第10話

 ミリアは、今日我が身に起きた怒涛の出来事を反芻し、ギターを持ったまま暫く目をぱちくりさせ続けた。

 生まれて初めて電車に乗って、東京にやって来た。そして兄と出会った。兄は父に似ていたけれど、真っ赤なライオンだった。父を殺した自分は愛されるべき普通の子供ではないのに、兄は、食べ物と居場所とをくれた。服も買ってくれようとしている。それに久しぶりに学校以外でお腹がいっぱいで、ソファはふかふかで、空気は涼しく、ミリアはここは天国なのかと真剣に訝るぐらいに幸福だった。

 ミリアは自分の傍に寝かせたギターをもう一度まじまじと見つめた。リョウはギターが好きだ。ギターのことを話すリョウは、周りに兄弟やら友達がいて、はしゃぎまわる猫のようだった。だからきっとギターとは素晴らしいのだろう。ミリアは手遊びに弦をびん、びん、と弾いてみた。

 ふと、テーブルの上の楽譜を見た。リョウがくれた、紙。それというだけで素晴らしい特別なものに思える。ミリアは数字の順番通りにネックの場所を数え、左手で押さえ、弦を弾いてみた。続けて弾くと、それは綺麗な夕焼けの空に牧師さんがシチューを持って来てくれた時のような、楽しい音色になった。楽しいから何度も繰り返してみた。するとメロディはどんどん柔らかく、溶けるように一つになっていく。

 気付けば部屋は暗くなっていた。楽譜が見えにくくなってきたので、ミリアは街頭が照らし出しているベランダに出て、練習を続けた。音は夜空にぐんぐん吸い込まれていった。星々は一つ二つしかなかったけれど、静かにミリアを見下ろしていた。ミリアはもう楽譜は見なくても弾けるようになっていたので、星を見上げながらフレーズを何度も何度も弾いた。時折、素敵ですねとでも言うように涼風がミリアの髪を擽った。楽しいな、楽しいな。ミリアの幸福が音になる。星も風も、時折下を通る車や人も、全てが幸福を謳った。

 「ミリア。」

 下から声がした。見下ろせばバイクに跨ったリョウがいた。

 「そんな所で、何やってんだ。」

 「ギター。」

 「……だ、な。」

 リョウは部屋の真下の駐輪場にバイクを停めると、部屋の鍵を開け灯りを点け、そそくさとベランダへとやってきた。

 「悪かったな、電気の付け方教えてなかったな。」

 家の電気はほとんど点くことはなかったので、リョウの部屋は電気が点くのか、とミリアは感心した。

 「ずっと、ギター弾いてたのか。」

 ミリアは肯いた。そしてそれを証明するために、楽譜の通りに弾き始めた。ひとつひとつ丁寧に、間違えないように、弾いてみせた。一人で弾いたような自由さはなく少々固くなったが、それでも最後まで弾き終えた。

 ミリアが満足げな鼻息を漏らして見上げると、リョウは大きく目を見開いてミリアを見下ろしていた。ミリアは何か大変なことをしてしまったような気がして、慌てて目を瞑った。殴らないでほしい。蹴飛ばさないでほしい。咄嗟にそう祈った。

 すると、「……お前、凄ぇな。」と絞り出すような声が頭上から響いた。「ほぼほぼ半日ぶっ続けでギター弾き続けたってえのも、お前の年考えれば相当凄ぇことだし、あんな説明でタブ譜の読み方理解して弾けるのも、凄ぇ。しかも、何これ、何か、……綺麗なんだけど。おいミリア、将来どうするよ? ギタリストになるか?」

 ミリアは将来、なんて考えたことがなかったので、茫然としてリョウの顔を見上げた。

 「……悪ぃ、走りすぎたな。俺はライブでもテンション上がっちまってBPM原曲プラス50ぐらいになっちまうんだ。だから毎回演奏が荒くなる……。これでも一応反省はしてんだ。でもメタルだから仕方ねえよな。」

