第36話
寒気も残る薄曇りの中、リョウはドラッグスターにミリアを乗せ、出発した。ここからミリアの育ったT市までは二時間を見る。
「便所行きたくなかったら、言えよ。」
ミリアは目深に被ったヘルメットの奥から、深刻そうにこくりと肯いた。
リョウは心得顔に肯くとバイクを走らせた。どこへ向かっているのか、そこへ行くことで何がどう変わるのか。不安と期待との奇妙に入り混じった気分は自然と速度を上げていった。
やがて国道に出、線路脇に出る。ミリアはバイクと併走する電車を見た。乗客はまばらで、ふと、ミリアは初めて電車に乗ってリョウの家に来た時のことを思い起こした。あの時はどれだけ不安だったろう。名はおろか、存在さえ知らなかった兄の姿を思い描きつつ、全ての生命線を絶たれた人が縋るように思い詰めて電車を乗り継いだ。夏休みの車内で騒ぐ周囲の家族が羨ましく、しかし自分の犯した罪を思えば、もっともっと苦難を得なければならぬはずだと恐怖して……。
兄に出会ったら、何を告げたらよいのか。父の死? 自己の庇護? 託された一通の手紙がどこまでの効力を発揮するのか。もし兄にすげなく同居を断られたら……? 再び街を浮浪して歩くしかない、そう思えば叫び出したい程に恐ろしかった。自分がいかに必死に生きようともがいても、それが幸に結び付くのか不幸に結び付くのか見当さえつかない恐怖。ミリアは幾つもの嗚咽を吞み込んだ。
そして最初にリョウを見た時――。その父親の面影を残した顔に自分の罪を突き付けられたような気がして恐れ戦き、動転し、暴れ、しかしそれもすぐにリョウの優しさにあっという間に解きほぐされ、そればかりか恋慕の情が芽生え、尊崇するようになり――。
ミリアはリョウの背を強く抱きしめた。
ひたすら国道を走り二度の休憩を差し挟むと、ミリアの記憶にある風景が広がってきた。かつて隣家の老夫婦に送り出された駅。それは何一つ変わらず、小さく、騒々しく、ミリアの目前に現れた。
ミリアは自身の呼吸が激しくなるのを感じ、努めて深呼吸を繰り返した。
何度も当てもなく歩き続けた駅から続く道。喉の奥がごつごつと痛くなる。ミリアは首を横に振った。泣くために、戻って来たわけじゃない。リョウと一緒に、自分がかつて得た絶望、苦悩、孤独感、不安、悲嘆、その全てを思い起こし、それを曲に籠めるために、来たのだ。
ミリアはそう自身に言い聞かせて大きく目を見開いた。そして喪われつつあった風景を再び胸に刻み込んだ。
「公園、どこら辺?」
リョウが速度を落として尋ねる。
「あそこ、あそこの信号、右。」
「おお。」
体が傾く。
「ずっと、真っ直ぐ。」
ミリアの身は否応なしに震え出す。ミリアは弱い己心を振り払わんと、再び激しく頭を左右に振った。
「あそこ!」ミリアはの声は自ずと甲高くなった。「あそこの、突き当り!」
バイクは、止まった。公園は、ミリアの記憶よりも遥かに小さく、古く、荒れていた。
ミリアの鼓動が否応なしに激しくなる。リョウの手を借り、バイクから降りる。そしてミリアは一人、入口の錆びた鉄柵の合間を、通った。
知った砂場、知った滑り台。ああ、あれは、あの日々はやはり現実だったのだ、という奇妙な感覚がミリアの胸を襲った。いつの間にか過去は夢と同一視され、現実から追いやられようとしていた。もしそのまま放置していたら、――ミリアは曲に籠められないまま忘却されようとしてた感情を、この上なく大切に、思った。
公園は誰一人いないばかりか、雑草が生い茂り、誰も利用していない様子が瞭然である。ミリアはゆっくり、ゆっくり、公園の奥にある砂場へと歩み寄った。
そして、「……白ちゃん、茶色ちゃん、三毛ちゃん。」と囁くように呼んだ。一種半信半疑の響きをもって。
リョウはその後姿を、入口の手摺に越し掛けながら手持無沙汰に眺めた。
ペンキの剥げた、何色だかわかりもしない滑り台だけが、唯一の遊具である。あとは草がそこだけ茂っていないという理由だけで、それと解る砂場。ここで傷付いたミリアは多くの時間を、過ごした。
リョウはまじまじとこの公園、というよりも空き地と言った方が適切な、この哀しい場所を眺めた。一つも救いようはなかった。希望のかけらもなかった。
