを下げ、うちぎの裾を引かぬようにからげて腰のところで壷折つぼおりにし、諸太しょた草履ぞうりいた、貴族女性が歩いて外出するさいの虫垂れ衣の壷装束姿つぼしょうぞくすがただ。

 紀乃は素早く左右に目を走らせる。

 まだ市を取り巻く外町だというのに、物を売り歩く商人とそれを目当てにそぞろ歩く人々で賑やかだ。なかにはどう見ても貴族か、それに使える従者かという身形みなりの者も多数混じっている。

 紀乃は喉元にこみ上げる不安を、グッと飲み下した。

 この外出を知っている者は、あの多数の者が働く三条邸でもわずかに三人。

 さきほどの朱鷺姫ときひめの一件をネタに、この装束しょうぞくを用意してもらった常盤ときわと、対の屋に残してきた鈴鹿すずか小夜さよだ。

 二人には宮がせっていることにして、面会はすべて断るように言い置いた。そして、それらしく見せるために、鈴鹿を宮の代わりに御簾みすのなかに入れ、小夜を控えさせる念の入れようだ。

 後はちょっと一回ひとまわりして、ついでに買い物してこっそり戻れば、それで終わり。誰にも知られることはない……たぶん?



 物珍しそうにきょろきょろする藤の宮を、紀乃は足元に注意を払いながらゆっくり降ろす。藤の宮もお揃いの虫垂れ衣の壷装束姿だ。

 すぐさま東宮が寄って来ると、二言、三言と話しかけて歩き出す。その半歩後ろに遅れて藤の宮がつづいた。時おり東宮が振り向いて話しかけると、口元に手をやり、小刻みに肩を震わせる。

「若者たちは楽しんでいるようですね」

 いつの間にか傍にいた頭中将に話しかけられ、紀乃はほっと息を吐いた。

 宮が屈託なく楽しそうにしているのを見たのは、久しぶりのことだ。

「我われも参りましょうか」

 紀乃は笑顔で頷き、頭中将の後に従う。

 従者と随身たちは目立たぬように、牛車とお留守番だ。二人は東宮と藤の宮の後を見失わないように、付かず離れずに歩みを進める。

 頭中将が振り返るようにして、紀乃に顔を向けた。

「あなたの機転のよさには感心しました」

 そして、口の端を上げて笑う。

「確かに、東宮はいたずらな春風のような人だ」

 何かと思えば、さっきの朱鷺姫とのやり取りだ。

 きっと開いていたしとみから漏れ聞こえていたのだろう。

「幼少のときは元気で暴れん坊のくせに、甘えん坊で泣き虫でした」

 紀乃は微笑みを浮かべて二人を目で追う。

 宮を優しく気使い、ゆっくりと歩みを進める東宮はすっかりいい青年だ。

「右大臣家では御苦労されているようですね」

 世話になっている家の醜聞を簡単に漏らすわけにもいかず、紀乃は曖昧あいまいに笑みを返す。

 そんな事情もお見通しなのだろう。頭中将は気に掛けるふうもなく、左右に目を配ると通りを渡り、市に入った。

 人出はさらに多くなり、藤の宮を見失わないようにするのも大変だ。

 紀乃は目を凝らして藤の宮を見る。二人は商店の品物を指差し、何事か話すと笑い合う。ずいぶんと楽しそうだ。

「職場を変えてみようと思ったことはありませんか?」

「自分からはありません。しかし、いずれはそうなるかと―――でも、宮の行く末がわからぬうちは離れられません」

「あなたらしい」頭中将が微かな笑みを前に戻す。「嵯峨さがに母譲りの山荘がありましてね。今はあばら家同然ですが、そのうちに手を入れてみようかと思っています」

「それはいいですね……」

 自分とは関係のない話に、紀乃は気もそぞろに返事をする。

 それよりも市の中心に近づくほどに人出は多くなり、宮の頭を見失わないようにするのも大変だ。

「もちろん帝より承ったお役目をおろそかにするつもりはありません。

 それでも時々、都の生活がわずらわしくなりましてね。わたしは本来が怠け者ですから」

 頭中将を怠け者と言ったら、だれが働き者なのだ……。

 紀乃は首を左右に揺らし、爪先立ちになって藤の宮の頭を探す。

「いつかお役目を解かれたときには、移り住もうと思っています。ですが、一人で住むのは寂し過ぎる」

 頭中将がふいっと紀乃に顔を向けた。

「あなたが一緒なら、楽しそうだ」

 へぇっ!

