第33話

 「これはね、トパーズっていう石なの、ミリアちゃんにチャンスがやってくる、魔法の石なの。」

 特別だから、と教室ではなくわざわざ家に呼ばれ、ミリアの手にそっとかけられたのは、見たこともないような輝きを秘めた薄いブルーの石だった。ミリアは吸い込まれるようにその石を凝視する。

 「綺麗……。」ため息交じりに言った。

 「ただ綺麗なだけじゃないの。お店の人が言ってた。チャンスって、きっとね、すっごくいいことって意味なの。それが、起こるんだって。」

 「……いいこと?」

 「そう。」美桜は笑顔で肯く。「ミリアちゃんにとって、いいことってなあに?」

 「リョウと、」そして、口籠った。「いっしょに暮らして、隣でギター弾いて……、ずっと。」

 「叶うよ! だってお店の人、そう言ってたもん。チャンスって。」

 美桜がミリアを下から覗き込むようにして笑い、ミリアもそれに釣られて笑った。もう一度ブレスレッドを凝視すると、今度はそれをぎゅっと握り締め、目を瞑り、「リョウとずっといっしょにくらせますように。」と慣れ親しんだフレーズを胸中に唱えた。「パパが一日でも早く死にますように。」かつてそれを叶えてみせた自負は、無意識裡に今も尚持続していた。


 そうこうする内にミリアが正式メンバーとして初めてステージに立つライブの予定が入った。それは即座にシュンとアキにも伝えられ、早速新曲を合わせるために、スタジオを押さえる運びとなった。年末年始にリョウが作り上げた数々の新曲は、そこで想像以上の迫力と緊張感を与える「生きた」曲へと変化していった。

 「今回の曲は特に、凄ぇ。お前、遂に人間外の領域に踏み込んだな。」練習を終えたスタジオのロビーで、テーブルを囲みながらシュンがあながち冗談でもない真剣さでリョウに迫った。「しかも次のハコは、サンクチュアリだろ? あそこの音作りは半端ねえからな……。この曲引っ提げてあの音作りでやる次のライブが、俺は、……なんつうか、最早、怖い。」

 「今回はマジで超えて来たな。新曲だけで次やりてえなあ。でも今までの代表曲やらなかったら、客キレるかな?」とアキは興奮しきりといった表情で、二人の顔を交互に見る。

 しかしリョウは浮かない顔つきで、上体をテーブルに投げ出し、ヴォルビックのペットボトルを弄んでいた。

 「……そうかあ? まあ、悪いとは言わねえけど、正直、そこまでか? ……それよりよお。」リョウは二人を見据える。「今、今日のとは別に、作ってる曲あんだよ。まだ、完成してはねえんだけど……。」

 「マジか。」シュンが立ち上がる。「お前、どうしたんだよ、この年末年始。急ピッチすぎんだろ、何やってた?」

 リョウはミリアを見下ろす。ミリアは自分のピックとリョウのピック、シュンのピックの三枚をテーブルの上に並べ、厚さや大きさやらを熱心に比べていた。

 「主な出来事は、クリスマスのデートに、大みそかから正月にかけての完徹ギター練習会、だな。二十代の男にこの上なくふさわしい過ごし方だ。」

 その目線から両方ミリアと一緒であることは容易に想像がついた。

 「ああ。……そうか。」シュンもミリアを見下ろしながら肯く。

 「その新曲、もうすぐ出来そうなわけ?」アキが問うた。

 「いや、それが……。」リョウは口ごもり、頭を抱える。「あのな、凄ぇ曲なんだ。我ながら、凄ぇ曲なんだ。俺はこれを超えるキラーチューンを、もうこの人生では創り出せそうにない。この天井を見上げて俺は己の無力さに苛まれながら、生涯ミュージシャンとして生きていくことになるんだと思う。」

 二人はぽかんと口を開け、リョウの言葉を聞いていた。

 リョウはいつだって、一切の労苦を窺わせることなく曲を持ってきた。真か嘘かはわからないが、神が降りてくるなどと言って、かつて作曲に当たって己の努力の跡を口にすることは皆無であった。