すると叢の影から、一匹の白っぽい猫がミリアの元に歩み寄ってきた。
リョウはその慣れた様子に目を見開いた。
ミリアは座り込み、その猫を抱き締めた。そしてその小さな猫に顔を埋める。
暫く時が止まったかのようにリョウには思われたが、やがてミリアがすっくと立ち上がるとリョウを思ったよりも強い意志を有した瞳で見た。それをこっちに来て、という意味に取ったリョウは、寂れた公園を突っ切ってミリアの元へと歩いた。
腕の中の猫は大人しくミリアに抱かれている。
「この、……白ちゃん、ミリアの友達。ずっと、ずっと、一緒だったの。」ミリアは感極まったような声で言った。「ずっと……。」
猫はそうだ、と言わんばかりににゃあと鳴いた。
「ミリアのこと、心配してたって。……リョウが、食べ物くれて、ベッドも買ってくれて、ギターも教えてくれたって、言った。」
ミリアは一呼吸置くと、「ここで、猫ちゃんとパパを殺す相談、したの。早く死ぬと、いいねって。あと、お腹が空いた時も、女のひとがいる時も、お顔とか、背中とか、痛くなった時も……。」
興奮しているのか、やたらミリアは多弁になった。
そしてミリアはすっと砂場の縁に歩み寄り、ブロックに座り込んだ。
「いつもこうしてた。」
ミリアの顔が歪む。泣くかな、とリョウは思ったがミリアはびくりと頬を蠢かすとまた、いつもの様子に戻った。そして目を閉じる。
「そして、殺した……。」
そう言い終えると、遂に、ひい、という悲鳴のような泣き声が上がった。
リョウは何も言わなかった。その切り裂くような声が止むのを待った。それはやがて静かに終息した。
ミリアは濡れた瞳で力強く微笑む。「ミリアのソロは、これ。思い、出した。もう、弾ける。リョウ、ありがとう。リョウと一緒だから、来れた。」
そして力いっぱいリョウに抱き付いた。ミリアの懐から猫が優雅に飛び降りる。ミリアは声を上げて、泣いた。ミリアの足元には、尻尾を上げた猫がうなじを擦り付けていた。
「ミリアちゃん?」
躊躇いと確信の綯い交ぜになった声が聞こえてくる。ミリアははっとなって公園の入り口を振り返った。
「おばちゃん……。」ミリアの声は震えていた。口を押え込み、そして駆け出す。「おばちゃん!」そこに立っていたのは、スーパーの袋をぶら下げた初老の婦人である。婦人は何の躊躇もなく袋を落とすと、慌ててミリアに駆け寄り、そして固く固く抱きしめた。ミリアと婦人の泣き声が重なる。
「……一体、どうしたの? どうして、ここに?」婦人は涙を拭いながらミリアに優しく問い掛けた。
「あのね、昔のこと思い出したくて、連れて来てもらったの。こっちが、リョウ。お兄ちゃん。」
リョウはそう紹介され、頭を下げ二人に歩み寄った。どうやらミリアの世話をしてくれていた隣人であることは容易に想像がついたが、こんな赤い長髪では心配をさせてしまうのではないかとリョウは今更ながらこの風体に後悔の念を覚え出した。
「ミリアが、お世話になりました。兄の亮司です。」リョウはせめて振舞いだけでも安堵を与えたく、深々とお辞儀をする。
「リョウが、ミリアをとってもとっても幸せにしてくれてんの。あのね、本当に。」ミリアもリョウを容貌で判断されてしまうのではないかという焦燥感に、矢継ぎ早に言い立てる。
「わかるわよ。」婦人はにっこりと笑って中腰になり、ミリアの頬をゆっくりと撫でた。「こんなに可愛らしくなって。ほっぺもピンクで、手足もこんなに伸びて。お洋服もこんなに素敵なもの着せてもらって。まるでモデルさんみたいに。……おばちゃんね、ミリアちゃんが幸せになりますようにって、毎日お仏壇に手合わせてたの。それで、幸せいっぱいの可愛いお嬢ちゃんになって、いつか会えたらって……。でもこんなに、」婦人は声を詰まらせる。「こんなに、幸せそうな姿で会えるなんて、思ってなかった。」再びミリアを抱き締め、婦人は肩を震わせる。
「おばちゃん。ありがとう。あのね、リョウがね、毎日美味しいご飯作ってくれてね。そんでお友達もいっぱいできてね。お友達のママも優しくしてくれてね。あのね、天国みたい。おばちゃんが、リョウの所行くようにしてくれたから。そんだから、ミリアは幸せになれたの。サンタさんだって来たの。」