 リョウはそう何やら不満げにぶつぶつと呟きながらミリアの手を引くと、部屋の中へ入れた。

 「電気はここ。」リョウはそう言って壁のスイッチを押し、電灯を点けて消した。そして「今日は豚しゃぶだ。旨いぞ。」リョウはにっと笑って、ミリアのギターを持ち上げ、そのまま壁に掛けた。そして玄関に投げ出されていた白いスーパーの袋を引っ掴んで台所に向かう。家で給食のような食事が食べられるのかと思うと、ミリアは息苦しくなった。目の奥と喉の奥と、全ての中心がぐらぐらと熱く煮え滾ってくるようだった。ミリアはそれを必死に堪えようと、腕をぶるぶる震わせながら立っていた。

 リョウはそれには気付かず、早速包丁を取り出して肉を切り始める。ふんふん、と鼻歌を鳴らしながらレタスを千切って、ハムを切って、スープまで作りだした。

 「パン、食わなかったの? 遠慮してんのか。」

 ミリアは慌てて首を振る。「お腹、空かなかった。」

 「凄いな! お前、それは類稀な集中力だぞ。今日の曲は完璧だったから、明日は明日でまた新しいタブ譜やるからな。」と言って、包丁で刻む手をふと止めた。「違った、ダメだ。その前に買い物だ。」

 「……いらない。」

 「だってお前、服……。」言いにくいのかリョウは、やたら力を込めて野菜を刻み始めた。とん、とん、とん、という音の中で「お前の、その、Tシャツ、全然体に、合って、ねえじゃねえか。」次第に怒りが募って来たのだろう。早口に捲し立てた。「あの靴だっていつから履いてんだ、ボロボロだろ。穴開いてんじゃねえか。あんなんで足痛めなかったのか? 何なんだよ。……あのバカはどうせ何もお前に買ってやらなかったんだろ。」

 最後は怒るように言った。その様があまりに父親そっくりだったので、ミリアは思わず悲鳴を上げた。リョウは驚いて包丁を置き、ミリアの前まで走り来るとそのまま強く抱き締めた。

 「悪かった。落ち着け。俺は殴らねえから。何があってもな。だから、安心しろ。」

 そう言ってミリアは再びソファに座らされる。睫が濡れていた。リョウはそれを人差し指で拭ってやると、再び台所に立ち晩御飯を作り始めた。

 途中怒りを込めたようなゴリ、ゴリという音が響き、ミリアはぞっとして台所を眺めると、リョウは一心不乱に大根をおろしていた。暫くすると上機嫌な声で「ミリアちゃーん、お皿運んで。」と呼ばれ、ミリアは弾けるように立ち上がって茹でた豚の上に大根おろしとカイワレ大根と、それから鰹節の踊った素晴らしい皿を受け取って、両手に掲げるように持つとゆっくりゆっくり運んだ。ミリアはその後も何かが出来るたびに台所から呼ばれて、そのたびにテーブルに大小様々な皿を並べた。幾つも皿が並べられると、花畑のようだ、とミリアは嬉しくなった。終いにはもう置けないぐらいにテーブルには皿の花が咲いた。大皿には茹でた豚肉にこぼれる程に大根おろしが掛かっている。中皿にはほうれん草のお浸し。鰹節がゆらゆらと揺れている。それから冷ややっこに、茹でたもやしの乗ったサラダまであった。

 「どうだ、凄ぇだろ。」リョウがそう言ってミリアに箸を手渡す。駅前で買ってもらった、猫の箸。それに茶碗には、大好きな猫の絵柄。ミリアは隣人の優しさを思い出し、感涙しそうになった。

 「どっちも猫だな。お前猫好きなの?」

 ミリアは恥ずかし気に肯いた。「好き。」

 「そっか。」と言ってリョウは考え込む。このアパートはペット禁止である。それが酷く残念なことに思われた。

 「ま、とりあえず食おう。いただきます。」リョウが言って、ミリアも深々と頭を下げてそれに続いた。

 夕食は素晴らしく美味しかった。一つ一つがミリアの舌を、頬を、ひいては満身を、震えさせた。だからミリアは何度ももう食べられない、と思いながらも最終的にはそこまでに食べた分と同じくらい食べ切った。

