第37話

 幕の向こうでは「リョウ」を呼ぶがなり声に混じって、「ミリア」を呼ぶ声もはっきりと聞こえて来る。ミリアはギターを抱え、驚いた顔でリョウを見上げた。

 リョウはミリアの視線に気付き、微笑む。

 「ミリアって、言ってんな。」リョウはミリアに囁く。「お前のギターを、こんだけの人が待ってるんだ。例のソロ、聴かせろよ?」

 ミリアはゆっくり肯くと、足元のOne Controlのディストーション、keeleyのトワイライト・ゾーンを踏み、次々にライトを点灯させていく。

 後方ではバスドラムを踏み込む最後のチェックが終了し、四人は無言の裡に互いに目配せをし合った。

 アキが一つ肯くと、微笑みを浮かべながら高々とスティックを上げる。それが振り落とされる時、凄まじい響きがハコ全体を、否、全世界を、襲った。

 幕は一気に落とされ、一斉に客が前方へと押し寄せる。ミリアは風圧さえ感じた。そしてそれを契機とばかりモニターアンプに右足を置き、身を歓声の渦の中へと乗り出した。

 リフは演者の興奮と客の興奮とを丹念に混淆させ、次第に速度を増していく。永遠に続く悪夢、と名付けられたこの曲は、しかしそれを直視し得る、どこまでも強固な意志がその主題にはあった。ミリアは目を見開く。とことん自分の悪夢を凝視するのだ、という覚悟で。だからそれはどこまでも深く轟き渡り、聴く者をひたすら圧倒させた。

 やがてソロが到来する。ミリアはリョウの待つ中央に躍り出た。客が暴徒のようにステージに上がり、そこから次々に客席に飛び降りる。ミリアはリョウの音に合わせ、全てが完璧に揃ったユニゾンを奏でた。何も見なくとも、表出された思いだけで、音は一つに重なっていく。リョウはちらとミリアを見てほくそ笑む。これだ――。これこそが、ミリアのギター。

 客も全く同じことを感じていた。ソロの音を満身に浴びながら、ミリアの名を絶叫する。

 ミリアは目の前で出来上がり始めた渦を静かに見下ろしながら、世界を創り出さんとする新たなリフを刻み始めた。その時ミリアは、この痩せてちっぽけな少女は、誰よりも強く、全知全能でさえあった。

 死と向き合う音、絶望の泥沼に沈み行く曲、あらゆる負の感情を音にしながら曲は進んでいく。リョウは一切そこにMCを挟まなかった。そういう、手順としていた。なぜなら、


 「何かさ、言葉っていつも足らねえんだよな。」

 ある日二人で夕食を摂りながら、ミリアがまどろっこしそうにそれでも必死に学校の話をし終えると、リョウはそう、ぷつんと呟いた。

 「それは俺たちだけなのかなあ……。でもさ、だったらさ、ライブも時間限られている訳だし、喋るより一音でも出した方が、伝わるよな。」

 ミリアは頷いた。かねてからそういう思いは、あった。言葉とは、なんて強引に自分の思いを縛り、類型化するのだろうか、それに比べてギターはなんと複雑な心を語り得る豊潤な多様性を持っているのだろうか、と。

 リョウはそもそも今回のライブは持ち時間が短いということで、一度断っていたのである。だとするならばその限られた時間をフルに使っていくしかない。リハでMCを無くす、という提案をすると、

 「まあ、いいんじゃん。アキが体力的にやれるなら。」と言ってシュンは、三時間に及ぶリハを終え、汗みずくとなったアキをちらと見遣る。

 「おい、馬鹿にしてんのか? 三十分如きでバテるとかどこの瀕死の病人だ、クソが。」

 リョウは微笑んで「じゃあ、MC無しで。」と言い、手元の紙にセットリストを書き出した。


 自由に操れる言葉を持たないミリアは、全ての思いをリョウの作った音楽に乗せて吐き出す。あの日、肉親の死を冀い、世界を呪い、痛みに死を思い、それでもなお生き続けたあの思いを。

 曲は次々にミリアの思いを昇華しては終息していく。

 そして最後の曲、『BLOOD STAIN CHILD』となった。イントロのリフには隠しきれない慟哭と絶望とが丹念に織り込まれている。ミリアは客がこの曲を初めて聴くこととなるということに鑑み、ちらと不安げに初めて目の前の客を見た。

 そして、はっと息を呑んだ。暴徒とばかり思った連中が、挙って涙を流していることに気付いて。ミリアの身は震撼し出した。自分の思いがここに、確かに、共振しているということを実感したのである。

 リフはいつまでもいつまでも絶望を奏でる。ああ、そうだった。絶望の日々が永続するのを、ミリアは何よりも恐怖していた。だから死を希求した。死だけが望みだった。死だけを愛した。

