第38話

 本日ラストのバンドのステージが終わろうとしている。リョウはこのタイミングで出れば誰にも気づかれまいと、そうっと楽屋の扉を開けそのまま客席最後部を抜けようとしたが、その時ファンの一人が大声で「リョウさん!」と叫び、あっという間にいつもの如く囲まれる事態となった。

 「ミリアちゃん、大丈夫ですか?」皆が背中で目を瞑っているミリアを見ながら、口を揃えて言う。

 「ん、この通り。ごめんな、今日、こいつ、最後弾かなくって。……」

 客の同情的な視点がこぞってミリアに注がれる。

 「ちょっと、緊張しすぎたみてえで、さ……。」リョウはこの、甘ったれた、我ながら反吐の出るような言葉に、少なからず気分を害した。

 「あの、ミリアちゃんのソロ、」見慣れた顔の一つがそう切り出す。「凄かった。なんていうか……」男はソロを思い出しているのか、顔を歪める。「とてつもない慟哭の声が、した。」

 「物凄い気迫だった。」また別の男が口を切る。「こんな、こんな、小さな女の子の音じゃあない。あれは、世の中の全部の不幸を背負って戦っている人みたいな音で……。」

 「あれだけの音は、大の男でも出せるもんじゃない。少なくとも俺は、聴いたこと、ないです。」

 「ただの、テクニック披露の早弾き少女じゃないんですよ。ミリアちゃんは。」

 そうそう、と、多くの顔が頷き合う。

 「それに、」見知った顔がリョウを明るく見上げた。「その時のリョウさん、すっげ、かっこよかった。」

 「え?」リョウには何も思い当たる節は無く、そう聞き返す他なかった。

 「だって、ほら、ミリアちゃんのリフが消えた瞬間、リョウさん、ブースター踏んでリフ繋いだじゃないっすか。」

 「あ、ああ。」確かにミリアの音が消えたために、二人分の音を出そうとソロ用に準備しておいたエフェクターを踏んだのは事実だ。「あそこで音痩せしたら、カッコ悪ぃからな。」

 「否、以前のリョウさんだったら、絶対そんなことしてないっすよ。」男がにやりと笑いながら言う。

 「え?」

 「前、二、三回ライブやっただけで消えたギタリスト、いたじゃないっすか。あの人ミスった時、リョウさん背中蹴っ飛ばしたじゃないっすか。」

 客の数人が堪え切れずに笑い出す。さすがにリョウ本人にも思い当たる節があり、顔が紅潮し出す。「い、いや、いや、いや、あれは、あいつ、リハん時から全然ダメで、それでちょっと、気合入れてやっただけで……。」

 「今日は、とにかく感動しました。」やたら晴れ晴れとした顔つきで、男は言った。「リョウさんとミリアちゃんとの絆の深さがわかりました。」

 そして、また別の男が、「俺も、リョウさんのこと、正直、今までは音楽のためには何もかも犠牲にする人だと思っていたけど、ミリアちゃんだけは違うってことが、わかりました。」そう言って照れ笑いを浮かべながら、「もう、絶対、メンバーチェンジしないで下さいね!」と叫んだ。

 「Last Rebellionはこれで、完成形ですからね。」

 「いくら頭きても、ミリアちゃんにキレちゃダメですからね。」

 「ミリアちゃん、お大事に。リョウさんにしっかり看病してもらって、早く治してね。」

 そこにやってきたシュンがファンに囲まれたリョウの姿を見て、「何だよ、まだいやがったか! 早くミリア連れてとっとと帰りやがれよ!」とわざとつっけんどんに言った。

 リョウは俯きながらファンに「ありがとう。」と呟くように言うと、ライブハウスの階段を上がり、地上に出たところで再びミリアを背負い直し、ビルに切り取られた灰色の夜空を見上げた。そこにはたった二つ、今にも消え入りそうな星が微かな光を放っていた。


 家に帰ると、リョウはミリアをベッドに寝かせ、そして慣れぬ手つきで粥なぞを拵えミリアに啜らせた。

 ミリアは翌朝になっても相変わらず微熱があり、昨夜の失敗を口にしては泣くので、今日一日は学校を休ませることとした。リョウもライブの翌日ということでレッスンも入れず、元々一日オフにしていたので、ミリアの面倒を見たり慰めたり、しかしそれが功を成さずほとほと困り果て、最終的にはギターを弾いてやり、それでようやく、ミリアは泣き腫らした顔で眠りに着いた。

 リョウはふうと安堵の溜め息を吐き、さて、今夜の飯は何にしようか、さすがに三回連続粥じゃミリアは厭がるだろうか、などと考え始めた矢先に、突然、インターホンが鳴った。

 ミリアが起きたらただじゃおかねえと、凄みを効かせてドアを開けると、目線の先には誰もおらず、「こんにちは、ミリアちゃんのお兄ちゃん。」声のする方を見下ろすと、美桜がいた。