 「……だから絶対妥協はできねえ。でも、何か月、何年掛けていいって代物でもねえんだ。」

 「なあんで。そんなん凄ぇ曲だったら、納得いくまでやってろよ。新曲はこんだけあるんだし。十分じゃねえか。」シュンが言う。

 「ダメなんだ。こいつが正式加入してLast Rebellionの完全体となった最初のライブで、やらなきゃいけねえ曲なんだ。」

 シュンとアキは息を呑んだ。あとリハーサルを持てるのは二回しかない。そこで未だ聴いてもいない、それどころか完成さえしていない曲を客に披露するレベルにまで到達させるというのは、非現実的と言わざるを得なかった。

 「あと、どんぐれえなの? リフはさすがに出来てんだろ? じゃあ、詞か?」アキが焦燥を滲ませながら言う。

 「詞はほぼ完成している。」

 アキは安堵の笑みを浮かべた。

 「じゃあ、後は何だ? アレンジ? ソロ?」シュンがそう言って身を乗り出した。

 「ソロ、だ。」

 「じゃあ余裕じゃんか。」シュンはそう言ってアキと微笑み合う。「レコーディングするっていう訳でもねえし、手癖でも昔のパクりでも何でもいいから適当に決めちまって、あと二回で完璧に持っていこうぜ。俺らも頑張るからさ。まあ、今日のは出来も良かったし、次回はその凄ぇ新曲中心のリハってことでやってけば、何とか間に合うだろ。」

 「ソロを創るのは、俺じゃない。」

 二人は息を呑んだ。その視線はじりじりと、テーブルの上でピックを比べ続けているミリアに注がれる。

 「ミリアなんだ。」

 「お前!」シュンが叫ぶ。「……お前がやれよ。何でミリアに押し付けんだよ。」怒りを滲ませながら言う。

 「そうだよ、曲作ったこともねえミリアに何いきなり超ど級のハードル課して、あと二回で完璧に持ってくって、お前、頭おかしくなった?」アキもそう言ってリョウを睨み上げた。

 「……これはミリアの曲なんだ。」

 リョウは両手を顔の前で組みながら、目を閉じる。ミリアがようやくピックから顔を上げ、目を丸くしながらリョウを見詰めた。

 「ミリアが絶望を見据え、そこから這い上がる曲なんだ。」

 その声は幾分震えていた。ミリアはその聞いたことのない声に、心配そうにリョウの手に自分の右手を重ね、顔を覗き込もうと試みる。

 リョウはミリアに微笑みかける。

 「……タイトルは、『BLOOD STAIN CHILD』。」


 スタジオから帰ると、リョウはパソコンのデスクに座り、目の前にミリアを立たせた。

 「ミリア……。」

 リョウはそう、低く呟くように名を呼んだ。ミリアは胸が痛くなった。自分に与えられたらしい過度な役割のためでは無論なく、ただ、リョウが辛そうにしているのが、辛かった。

 リョウはパソコンを立ち上げ、曲を掛けようとして、その手を止めた。

 「俺が、間違ってんのかな……。」

 ミリアは下唇を噛んだ。間違っていても間違っていなくても、そんなことはどうでもよかった。ただリョウが苦悩から解放されれば。もしかしたらそのカギを握るのは自分ではないかと思い成し、ミリアはえい、と腹に力を込めた。

 「……ミリアの曲を作ったんだ。ミリアが感じたはずの絶望とそこからの自力での脱却を曲にした。ミリアがこれからバンドで絶望を奏でるギタリストとして生きていくために。でもよく考えればミリアはまだ子供で、俺がしようとしていることは、残酷なことなのかもしれない……。」

 「……残酷じゃない。」ミリアは満身に力を込めながら言う。リョウの曲はいつだって素晴らしかったし、そこで自分の力が必要とされているのならば、ソロでも何でも、創るのが自分の役目だと思われた。そうでなければ、リョウの傍にはいられない、そんな使命感が沸々と沸き起こっていた。

 リョウは少し充血した瞳で、微笑みながらミリアを眺めた。両手がミリアの頬を包み込んだ。

 「……あのな、俺らの最大の共通点は、血じゃねえ。」

 ミリアはあまりにも唐突なその一言に、瞬きさえせずにリョウを見詰める。

 「俺らを繋いでいるものは、」にやりと笑った。「おんなじ絶望を知っていることだ。だから、俺はミリアの曲を書けるんだ。他の何人でもなく、ミリアのを、な。」

 リョウは笑いとも苦悩とも付かぬ具合に鼻梁にぎゅっと皴を寄せ、手を離して言った。「俺は親父に命じられ、知らねえジジイに裸にされ……散々、甚振られた。」

 さっと、ミリアの顔色が変わった。

 「誰にも助けて貰えなかった。助けを求めることもできなかった。だから何度も、何度も、それは続いた。そういう趣味のジジイは三人ぐらい、いたかな。単に親父に殴られ蹴飛ばされる方がどれほどマシだったか。俺は薄汚れている。」リョウの声は震えていた。

