第11話
それから数時間が経った後、ソファで寝ていた筈のミリアが突然むくりと起き出した。リョウはギターを弾きながら、「便所はそっちな。」と言ったが、返事は無い。不審に思ってミリアの顔を凝視すると、その瞳は焦点を定めていなかった。リョウはギターを置き、何度かミリアの眼の前で手を振ってみたが、ミリアは反応を見せず、そのままふらふらと台所へ向かって歩き出す。
「おい、寝ぼけてんのか。」
リョウは仕方なしに立ち上がって、ミリアの肩を掴んだ。途端、物凄い悲鳴が上がった。いやあああああ、という非難とも抗議ともつかぬ絶叫にリョウは一瞬怯んだが、慌てて抱き留める。
「おい、何なんだよ、一体!」
自由を奪われたミリアはそれによって更に暴れ、リョウの胸を拳で何度も叩いた。当然痛みを齎すものではないが、リョウは混乱する。これはただ寝ぼけているというようなものではない。しかし一体何が起きたのだか、見当もつかない。
リョウはミリアを抱き締めたままソファに座らせると、「わかった。落ち着け落ち着け。何も怖いこと、ねえから。なあ。」などと語り掛け、頭を撫で続けた。やがて、ミリアはリョウの腕の中に凭れ切って、再び何事もなかったように、すうと眠りに就いた。
リョウはそのままミリアをソファに寝かすと、ギターも取らずにしばらくじっとその寝顔を見詰めていた。
翌朝、ミリアが目を覚ますと、目の前にはギターのネックを握ったまま上半身をテーブルにうつ伏しているリョウがいた。ミリアは立ち上がり、両手を伸ばして欠伸をした。既に、陽光が部屋の中を満たしている。
ミリアはふと思い立ち、台所へと向かった。食パンが三枚。それから冷蔵庫を開けると卵が二つと、昨日焼きそばに使ったソースとマヨネーズがあった。ミリアは暫くその様を眺めていたが、意を決して卵を取り出すとフライパンに油を注ぎ、卵を落とした。ジュウジュウと音がし、それによってリョウが起きてしまわないか何度も背伸びをして確認した。そして縁が微かに焦げ黄身がピンク色に染まった卵をパンに挟むと、丁寧に真ん中から半分に切った。皿を二枚取り出し、二つ、並べた。
ミリアはそれをそうっとテーブルに運び、置いた、リョウは軽く鼾なんぞを掻いてまるで起きる気配がない。
ミリアはその様をじっと眺めた。冷静に見れば、父とよく似ている。すらりとした鼻も、薄く平たい唇も。ミリアはしかしそれをどれほど凝視してもたった一日で負の恐怖が内に沸き起こってこないのを、不思議にも嬉しく思った。
すると突然リョウががば、と頭を上げた。目は血走り、顎には涎が付いていた。
目の前のミリアを凝視すると、「大丈夫か?」と慌ててミリアの肩を持ち、尋ねた。
「うん。」ミリアは不思議そうに答える。
「寝ぼけてねえか?」
「ない。」
「変な夢、見てねえか?」
「……ない。」
リョウは眉間に皴を寄せてミリアを見据え、そしてテーブルの上のパンに気づいた。「お前料理なんか作れるのか!」リョウは突如大声を出してミリアを見た。
「卵だけ。」近所に鶏を飼っている家があり、そこから卵を貰うことが幾度となくあったので、ミリアは卵焼きだけは作れたのである。
「人に朝飯作ってもらったのなんて何年ぶりだろう。ミリア、ありがとうな。しかも、卵しかなかったろ? 昨日買い物して帰ってくりゃあよかったんだが、遅くなっちまったからな。いやあ、なのに凄ぇ。」
リョウは感極まったような声を絞り出すと、大事そうにパンを両手で持った。「いただきます。」
ミリアも「いただきます。」と続く。
「ううむ。」リョウは一口齧ると目を見開いて、咀嚼をし終えるなり「素晴らしい味付けじゃねえか。」と唸るように言った。
「お塩。」ミリアはさすがに照れくさくなって俯いた。「台所にあった。」
「素晴らしい塩加減じゃねえか。これはかつて食ったことのない程旨いサンドウィッチだ。お前にはギターも料理も才能がある。溢れ、出している。」
リョウはそう言って本当にパンから溢れ出した卵の黄身を啜った。そして残りを全て口の中に押し込み、食べ切った。
「さあ、今日は買い物に行くぞ。お前の服と靴と、それからその他色々をな。」
ミリアはどうしたらよいか、とばかりに狂犬のTシャツを撫で、リョウを見た。
「ああ、それでいいだろ。クールだからな。今日はリハもねえし、レッスンも移動さして貰えたし……。」そう言いつつシャワールームに消えた。