 紀乃は驚いて足を止めると頭中将を見た。

 藤の宮を探すのばかりで、いつのまにか肩を並べるも同じになっている。人波にトンッと背を押されて蹈鞴たたらを踏めば、あっという間に頭中将の腕のなかだ。



 紀乃はどぎまぎとしながら頭中将を見上げる。とにかく何か言わなければと口を開き掛けたとき―――

「―――無礼者!」

 東宮の怒鳴り声に、頭中将がすぅーと目を細めて眉間にしわを寄せた。

「あなたはここに居てください」

 頭中将が人波を早足で歩き出す。そうは言われても、宮も一緒なのだ。紀乃は急いで頭中将の後を追った。

 ぐるりと取り巻く人垣を紀乃は頭中将につづき、掻き分けて前に出る。

 そこでは東宮が頬に傷のある男のまえで片膝を地に着き、小太りの男がいやがる宮の手を無理に引いていた。二人共、ほつれたぼさぼさのまげに、古びて汚れた着物を着崩した、地侍じさむらい野臥のぶせりといった風体ふうてい

「そこをどけっ!」

 東宮が怒鳴ると腰の小太刀こだちを抜いた。

 取り巻く人垣がどっとどよめき一歩後退する。しかし、頬傷の男は唇の端に、小馬鹿にした笑みを浮かべた。

「小僧、女の前だからって、いいカッコするなよ」

男が余裕で腰の太刀たちに手を掛け、一歩まえに出る。

「やれるもんなら、やってみな」

 東宮がじりっと後退すると、頬傷の男を睨む。しかし、そのまま動けずにいると、その視線を遮るように頭中将が割って入った。

「その者たちは、わたしの連れです。返していただきましょう」

「助かったな、小僧」

 頬傷の男が頭中将越しにせせら笑うが、やはり東宮は悔しそうに下唇を噛むだけで動けない。

 にやけ顔のまま、頬傷の男が頭中将に視線を戻す。

「その小僧なら、どことでも連れて行きな。俺たちが用のあるのは女だけだ」

 頭中将が一歩踏み出す。

「その者もわたしの連れです」

 すると頬傷の男が姿勢を低くし、抜刀ばっとうの構えをとった。

「そうは行くかよ」視線を動かさずに、小太りの男に怒鳴る。「早くしやがれっ!」

「この小娘、顔を隠してるクセにえらいべっぴんだぜ」

 小太りの男が下卑た笑い声で応えた。

「だから高く売れるんだ。早くしろっ!」

 小太りの男が強く手を引くと、藤の宮が嫌がって身をよじる。

「この浮かれが、おとなしくしやがれっ!」

 何だとっ!

 衆人環視のまえで、宮を浮かれ女呼ばわりとは―――!

 紀乃は足早につかつか近づくと、扇で小太りの男の手を打った。

 男がギャッとうめいて手をおさえる。

 ふんっ、いい気味だ。

 紀乃は小太りの男に背を向け、素早く藤の宮に目を走らせる。

 どうやら手を引かれただけで、何もされていないようだ。

 ホッと胸を撫で下ろして乱れた襟元えりもとを直していると、背後に嫌な気配が……。

「このあまっ!」

 目を血走らせ、口の端に白いつばきを付けたまま、小太りの男が怒気を放って立っている。

 本気で怒ったみたいだ。

 藤の宮を背後に隠し、紀乃は後退あとずさる。

 頭中将は頬傷の男と対峙たいじし、東宮はその後ろ。周りを見ても、助けてくれそうな人はなし。随身たちを残してきたのが悔やまれる。

 小太りの男が一歩踏み出し、手を振り上げた。



 紀乃が小さな悲鳴を上げて、袖で顔を隠す。しかし、いくらたっても、何も起こらない。

 薄く目を開けてみれば、割り込むようにして立った男の背中だ。

 小太りの男が足元に、どっと崩れ落ちる。

 男は構わずに、頬傷の男に振り向きざま抜刀し、その眼前に刀を突きつけた。

 まだ若い。頭中将と変わらないくらいだろうか。紺色の水干すいかんは折り目ただしく、どこかの貴族の隋身ずいしんといった感じの若侍だ。

 頬傷の男が驚きに見開いた目を細めた。

「てめいは―――」

「その口を閉じて、こいつを連れて立ち去れ」小太りの男を足蹴あしげに、ぐいっと喉元に刀を突き出す。頬傷の男の射殺すような視線にも動じる風もなく、顎をしゃくり上げた。