 「俺はいつも、縛られ弄ばれを繰り返されながら、親父もそのジジイも誰も彼も、ぶち殺してえって、ずっとずっと思っていた。現実も夢も無かった。俺の意識は全て、殺してえっていう思いだけだった。……それをこの曲を書くまで、忘れてたんだ。否、忘れるわけがねえよな。意図的に、封印してたに違いねえ。でもミリアの絶望に寄り添おうとして、俺とミリアの共通点の全てを思い起こそうとして、そうしたら、出て来たんだ。記憶が。それで、そのまま、この曲を作った。それをお前に弾かせ、完成させようとしている。……お前はこれでも、俺を優しい人間だと、思ってる?」

 ミリアは肯いた。続けて、激しく二度、三度も肯いた。

 リョウはかつて見たこともないような、自嘲的な笑みを浮かべて言った。

 「……お前があの日、最初に俺の家に来た日、親父が死んだって手紙を見て、俺は心底救われたと思った。世界中に感謝したくなった。ありとあらゆる人間に額づいて回りてえぐらいに。と同時に、」リョウは長い息を吐いた。「俺は人の死でしか救われないんだと思って唖然としたよ。こんな人間が、人前で歌う資格なんてあるのかなってな。そうしたら都合よく、目の前には痩せて汚れてボロボロだったお前がいたんだ。だからお前を救えば――、」リョウの瞳にはうっすらと滲んでいるように見え、ミリアは焦燥した。「俺はまっとうな人間になれると、思ったんだ。人間らしいことに、ちゃんと喜びを感じられる人間になれると、思ったんだ。俺は、そういう自分中心的な理由でミリアを引きずり込んだ。人でなしだ――。」

 ミリアの見張った双眸から涙が溢れ出した。底知れぬ悲しみに。この上なく純粋な悲しみに。そこには憎悪はおろか、裏切られたという思いも、何も無かった。ただただ、自己を責めるリョウが可哀そうでならなかった。自分にはリョウを慰める言葉の一つもないのが悔しくてならなかった。ただ、全身全霊を掛けて、自分がどうなろうとも、リョウの悲しみを救いたい、そう思った。そして――、

 「ミリアが、パパを、殺した。」ミリアは一言一言そうはっきり区切って、力強く言った。「リョウのために、殺した。」

 リョウは目を見開いた。

 無論そんなことを信じられる筈はない。

 第一に、自分の存在をミリアは父親の死後になって初めて知ったわけだし、何より、あの、暴力的で残忍で卑怯で汚い男を、こんな小さな少女がどうしたって殺せるわけはないのだ。それは当然だった。しかしミリアの姿は真剣そのものであり、嘘偽りは微塵もなく、リョウは胸打たれた。

 「……どう、やって?」そう問いかけた声は、だから情けなくも幾分震えていた。

 「毎日、お祈りした。」

 ミリアは肩で一つ大きな呼吸をすると、「学校に行く前と、後と、神社と、教会と、毎日、行った。ミミズ……。」

 「ミミズ?」

 「ミミズみたいに、死んでって、お願いした。」

 「そうして、死んだの?」

 ミリアは深々と肯いた。

 「入学式から、お参り始めて、夏、死んだ。そして、リョウの家に、来た。」

 それは単なる偶然だと、そう言い出せない気迫が、ミリアにはあった。

 リョウはほとんど衝動的にミリアを抱き締めた。

 自分の全てを知った上で救ってくれたのはミリアだったのだという事実をそこにはっきりと、認めて。ミリアは抱きすくめられたまま、リョウの頸筋に、「リョウのために、ミリアが、殺した。……リョウは汚れてなんか、ないから。それにちゃんと、ずっと、誰よりも優しいから。だから、泣かないで。」

 泣いてねえよ、そう言おうとした瞬間、リョウは自分の眼から熱い涙が零れ落ちるのを感じた。

 自分が逃げることしかできなかった父親に、最後の審判を下したのはミリアだった――。そういう観念がリョウの思考を新たにした。

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