ミリアは窓越しの空を見上げる。夕方に父親が酩酊し眠りこけるまで、延々とこの炎天下を一人歩き続けることを考えれば、恐ろしく嫌な天気だった。いつもうんざりして眺めたこの空はしかし、今日はまるで違って見えた。買い物、だなんてクラスの子が口にするのを聞いて、どれほど羨ましく思ったろう。友人達が手にするフリルのスカート、カラフルな靴下、リボンのバレッタ、全てが夢のように目に映った。それらは全て「昨日の買い物」によって齎されたというのを聞いて、ミリアはうっとりその様を夢に描いたものだった。
間もなく濡れた髪でタオルを引っかけながら現れたリョウは、ミリアのそれとは確かに少々デザインの異なる、黒いTシャツを着ていた。
「これも大分クールだろ。CARCASSが来日した時のやつだ。三枚目のアルバムは、マジで神だ。あれを超えるメロデスはまず、この世には、ねえな。」
リョウは濡れたままの髪を後ろに一つに束ね上げると、玄関から小さなピンク色のヘルメットを持ってきて、ミリアの正面にしゃがみ込んで丁寧に被せた。「うん、なかなか似合うな。」前髪をしっかと左右に分けてやる。「前、見えるな?」ミリアは肯いた。
「昨日バイク屋寄って買ってきたんだ。これで、いつでも一緒に出かけられるな。」リョウはそう言って満足げに微笑むと、立ち上がった。
「じゃあ、行くか。今日行く所は、ちょっと遠いぞ。」
ミリアは息をのんだ。遠い所へ行けるだなんて、考えただけで鼓動が高鳴る。
リョウは自分の言葉がミリアに齎している影響をほとんど理解はしていなかったが、ミリアが少しずつはにかんだり、微笑んだりするのを嬉しく発見した。そしてそのたびにかつて覚えたことのない、「家族」に対する親近感を覚えるのだった。
ただ気懸かりなのは――、リョウは昨夜のミリアの様子を思い浮かべる。意識もなく人が歩き回り、悲鳴を上げるなどということがあるのだろうか。おかしな病気にかかっているのではないか、やはりそこだけはどうしても晴れないのであった。
ミリアを後ろに乗せ、バイクに乗って向かったのは、郊外のアウトレットモールだった。昨日、スタジオの受付をしていた顔見知りの女に、「金は無い」、「女児の服を(できたら)多数欲しい」、「そして金は無い」、「やはり金は無い」という条件を突きつけた所、教えてもらったのがここだったのだ。
バイクで一時間近くも走り到着すると(途中リョウはミリアに便意や喉の渇きを尋ねても首を横に振るだけだったので、相当に早く着いた)、そこはヤシの木があちこちに生えていて、所々に噴水やベンチのある、やたらハワイアンな雰囲気の街並みだった。
太陽が沈んだ頃から、死だの絶望だの、悪夢だのを織り交ぜた曲をせっせと作ることを慣習にするリョウにとっては、家族連れ、恋人同士で溢れ返った、この明るすぎる施設はほとんど恐怖の対象でさえあったが、ミリアが目を輝かせて今にも叫び出さんばかりに店々を眺めているのを見、意を決して手を繋ぎ、駐車場から施設内へと足を踏み出した。
入口に置いてあった地図付きのパンフレットを取り、リョウはその広さと店の多さに唖然とした。
「何だよこれ。ディズニーランドかよ。」
かつて高校の遠足で渋々行ったことのあるそこを想起し、思わず口走ったが、おそらくこの幼い少女にはその経験も無いのだろうと思い立ち、リョウは小さな後悔を覚えた。「……ディズニーランド、いつか、連れてってやるからな。踊るネズミがいるんだぞ。」
ミリアは真っ直ぐ前を見据えたまま、ぎゅっとリョウの手を強く握った。泣こうとしているのか、泣いているのか、リョウは妙齢の女に対するように慮って、その顔を覗き込もうとはしなかった。代わりにパンフレットを凝視し、「子供服は、この辺りだな。多分。」と目星をつけて歩き出した。
どの店も店員は元気そうに声を張り上げている。何パーセントオフだとか、タイムセールだとかの声を聞きながら、リョウもミリアも物珍し気に視線をあちこち彷徨わせながら歩いた。人々は皆楽しそうで、そればかりかここではペットの侵入も許されているのか、見たことのないような犬が展覧会の如くに至る所を気取って闊歩していた。ミリアは犬とすれ違うたびごとに瞠目し、足を止めた。リョウは「犬も好きなのか。」と尋ねたが、ミリアは口では「猫ちゃんがいい。」と答えつつ、それでもこれが礼儀であるともいうべき忠義深さで、犬とすれ違うたびに逐一足を止めるのだった。
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