 「ミリアは何が好きなの?」

 ミリアは考え込む。昨日までは猫が好きで、給食が好きだった。しかし今日からはリョウの料理が好きで、リョウの笑う顔が好きで、リョウのライオンのような頭と声とが好きだった。だから、「……リョウが好き。」とはにかみながら言った。

 リョウは仰け反って笑った。「そうか! 俺か! 俺はあんまり女にはモテねえし、特にお前みたいなちびちゃんには更にモテたためしがねえんだけどな!」

 ミリアは驚いて、「テレビの人たちは?」と聞いた。昼に見たライブ映像では、大勢が必死なまでにリョウの名を叫んでいた。あれは、好きだということではないのか。

 「残念ながらあの中に女の人とか子供は一人もいねえんだ。」リョウは肩を竦めて苦笑いを浮かべた。「だからミリアが俺の最初のファンだな。」

 ミリアの顔はぱっと輝いた。それはとても素晴らしく、晴れがましいことのように思えた。ミリアは胸中に繰り返して見みた。「ミリアは、リョウの、最初のファン。」やはり素晴らしかった。

 すっかり食べ終わると、今度こそはとミリアは「お片付け」と言って皿を運び、スポンジを泡だらけにして、せっせと皿を洗い始めた。リョウは隣で皿を拭きつつ、何度も巧いな、と褒めた。ミリアはその度に堪え切れないとでもいったような笑顔を洩らした。

 その後ミリアはリョウに言われてシャワーを浴び、老夫婦に買って貰ったばかりの新品の下着をつけ、更にリョウから借りたTシャツをワンピースのようにして着た。

 ミリアがその出で立ちで風呂場から出て来ると、リョウはネックから手を外し、大仰な拍手で迎えた。「さすが、似合うな! クールだろ、俺らのTシャツは!」

 ミリアは今更ながら、自分の来ている、膝下までもある大きなTシャツを見た。

 「今回のツアーTシャツだ。その、狂犬が四方に噛み付いている絵、いいだろう。その牙の鋭利具合っつうのか? それを出したくて、デザイナーに何度も描き直しさせてな。評判良くて、そのSサイズ以外は速攻売り切れ!」リョウはそう言って大仰に笑った。

 ミリアは改めてTシャツを眺める。そう言われてみれば、素晴らしくクールにも思われた。クールがどういうことであるのかはわからなかったけれど。ミリアはそれでも嬉しく肯いてソファに座った。リョウはクワガタムシのギターを弾いていた。

 「ミリアも、弾く。」

 「マジか。」リョウは嬉しそうに言うと、壁から先程ミリアが弾いていたギターを外し取り、ミリアに手渡した。

 ミリアは最初に教わった通りに、忠実に、しっかと脚を広げ、そこにV状のギターのボディを挟み込んだ。リョウは準備が整ったミリアにピックを手渡し、その目の前に楽譜を広げてやった。やけにミリアが神妙な顔をしているのがおかしく、リョウは一、二度咳払いをしながら何とか笑いを収め、「さあ、どうぞ。別に、俺に合わせて無理して練習しなくていいからな。眠くなったら、寝ろよ。」と言った。

 ミリアは黙って肯き、楽譜を凝視すると一音一音押さえる箇所を確認しながら弦を弾いていく。

 リョウは暫くその様を眺めていたが、やがて自分の練習を始めた。ギター用にアレンジされたジャズの古い曲で、運指がなかなか難しく、曲に取り組む前のいいストレッチになった。

