その四 ふたりの計略
成り行きで大夫の君に文を託してしまったが、どうにも気になる。
きちんと承香殿の手に渡ったのだろうか?
余計なことを口走ったりしてないだろうか?
対の屋に戻ってはみたが、気もそぞろでどうにも仕事に身が入らない。おかげで絵式部には叱られるは、定刻通りに戻ってきた常磐には睨まれるはで、とうとう紀乃は対の屋を追い出された。
どうやら大夫の君が帰ってきたらしい。
文を渡して、その足で取って返してきたような素早さだ。大遅刻の午後出勤のうえに早退なんて、いったいどう言い訳したのだろう?
その場で足を止めて立ち尽くしていると、向こうから大夫の君が足早にあらわれた。
紀乃を見付け、大きく破顔する。
どうやら、文はうまく渡ったようだ。
紀乃はほっと息を吐いた。邪魔されずに、どこかで詳しい話を聞きたいのだが、そんなところはやはり局くらいしか思い付かない。
紀乃は仕方なく大夫の君を局に招きいれた。
目隠しの几帳を
「記紀に、万葉集、史記まであるのかよ。
おまえ、頭いいんだな……もっと、おもしろいもんはないのかよ。鬼をバッタバッタと切り捨てるような」
「物語なら、
紀乃の声は迷惑そうだ。
「あいつのとこの本は、全部がおれのお下がりだ」
大夫の君は笑って応え、それでも物色をやめない。次から次へと書籍を抜き出す。
その手が、ある一冊でピタリと止まった。そして、その隣の書籍を抜き出すと、ぺらぺらと
よく見れば、頭中将に頂いた
よくよく考えてみれば、大夫の君の所属も
誤解されないよう、慌てて二人の関係を話しておこうと口を開きかけ、紀乃はピタリと止まった。
いったい何て話せばいいのだろう……?
『現在進行形で
それでは、余計に誤解を招きそうだ。結局、紀乃は話すのをやめた。
訊かれるまで、黙っておこう……。
紀乃はその場に座を取り、咳払いを一つ。意識をこちらに向けさせる。
「それで、承香殿はどうだったのよ?」
「―――んっ! あぁ……」
大夫の君は気のない返事を返したが、こちらを振り向くとニッと笑顔を見せた。
「見物だったぜ。
初めは青くなって冷や汗垂らしてたと思ったら、そのうち赤くなってブルブル震えだしてな。そのまま卒倒するかと思ったぜ」
何でも自分が一番だと思っているような人だ。年下の存外にもない藤の宮に、あんな高飛車な文を送られて平静でいられるわけがない。
紀乃は込み上げる可笑しさに、頬を緩めた。
「あんたは何も言わなかったでしょうね?」
「そりゃ、もちろん―――」そして取り澄ました顔を作る。「おれは文を託されただけの文使いだからな」
二人は顔を見合わせて、吹きだした。
承香殿の前でもそう言っていたのだろう。イラつく承香殿の姿が目に浮かぶ。
二人でひとしきり笑うと、大夫の君が懐から取り出した紙片を二本の指に挟み、顔の横に掲げて見せる。
「おまえに土産だ」
何かと思って手を伸ばして受け取り、開いてみれば『すべて任せます。片付いたおりには、あなたの力になりましょう』と、承香殿の署名付きで書かれている。
いったいどうやって書かせたのかはわからないが、これを大皇の宮に見せれば、承香殿が裏切りの共犯だと証明できるくらいの書付だ。
紀乃が目を丸くしていると、大夫の君がニヤリと笑って告げる。
「明日の夜に、使者を遣すそうだ」
紀乃は顔を上げ、改めて大夫の君を見る。
表が
表立った縁談話がないのは普段の素行の悪さからとしても、紀乃のような下級貴族の娘からしてみれば、その意中を射止めたら、やっぱり玉の腰。思わせぶりな態度や誘惑なんて、けして珍しいことではないだろう。それでも、噂にならないのは本当に何も無いのか?それとも隠すのがうまいだけなのかは……?
