その三、月夜の晩には琴の音を
それからの予定はすべて変更。
宮が離してくれないのだ。運び込んでおいた荷物の整理だけでもと思うのだが、子鴨よろしく歩くたびに後ろをいそいそと追って来る。
確かに乗せたはずの二、三の品が届いてないし、宮が自ら牛車で持ってきた古ぼけた文箱が見当たらないのだが、これでは探しに行くこともできない。
何とか気を逸らさねば、後々も面倒なことになりそう……。
紀乃は横目で藤の宮を睨む。しかし、藤の宮は紀乃の傍にいれば安心とばかりに、素知らぬ顔だ。
これからの寝るまでの数時間で、何とかしなければ。今さら貝合わせや
それなら宮も好きだし、
「あんた、ちょっとは練習しといたほうがいいんじゃない」
小首をかしげる藤の宮に、ちょいちょいと指先を動かして弾く真似をしてみせる。
「音を外したりしたら、こんどはバカにされるわよ」
藤の宮は眉根を寄せ、重々しく頷いた。
諦めのいい、宮にしては珍しい。よっぽど今日のことを気にしているのだろう。
そうともなれば、気が変わらないうちに……。
紀乃は御簾のなかで藤の宮の
常磐も煩わしそうにしていたし、いいだろう。二人は弾むような足取りで、対の屋を出て行く。
楽といえば、女の
ほんとうに華やかなことが好きねぇ。
ほどなくして下女に運び込まれた琴を見て、紀乃と藤の宮は目を丸くした。
金銀の飾り細工に、はめこまれた
「恐ろしく高そうねぇ……」
紀乃の言葉に藤の宮が無言で頷き、指先で弦をはじいた。
何だか、音まで違うように聞こえるから不思議だ。
「紀乃ぅ、ちょっと弾いてみて……」
「わたしが弾いたら練習にならないじゃない」
「でもぅ、紀乃のほうがうまいもの。聞いてみたいわ」
「そうねぇ……それならちょっとだけ」
紀乃はあっさりと琴の前に席を移す。
実のところ、ちょっと弾いてみたかったりしたのだ。
爪を嵌め、深呼吸を一つ。呼吸を整えてから、弦をかき鳴らす。
琴の音が深く、重く響いて広がって行く。
低音から高音へと指を走らせ弾くのは、誰もが知る春の代表曲だ。
紀乃の巧みな指使いに、藤の宮が目を閉じてうっとりと聞き入る。二人組みが前に並んで腰を下ろす。そこに、褥を整え終えた常磐が加わった。紀乃は四人を前に、興に乗り、悦に入って琴を奏でた。
その時、どこからともなく横笛の音が……。
高く長く伸びる笛の音が琴の音に重なり、対の屋に広がる。キョトンッと目を見開く藤の宮に、常磐が小声で呟く。
「大夫の君です」
低音から高音へ駆けあがる琴の音が笛の音を追いかけ、溶け合って響いた。
藤の宮がコクリと小さく頷き、また目を閉じて聞き入る。
即興の合奏に、二人組みも目を閉じて聞き入り、常磐までもがうっすらと笑みを浮かべて目を閉じた。
しかし、紀乃は額に汗を浮かべ、眉間にしわを寄せる。
この笛の音、息使いも指使いも巧みで綺麗だけど、こちらの音を聞いてない……。
変に長く音を震わせたと思ったら、音の余韻に間をとったり、まったくもって自由気ままだ。それでいて実に堂々としたものだから、曲の中心に躍り出ている。これで音を外したりしたら、わたしがヘタみたいじゃない。目の前にいたら、横っ面を張り倒してやるのに……。
紀乃は笛の音に神経を集中し、巧みに音を合わせる。
一曲弾き終えたときには、もう汗だくだ。
藤の宮がパチパチと拍手した。二人組みも興奮を隠しきれず、早口に感想を口にする。しかし、紀乃は無言でスクリと立ち上がり、早足で対の屋の入口へ向うと妻戸を乱暴に押し開けた。
簀の子縁の向こう側。幾つか置かれた奇岩の一つに、大夫の君が横笛を片手に背を向けて腰掛けている。
「また覗きにございますか?」
紀乃の棘を含んだ声に、大夫の君がのろのろと振り返り、怪訝そうに目を細めた。
「誰しもが共用する車宿りならいざ知らず、対の屋までもとなりますると無礼千万、お許しするわけには参りませぬ!」
大夫の君は急に興味をなくしたように、そっぽを向き、膝に肘をおいて頬杖を着いた。
「親父殿がお帰りでな、行方知れずになってるだけだ」
呆れはてて、紀乃は目を剥いた。
サボって怒られるのが嫌で逃げてるとは、情けない……。
その雰囲気をさっしたのか、大夫の君が頬杖をついたまま顔を向ける。
「面倒臭いだけだ」そして、小さく息を吐く。「いくら怒られたって、おれは悪いと思ってない。時間の無駄だろう」
「―――だからと言って、覗きの理由にはならないと思いますが?」
「覗きなら、静かにやるだろ」大夫の君が、ボソッと呟く。
しかし、紀乃の疑わしそうに見る視線に、いきりたった。
「だいたいな、ここはおれの隠れ家だったんだ。後からのこのこ来たのはそっちだ」
「隠れ家なら南庭にどうぞ。誰にも見つからず、気ままに過ごせますよ」
「ここだって自由だったんだ。物の怪が出るって、誰も近づかなかったからな」
「物の怪・・・」
紀乃が眉を寄せる。
それを目聡く見つけた大夫の君が、唇の端を上げた。「何だ、知らなかったのか?ここが噂の発信地、内侍の棲み家だぜ」
そう言われてみれば、他の対の屋よりも寂しいような……。
数本の松と間隔をあけて置かれた奇岩が数個だけ配置され、地面には均された白砂が敷き詰められている。
前庭をまるまる海岸の
「いるわけないでしょ、物の怪なんて!」
「さぁ、どうだかなっ」
イッヒヒヒと笑い、大夫の君は勢いをつけてポンッと立ち上がる。
「風の吹く、月夜の晩は気をつけろよ」
捨て台詞を残し、大夫の君が闇に沈む南庭の方向に歩み行く。
一陣の風が紀乃の前を吹き抜け、長い髪を揺らした。見上げてみれば、楕円を描く
紀乃が振り向くと、目を見開き、恐怖に顔をこわばらせた藤の宮の姿が目に映った。
これは、さきが思いやられる。
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