 「何かよお、こんな風に誰かと一緒にギターの練習をするのって、新鮮。」

 ミリアは今度は肯きもせずに淡々と弾き続けた。

 「音楽は、好きだったの?」

 ミリアは肯く。

 「歌、歌ったり?」

 またミリアは肯いた。

 「何の歌が好きなの?」

 さすがにギターを弾く手を止めて、ミリアはリョウを見詰めた。

 「……お星がひかる。」

 「お星が、ひかる?」

 「教会で、牧師さんの奥さんに教わった。」

 「へえ。」

 リョウは立ち上がるとパソコンをカタカタと打ち始めた。

 「……へえ、讃美歌ね。あ? ドイツの曲なのか! ジャーマンじゃねえか! ジャーマン好きとはお前、なかなかお目が高いな。そのギターを生み出した人、前言ったろ? マイケル・シェンカー。シェンカーもドイツ人だかんな。ちなみに弟にルドルフ・シェンカーってギタリストもいて、スコーピオンズっていう、凄えクールなバンドをやってるんだ。だからドイツは凄ぇんだよ。ジャーマン・メタルっていう、ギター主役の凄ぇジャンルが生まれた地なんだ。RAGEとか、BLIND GUARDHIANとかな。お前もジャーマン好きだったとは、さすが血が通い合ってるだけあって、気が合うな。……いつか一緒にドイツ行くか?」

 ミリアはドイツ、が一体どこにあるのかわからなかったけれど、小さくはにかんで肯き、ギターの練習を再開した。

 リョウはパソコンから「お星がひかる」を流し始めた。ミリアは驚いて顔を上げた。リョウは音楽を聴きながら何やら頻りにメモを取っている。そしてそれを見ながらカチャカチャとキーボードで入力をする。暫くするとプリンターが起動し、紙を排出した。それをリョウはミリアの前に置いた。

 「好きな曲をやった方が上達は早ぇ。これ、『お星がひかる』。ギター用に譜面作ったから、今度弾いてみな。」

 ミリアは「わあ。」と小さな歓声を上げて唇を綻ばせた。

 「笑った! お前、今、笑ったな!」

 リョウがそう言って指さすので、ミリアは照れくさくなって顔を覆って更に笑った。

 「お前、笑うと可愛いよ。これからも遠慮せず笑えよ。絶対その方がいいから。」

 ミリアはその言い方がおかしくてならず、くすくす、と漏らしながら必死に口を覆う。そんなことを言われたのは初めてだった。笑うと可愛いだなんて、誰か別の人のことを言っているような言葉だ。それが自分に与えられるだなんて、まるで普通の子供になったような気がして、ミリアはいつまでも笑いが納まらなかった。


 「じゃあ、そろそろ寝な。小学生は八時ぐらいに寝るもんだ、多分。」

 ミリアは仕方なしにリョウが構える両腕に、ギターを手渡した。

 「隣に俺の布団があるから、そこで寝な。」

 ミリアの眉間に皴が寄る。

 「しょうがねえだろ。布団一つしかねえんだもんよお。ベッドは後で買いに行ってやるからさ。今日だけだ。」

 ミリアは返事をする代わりに、ソファをぐい、ぐい、と押した。

 「何、ここで寝んの?」

 ミリアは即座に肯く。

 「そうか。……」と言ってリョウは首を傾げた。「まあ、小せえお前には窮屈にもならねえか。じゃあ、ここで寝な。」リョウは昼にソファに掛けておいたタオルケットを、早速寝転んだミリアの上にふわりと掛けてやった。

 「俺は小学生じゃねえから、あとちょっとだけ練習するからな。ライブ近ぇし。」と言って、電気を薄暗くし、ギターを軽く爪弾き始めた。それは美しく繊細な音色だった。暫くするとギターの音が変わって来る。次第に速く上り詰め、色々な感情を暴発させていった。ミリアはそれが支配される痛み、悔しさ、だということを即座に解した。それは時には悲嘆に接続され、そして憤怒に変化することもあった。ミリアは、全部、自分のことを弾いてくれている、と思った。リョウはやはり、自分の全てを解ってくれているのだ。横になりながらそんなことを思っている内に、やがて眠りの底に落ちていった。

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