紀乃の視線に、大夫の君が照れたよう視線を逸らす。
変に無遠慮で大胆なのかと思えば、その仕種は可愛らしく思える。どうやら、隠し事はうまくないらしい。その心持ちは真っ直ぐで、優しいのだろう。何の関係もない宮のことを気使うほどに。
朱鷺姫が甘え、懐いているのもわかる気がする。その
紀乃は居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「本日は
しかしながら、これからは計画の根幹に携わります。知らなかったでは済まされぬでしょう。
どうか大夫の君は、ここで手を御引きください」
しかし、紀乃の改まった口調にも、大夫の君の態度は変わらない。
「―――何で? こっからが、もっとおもしろくなるんだろうが」
その軽いままの大夫の君に、紀乃は呆れ返った。
「本当にわかってるの?」ツンッと口先を尖らせる。「あの大皇の宮に反抗するのよ。良くて冷や飯食らいの閉職暮らし、悪くしたら地方に島流しなのだから。それでもいいの?」
「そんときゃ、二人で鬼退治に
大夫の君は真面目とも取れぬ、にやけ顔でアハハと笑う。
「もう……知らないからっ!」
「どうせ、たいした仕事なんかしてねぇよ。おまえは心配すんな」
そうは言われても……それでも、やはり迷う。
これからを考えてみれば、荒事などするつもりはないが、いつ何時なにがあるかわからない。そう思うと、男手は欲しい。何よりも、そうそう外歩きなどできない身であれば、いつでも車を仕立てられる大夫の君が身方なのは心強い。
紀乃は迷ったすえ、しぶしぶと頷いた。
「―――いいわ……。そのときには陸奥だろうが、
「そうこなくっちゃな!」
アハハッと笑い、口の端をニッとあげた。
「おれの名は
「わたしは―――っ!」
言いかけて、紀乃は慌てて口を
貴族女性の名は、内密なのが当たり前だ。
藤の宮みたいな皇族は公式文書に名が載るので知られるが、普通の貴族女性はひた隠しにしている。
紀乃にしたって、紀乃は女房名であり、清少納言や紫式部と同じに本名ではない。本当の名を知っているのは、両親と
「―――教えるわけないでしょっ」
紀乃がツンッとそっぽ向くと、大夫の君は膝を叩いて大笑いだ。
「そのうち聞出すさ」そして、ぐっと身を乗り出す。「そんで、次はどうすんだよ?」
「あんた、腕のほうは確かなんでしょうね?」
紀乃は大夫の君の問いに、問いで返して横目で睨む。
大夫の君が腰の
「腕っていうのは、こいつのことか?」
その仕種に、紀乃ははたと気が付いた。
大夫の君に感じていた違和感ある立ち姿は、これが原因だ。
黒い麻布を飾り巻きした
「モノホンの真剣だぜ」そして、得意気に刀を抜いた。「銘は
紀乃は小さく溜め息を吐いた。
普段から持ち歩く程だから、腕のほうは確かなのだろうけど……その顔はお気に入りの
本人のほうは大丈夫なのだろうか?
「―――いいから、そんな物騒な物、早く仕舞いなさいよ!」
大夫の君がへっへへと笑い、刀を戻す。
「そんで、どうする?」
紀乃は一抹の不安を感じながらも、重い口を開いた。
「物の怪を捕まえるのよ」
――――――。
凍りついたように動きを止めた大夫の君が大きな溜め息を吐くと、その場に浮かしていた腰をドスッと降ろした。
明後日のほうを向いて、
「あのな……」言いづらそうに、口を開いた。「
この物言いは、何か知っている……。
昨晩、風吹く月夜がどうとか言い出したのも、こいつだ。
紀乃はじぃっと見詰め、視線で先を促す。
「―――
こいつが内侍の物の怪の正体だよ」
ボソボソと言ってチラリと視線を動かし、紀乃が熱心に聴き入っているとわかると、とたんに話し声に熱がこもった。
「だからって、見間違えた奴をバカにはできないぜ。
昼間は庭先に敷き詰められた白砂が光って、影なんか映らない。夜になっても、月夜で風のある晩だけだ。それも、風が止まればパッと消えちまう。
見間違えたってしかたねぇよ」
「あんた、よく知ってるわね……」
感心したように紀乃が呟くと、大夫の君は得意気に破顔した。
「そりゃ
確かに、それは凄いけど……。
紀乃は下からじぃーと睨む。
「その間、出仕はどうしてたのよ?」
「物の怪のせいで邸では眠れないのだろうってな。昼寝しても、みんな、優しかったぜ」
余りにも呆れて、紀乃は怒鳴り付けた。
「物の怪の噂を広めたのは、あんたかいっ!」
天下の右大臣家の長男が、毎日、目をしょぼくれさせて昼寝してれば、
身体を縮みこませ、小さくなった大夫の君に、紀乃は静かに告げた。
「それでも、わたしと宮は確かに聴いたの。逃げる物の怪の高い足音を」
大夫の君が眉間にしわを寄せ、目の色を変えた。
紀乃は辺りを気にするように外に目をやり、手招きするとその耳にこれまでの経緯を話した。
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