「クソったれが……」

 頬傷の男は毒づくと、鳩尾みぞおちを押さえてうめく小太りの男を助け起こして背を向けた。そして、取り巻く人々に八つ当たり気味に喚き散らし、道を開けさせて姿を消す。

 若侍が刀を手馴れたようすでクルリと回し、逆手に持ち替えるとさやに納める。そして、振り返ると慇懃いんぎんに頭を下げた。

「お怪我がなくて何よりにございます。検非違使けびいしが参りましては、何かと面倒。その前にこちらへ御越しください」

 返事も待たずに、若侍が背を向けて歩き出す。

 紀乃は頭中将と目線を合わせて、小首をかしげる。

 どうやら頭中将も知らない人のようだが、言っていることはもっともだ。

 東宮にしても宮にしても、知らない人にとっては小僧と小娘。どうして高貴な二人がこんなところにいるのか、都の治安を守る検非違使に説明するのには手が折れそうだ。

 それなら、まだしも二人の身分を知っていそうな、この人のほうが話は早い。



 紀乃が無言で頷くと、頭中将も頷き返して若侍の背を追った。左手はいつでも抜けるように、刀に添えられたままだ。

 その後に藤の宮の手を引いて、紀乃がつづいた。最後尾から東宮がとぼとぼと着いてくる。さっきまでの元気はすっかり消えてしまった。

 若侍は手馴れたようすで、人波をぬって歩く。

 紀乃はキョロキョロと辺りに目を配り、居場所を確認しながら進む。足早に通りを渡って出た場所は、さっき牛車を降りた所だ。しかし、降りた牛車の横に新たな牛車が停められ、両方の従者と随身が険悪な雰囲気で睨みあっている。

 こちらの姿を認めて、新たな牛車の従者たちが動いた。前簾まえすだれが上げられ、しじが用意される。

 どうやら誰か降りてくるようだが……。

 紀乃が注視していると、頭中将が眉根を寄せて呟いた。

「―――難波参議なにわのさんぎっ!」

 そして、口を真一文字に結んで押し黙る。

 牛車に視線を戻すと降りてきたのは四十をとうに過ぎてるであろう、人の良さそうな小柄な中年だ。しかし参議というからには、国政に参与できる太政官だじょうかんの僅か二十人のうちの一人。頭中将にとっても上役だ。

 難波参議はにこやかに若侍に顔を向ける。

としや、どうやら間に合おうたらしいな」

 目礼で応える若侍に何度も頷き、おっとりとした歩調で東宮の前に立った。

「けったいな場所で、よう似た顔を見掛けたと思うたら―――」

 周りの人目を気にしてか、難波参議が口調を落とし、厳しい顔を作る。

「こんな場ゆえ、拝礼はいれいはいたしませんぞ」

 東宮が元気なく、項垂うなだれたまま頷く。しかし難波参議は気にしたようもなく、すぐさま相好を崩す。

「まぁ怪我がなくてなによりや。大切な御身体なんやから、大事にせんと」

 そして、顔を横に頭中将を見上げる。

「従者の一人も連れんと、あんさんにしては珍しく手抜かりやなぁ。それとも、その腰の立派なものにそれほど自信があったんかいな?」

 にこやかなまま、チクリッと嫌味を吐く。

「いくら腕が立つ言うても、一人ではどうにもならんやろ。大方、浮かれてたんとちゃうか?」

 そんなこと言っても、貴族の刀なんて飾りのようなものだ。

 頭中将の太刀にしたって、金糸と銀糸で飾られたつかに、金の蒔絵が施されたさやの美術品みたいな刀だが、近衛の中将だけに刀身があるだけましだ。

 文官の刀なんて柄と鞘だけで、重いからと刀身とうしんがなかったりするのだから。

 この平和な世の中で、ましてや都の真中で抜刀して遣り合うことなんて普通の貴族は考えてない。

 しかし、頭中将は言い訳もなしに頭を下げて謝罪した。いつもの眉間にしわを寄せた、厳しい顔付きだ。落ち着いた低い声で、繰り返される嫌味に応える。

 いつか自分は目立つからと話していたが、参議にもよく思われていないのだろうか。

「まぁええやろ。これからは気いつけえよ」

 嫌味にも飽きたのか、やっと開放される。

「―――申し訳ありません。それでは戻らせていただきます」頭中将が再度謝罪し、目線で紀乃たちを促して、東宮を連れて背を向けた。

 紀乃は藤の宮の手を引いて、その後を追う。その背に―――。

女子おなごたちは、わしが送りましょ」

 頭中将が眉間にしわを寄せて振り返る。

「参議に、そこまでしていただくわけには―――」

「なあに、あちらに行く用もあるさかい、そのついでや」そして、難波参議はにこやかに頷く。「あちらも、そろそろ騒ぎだす頃合いやろ。あんさんは急いで戻りなはれ」

「しかし、姫を安全に御送りするのも、わたしの責任ですから」

 難波参議がギロリと睨んだ。

「なんや、わしでは信用できんとでも言うんか?」

「いえ、そういうわけでは……」

 頭中将が言い淀む。そして、数瞬の間の後に、背後に向かって厳しい声で言い放った。

利蔵としぞう総司そうじ、御一緒して姫たちを御送りしろ! 御邸にお帰りになられるまでは離れるな」

 頭中将の背後から、二人の侍が進み出る。その前に、若侍が立ちはだかった。素早く腰に手をやり、二人を威嚇する。

「俊や、かまわんから放っとき。護衛は多ければ多いほうがええ。何があるか、わからんのが護衛やからな」

 難波参議がニヤリと笑う。そして、せかすように紀乃の背を押し、牛車に導く。

「さっさぁ、女子たちはこちらや」

 頭中将の物言いたげな視線に送られて、紀乃たちは車中の人となった。

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