婦人はミリアの頭を何度も撫でた。
それからミリアは慰めるように、事細かに婦人に今の生活を吐露していった。芸術祭でギターを皆の前で披露したこと、調理クラブに入って毎週お菓子作りに励んでいること、授業参観にも家庭訪問にもリョウは応じてくれること、婦人はうんうんと何度も頷きミリアの話に聞き入った。
「全部全部、リョウがミリアのこと大事に大事にしてくれるから、幸せなの。」
リョウはしかしミリアの傷を抉り曲を弾かせていることに思い当たって、苦しさを覚える。
「そうなのね。おばちゃん、とっても嬉しい。ミリアちゃんがここに来るのは辛いだろうと思ってたけれど、わざわざ来てくれて、こうして会えて、本当に本当に嬉しいよ。もし、また戻って来たかったら、おばちゃんはいつでもおうちにいるから。遠慮せずに来るんだよ。」
「うん。ありがとう。」
名残惜しく二人が別れの言葉を継げる。リョウは婦人の落とした袋を拾い、そっと手渡した。
「ミリアちゃんをよろしくお願いしますね。この子は小さい頃は本当に苦労をしてきたから……。」婦人の瞳はほんのりと濡れていた。
「ええ。わかっています。……金はないですけど、愛情だけは。」
婦人の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
そしていよいよライブ当日となった。出演バンドは総勢十三組、最初のバンドは昼からの出番ということもあり、まだ陽の高い内から大勢の客が入れ代わり立ち代わりライブハウスを訪れていた。
ミリアは朝一でのリハを終えると、リョウたちとライブハウス近くのファミリーレストランに入った。
「さっきのリハでの、ミリアのソロ、レコーディングの時よりもよくなってきてたな。」とシュンがフルーツパフェのメロンを頬張りながら言う。ミリアが食べているのを見て我慢できなくなり、ハンバーグランチの後に追加注文したのである。
ミリアは少しばかり紅潮した顔で、ちらとシュンを見上げた。
「そりゃあよお、この年だぜ。毎日成長してんだよ、こいつは。なあミリア?」リョウは、そう言ってビールを呷る。
昨日夕焼け公園に行ってミリアがインスピレーションを得たことは、どうやら二人には内緒にするつもりのようだった。ミリアは嬉しさに口を窄める。
「ってか、同じことばっかやってちゃ毎回来てくれてる精鋭たちが飽きちまうし、何より俺らにとっても成長がねえ。停滞は堕落だ。変化は絶対、必要だ。」
ミリアはリョウの顔を眺める。シュンはメロンの皮を口から取り出すと、「そりゃそうだけど、……お前、何、いきなり。どしたの?」とリョウを覗き込むように言った。
「どうしたもこうも、ねえよ。言っておくがこのバンドの核の部分は何があろうが、死んでも変えねえ。だから変化っつうのは、要は挑戦だ。深化だ。わかるな?」
ミリアは肯く。シュンとアキは瞬きを繰り返す。
「お前、マジで何か、あった?」アキが瞬きを繰り返す。
「だから、どうしたもこうしたも、ねえよ。お前らもそうだからな、覚えとけ。挑戦ができなくなった時は、バンドを辞める時だ。少なくともステージ上がる資格は、ねえ。」
ミリアは不安気に、フォークを顔の前で傾けたまま、「ちょうせん?」と繰り返した。
「そうだ。自分の内面を掘り下げて、ぶち当たる壁を一つ一つ破っていく。嫌な部分もまざまざと見せ付けられるし、自分の弱さとの戦いになる。でも今後も俺は深化をし続ける。そうすりゃ、腕がもがれようと喉が潰れようと、ステージに上がれる。その資格が、あるからな。」
シュンとアキはあまりにも唐突なリョウのご高説の披露に、互いに目配せし合った。
しかしミリアにはわかっていた。自分の昨日の行動が、何らかの形でリョウにも影響を与えたことに。ミリアはだから、「リョウ、これ、あげる。」と、パフェに載ったチョコの付いたバナナをフォークに突き刺し、リョウの口元に運んでやった。リョウはそれを崩すに崩せなくなった真剣な眼差しで、それを頬張った。
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