 「あ、ああ! 美桜ちゃん。」

 きっちりと結わかれたおさげには一本の乱れもなく、リョウは、これは美桜の母親がやっているのだろうか、そういえばミリアの髪の毛を結わいてやったことなぞ一度もない、こういうのを内心羨ましがっているのかもしれない、だとするならば明日から自分の頭で練習して結わいてやるべきか、などと考えていると、美桜が、「ミリアちゃん、大丈夫ですか?」と訊ねた。

 「ああ、うん、大丈夫。ちょっと微熱があるぐらいで。ごめんな、顔見てやってほしいところなんだけど、今、ようやく寝付いたばかりで……。」ちらと奥を見遣る。

 「いえ、いいんです。これ、」と言ってリボンの付いた小さな包みを突き出す。「今日調理クラブでバレンタインチョコ作ったんです。ミリアちゃんこれ作るの、とっても楽しみにしてたんです。」と言ってちらとリョウを見遣って、言ってはいけなかったかな、とばかりに肩を竦める。

 「ミリアちゃんの分も作ったから、渡してもらえますか? でもミリアちゃん、自分で作りたいって言ってたから、お熱下がったら、今度うちで母と一緒に作ろうって伝えて下さい。」

 リョウはその配慮よりも、この女児は、職質常連の成人男性相手になんと次から次へと言葉が出るのだろうと感嘆していた。とてもミリアと同じ年齢だとは思われない。そこに担任教師の、ミリアは「言語能力がすこぶる低い」との言葉が蘇る。

 リョウは頭を掻きながら、「美桜ちゃん、いつもミリアと仲良くしてくれてありがとね。でさ、あいつと一緒にいて、楽しい? 美桜ちゃんみてえにしっかりしてねえし、お喋りも下手で、厭にならない?」

 美桜は目を丸くする。「ミリアちゃん、とっても優しいし頑張り屋さんだし、私、大好きです! 言葉はゆっくりだけど、何でもお話してくれるし。他の人には言っちゃいけない内緒のことだって、私たちいっぱいお話するんです……。」美桜はそこで突然何か思いついたかのように言葉を区切ると、背伸びをしてリョウに囁いた。「今日、お兄さんはお仕事お休みですか?」

 「え? そう。今日は、休み。」照れくさそうに答える。仕事、とリョウの中でカテゴライズされているものは一つもなかったけれど。

 美桜はにっこりと笑って、一層声を落とす。「良かった。ミリアちゃん、お兄さんと一緒だと、元気でいられるみたいなんです。昔、怖いおじさんが家にいたことがあって、」

 リョウは即座に顔を顰めた。

 「一人でいると、そのおじさんにぶたれたところが痛くなるそうなんです。腕とか、背中とか、脚とか……。そんなこと、本当にあるのか私にはわからないんですけれど、ミリアちゃんは一人でいると、そうなっちゃうって……。それであんまり痛くて泣いちゃうこともあるって。でもお兄さんと一緒だと大丈夫で、痛くならないって。」

 美桜はそう言って、不思議そうにリョウの顔を見上げた。

 リョウは絶句した。自分といる時にはすっかり過去のことなんぞ忘れているように見えるミリアが、今も尚、一人では思い起こしては痛苦を覚えているなんて、知るべくもなかった。

 「でも、お兄さんお仕事お休みなら、今日はミリアちゃん大丈夫ですね。良かった。今日は痛くもならないし、きっとお熱も早く下がると思います。じゃあ、チョコレート渡してくださいね。それから今度美桜の家でバレンタイン一緒に作ろうって、ちゃんと、伝えて下さいね。それじゃあさようなら。」

 美桜はぺこり、と頭を下げるとすたすたと去って行った。

 リョウは扉を閉めるのも忘れ、苦渋に満ちた顔でその場に座り込んだ。

 何ということを自分はミリアに強いていたのだろう。ミリアを助けてやったなどと思い上がって、その実ミリアを精神的に殺していた。過去の絶望を曲に籠めろ? 能う限りの悲嘆をソロにしろ? ――悪魔だ。

 リョウはそのまま暫く俯いていたが、やがてぱっと立ち上がるとそのままミリアの枕元に向かった。

 軽く寝息を立てながら、ミリアは眠っていた。額を撫でようとして、その資格がないことに思い当たり、手が空で、止まる。

 その時、「リョウ……。」眠っているはずのミリアの唇が確かにそう呟いた。

 リョウは返事をしようとして、黙し、そのままミリアの赤らんだ顔を眺め下した。自分のようなものをどこまでも慕ってくれるこの幼子を幸せにしたい、ただそれだけなのに、どうしてできないであろう。音楽を介在させた瞬間、愛しているはずだのに岸壁から突き落としてしまう。絶望の淵に首根っこひっ捕まえて覗き込ませてしまう。ミリア自身を蔑ろにしてそこから生み出される音楽に、没入してしまう。しかしミリアにとってはここしか居場所がないものだから、しがみ付くように必死にそれに応えようとする。ミリアは明らかに自分の利己心の犠牲者であった。リョウはもっと直接的で純粋な愛し方を知りたかった。しかしいくら考えても何も思い浮かんではこなかった。

 その時、すう、と頬に一筋の涙が辿ったような感覚があったが、リョウは微動だにしなかった。

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