 ミリアの双眸からは涙が伝い落ちた。

 そして、ソロ――。

 パッと突然、あのちっぽけな公園が脳裏にはっきりと映し出された。人気も無い、色も無い、滑り台があったことさえ気付かなかった、あの場所。それだけ、自分は死ばかりを熱愛し、憧憬していた。その思いが今、はっきりと、音になる。ミリアが繰り出す音は、凄まじい絶望となって聴く者を襲い、慟哭を齎した。そして、それに、ミリアも、呑まれた。

 ソロを終え、リフを刻むために、ネックを押さえなければならないミリアの左手が、そこからゆっくりと落ちていく。弦を刻まなければならない右手からも、猫の描かれたピックが、ぽたりと落ちる。自らのソロで絶望に飲み込まれたミリアには、曲を終息させるためのリフを刻む余力なぞ、残っていなかったのである。

 リョウが音を喪ったミリアを一瞥し、音量を増幅させるブースターを踏んだ。本来はソロで使うために用意してきたものであったが、リフで音が痩せては曲が成り立たない。リョウはミリアの分もと、渾身の力でもってリフを刻んだ。しかしそこには当然ミリアを責める気は生じなかった。それよりも――、あれだけのソロを弾いたなら、確かに――。リョウは茫然と立ちすくむミリアと、それを悲鳴のような声を上げて見詰める客の姿を見、一層の轟音を響かせた。

 地の底を這いまわるベースが、その動きを止め、シンバルの美しいきらめきが最後を彩る。そしてライブは終わった。ミリアは未だ、焦点の定まらぬ瞳で過去を逍遥していた。そして、幕が、下りた――。


 ミリアは機材を片付けるメンバーを尻目に一人ふらふらとステージ袖に引っ込むと、そのまま、倒れ込んだ。

 出番を待つ本日最後のバンドのメンバー達がそれに気づき、慌ててミリアを楽屋まで運び、ソファに寝かせる。

 「おいミリア!」慌ててその後を追ったリョウは、ミリアの脇に座り込むと、その汗ばんでいながらも酷く青ざめた顔を見て息を呑み、首筋に手を当て脈を計った。速い。

 ミリアは薄く目を開けた。

 「大丈夫か?」

 ミリアの顔が歪んだ。「……弾けない。」

 「何、言ってんだ。堂々と弾いてたじゃねえか。」

 ミリアはいやいやをして、手で顔を覆い、「ダメ。」と一言呟いた。

 「ダメじゃねえだろ。ちゃんと、ソロ、弾いてたじゃねえか。客の顔見たか? 誰もがお前のギターに感動して、涙流してたじゃねえか。」

 そこにシュンとアキも戻ってくる。

 「……せっかく、公園まで行ったのに。ちゃんと、思い出したのに。でもそれを、」声が甲高くなっていく。「音にするの、苦しい。」

 リョウは顔を顰めた。

 ――弾けねえのなら、辞めろ。

 バンドのリーダーとしてはそう言うべきだった。今までもそういう発言を、自分はしてきた。客から金を取り、プロとして演奏する以上、それが当然だと思っていた。しかし今、自分の口からは何の言葉も出ない。

 まだ子供であるミリアに、思い出したくもない過去を思い出させ、まざまざと突き付け、音楽に籠めろと命じたのは自分だ。それに耐えかね、ミリアは倒れた。

 自己の非道さを痛感しつつ、リョウはミリアの脇にしゃがみ込んで頭を抱えた。

 シュンとアキは緊張しながらその様を見詰めた。いつものリョウであれば、ライブでの演奏を中途で辞めたりしたならば、怒鳴り散らしその場でクビにして終いだ。そういう様を、今まで、何度も、見てきた。

 「……俺が、悪かった。」

 シュンとアキは息を呑んだ。ミリアもはっとなってリョウを見上げた。

 「お前に無理を強いたのは、俺だ。お前はまだ、子供なのに。それも、……傷を負った、子供なのに。」

 ミリアは目をぎゅっと瞑りながら、両腕でしっかと身を支え、よたよたと上半身を起こす。

 「リョウは、悪くない。ミリアが……、」ミリアは懸命に言葉を探す。そして、「ちゃんと、覚悟して、無かったの。」そして、ぐしゃとミリアは泣いた。「もう、今日のお客さんは来てくれないかもしれない。一回だけしかミリアと会えないかもしれない。なのに、こんなこと、して――」

 ミリアは再度ソファに顔を突っ伏すと、今度はわあわあ泣いた。

 リョウは眉間に皺を寄せたまま俯いた。ステージに立つ者として理想を体現できなかったミリアを叱るべきか、それとも子供だから仕方がないと慰めるべきか、それは前者に決まっている。バンドのリーダーとは、そういうものだ。でも、それはできない。感情が、理屈を圧しつける。

 リョウは後ろの二人を振り返って、「CD、配布しといてくれるか?」と言った。

 「あ、ああ。もちろん。」シュンが答える。

 「俺、ミリア連れて先帰るわ。このままじゃ、ちょっと、周りにも迷惑だしな……。シュン、ギターと機材、後で俺んち運んで。いつでもいい。」

 リョウはミリアの腕を取ると、ひょいと背負い上げた。身は震えていた。リョウはそれに気づいて、顔を顰めた。

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