第9話

 「腹いっぱいになったら、寝な。これからのことは何も考えなくっていいから。」リョウはそう言って立ち上がると、空になった皿を持って台所へと運んだ。

 「隣に俺の布団でよけりゃあ、あるよ。ま、狭いうちだし、どこでも好きに使っていいけど。」

 ミリアは答える代わりに、ソファをぐいぐいと手で押してみた。

 「何? ここがいいの?」

 ミリアは肯いた。初めて座った瞬間から、このソファに一目惚れをしていた。何て素敵な感触なのだろうと。まるで雲の上の天国だ。死んだのはパパではなくて自分なのではないか、そんな妄想さえ沸き起こって来た。

 「そうか?」

 リョウは隣の部屋からタオルケットを持ってくると、ミリアに放った。ミリアはそのタオルケットを被って、ころん、と横になった。

 「あ、お片付け。」

 ミリアはそう言って飛び跳ねるように立ち上がった。

 「お、お片付けできんのか。いい子だな。でも、ま、後でいいだろ。」

 それはミリアにとって、衝撃的な提案だった。片付けを忘れて、父親に皿をぶつけられたり、また、蹴とばされたりしたことは数え切れない程にあったから。

 「何? 何か変か?」

 ミリアはぶるぶると首を振った。

 「さては遠慮してんだな。まあ、俺だって、俺施設出てから人と暮らすの初めてだし。しかもこんな小っちぇえ女の子と。」と苦笑いをしながら言った。

 ミリアは申し訳なさに俯いた。

 「遠慮するなよ。これからは、……家族なんだから。」リョウはくすり、とさすがに照れくさそうに笑って皿を水に浸けると、ミリアの向かいのソファに座った。

 家族。ミリアは震えた。家族って、何だろう。咄嗟に父親の姿が思い浮かぶ。しかし、自分は、その人を、殺した。この数ヶ月間、何度も何度も祈って執念深く、殺した。自分はリョウと家族になったら、パパと同じようにいつの日かリョウを祈って殺すのかしら。ミリアの唇が細かく震え出す。それから呪わしい思念を振り払うように、頭を激しく振った。足元にタオルケットがはらりと落ちた。

 「何?」

 リョウは驚いたようにミリアを見た。ミリアははっとなった。父を殺したなんてことは、絶対に露呈させてはいけない。話題を反らそうと慌てて周囲を見回し、壁に幾つも掲げられた例の昆虫だか武器のようなものが目に入る。おそるおそる身を起こし、指差した。

 「これ、なあに?」

 リョウは歓喜を瞳に満々と湛え、今にも弾けそうに立ち上がった。「これか!」リョウは昆虫武器を外して、ミリアの目の前で上下裏表じっくり見せた。「むちゃくちゃクールだろ?」

 そしてリョウが幾本も張られた紐のようなものに触れると、美しい音色が響いた。ミリアは目を丸くする。

 「ギターだ。」

 「ギター?」音楽の授業で見たのとは全く違っていたので、ミリアは首を傾げた。上も下もそれぞれ先っぽは鋭利に尖っていて、黒くぎらぎらしている。

 リョウはミリアの手を取って、弦を撫でさせた。やはり、見た目とは裏腹の美しい音が響き渡る。

 「これは、Jackson USAのKingVって言って、最強のギタリストが使うギターだ。んでこっちは、」リョウはもう一つの、今度は深い赤色の、上下左右にそれぞれ尖端を有した、この中では一番クワガタムシそっくりなギターを取り出し、「B.C.Rich。凄ぇクールだろ。音も最強に厳ついしな。」と言って、鼻を鳴らした。それから掛けてあるギターを全て順々に、「これはGibsonのFlyingV。マーシャル5150との相性は抜群だ。泣けるメロディーはいつもこいつで作ってこいつで弾く。そしてこれはESPのエクスプローラー。ブラック・ダイヤモンド・プレート。ジェイムズ・ヘットフィールドのサイン入り限定品だ。世界に200本しかねえんだぞ? 思わず借金して買った。後にも先にも借金してまで買ったのは、こいつだけだな。逃したら絶対手に入らねえって思ったからな。つうかそれ以前に、ジェイムズに憧れ狂って買った。ほら、誰でもメタルにはまったら最初にメタリカコピーするもんだろ?」

 ミリアはよくわからなかったけれど、とりあえず肯いた。リョウが嬉しそうなのが嬉しかった。

 「何でこんなに、たくさんあるの?」

 「それは俺が、デスメタルバンドのフロントマン兼ギタリストだからだ。」

 ミリアは首を傾げた。「それ、なあに?」

 リョウの瞳が更に輝き渡る。まるでヤモリを捕った猫ちゃんのようだ、だとミリアは思った。

 「史上最強の音楽ジャンルだ。見ろ。」

 リョウはそう言いながらリモコンを手に取り、テレビを点けた。ミリアはテレビを観られることにわくわくし、ソファから降りて正座をすると、膝に両手をしっかと置いてテレビに観入った。

 テレビはほの暗いステージを映し出した。

 「これはな、先月やった東名阪ツアーのラストだ。場所は吉祥寺クレッシェンドで、客入りも最多だった。客も凄ぇ盛り上がってな。音も最高だった。ミスもいつもと比べりゃ、断然少なかったしな。」

 真ん中にいるのがリョウだった。両脇も後ろも全員長い髪をしていたけれど、赤い髪はひとりしかいないからミリアにもすぐにわかった。リョウは赤い髪をしたライオンだった。その風貌だけではなく、ライオンと同じ声で吠え盛っていたのだ。本物の、獣だった。

 リョウは脚を思い切り開いて武器を提げ、髪を激しく上下に振り回しながらマイクに向かってがなり、ひたすら猛っている。ミリアは不思議に思って隣に座るリョウの喉を見詰めた。普通の喉に見える。どうすればこんなライオンのような声が出るのだろう。凝視に気づいたリョウが、「グロウルはな、喉の奥を閉めて出すんだ。後は練習だな。喉の作りは人それぞれ違ぇから、誰かから教わってってのは、基本、ねえ。参考にしてえデスメタルのCD持ってスタジオ入って、CDちょこちょこかけながら、ああ、とか、があ、とか、うおお、とか、がなってみんの。そうすっとこういう声にするにはこんな感じでがなればいいんだな、ってのが掴めるからさ。でも……、」リョウは眉間に皺を寄せ、「お前はまだやめた方がいいな。成長期だし。喉を潰しちまったら、よくねえ。」と言った。「でもギターは今からでもいいぞ。むしろ早ければ早い程、いい。音感もすぐ付くし指も動きやすくなる。そうだ、どれか貸してやろう。どれでもいいぞ、どれがいい?」

 テレビでは相変わらずリョウが獣のように吠え盛り、客が次々にステージに上っては転げ落ちる様を映していたけれど、もうそんなことはどうでもいいとばかりに、リョウは壁に陳列された種々のギターをうっとりと眺めた。ミリアもそれに倣う。壁にかけられたギターは触ったら怪我をしそうで、触りたいと思えるものは一つもなかったけれど、満面の笑みを浮かべているリョウを落胆させたくなかったので、ミリアは必死に思考を巡らせた。赤黒いのは血が滴っているようだし、鋭いとんがりは触れたら痛そうだし、上も下も尖っているのはどこを持ったらよいのかわからないし、と考えている内に自ずと消去法で一つに絞られた。

 「これ。」

 ミリアが指をさした瞬間、リョウは飛び上がらんばかりに手を叩いた。「FlyingVだな!」そそくさと壁からギターを外した。「お目が高いな。これはマイケル・シェンカー・モデルだ。でも俺は尊崇の意を込めてドイツ語読みでミヒャエル・シェンケルと呼んでいる。じゃあ、お前は俺の妹で、特別だから、貸してやろう。」

 リョウはギターを壁から外すとミリアにソファに座るよう命じ、脚を大きく開かせ、腿の間に挟むようにしてギターを持たせた。「座って弾く時は、こう。見たくれとは違ってバランスがいいから立ってても弾きやすい。ヘッド落ちもしねえし、軽いし、確かに初心者にはいいギターだ。さすが、俺の妹だ。」そう言って、リョウはミリアの頭を荒々しく撫でた。ミリアは頬を紅潮させた。

 「そしてこれがピック。」リョウはミリアの右手に小さなプラスチック製の三角形したものを持たせた。「ティアドロップってタイプだ。速いの弾く時には一番弾きやすい、ってかこれしかうちにはねえ。俺の名入りだ。とりあえずここを弾いてみな。」

 ミリアは指示された通りに、右手で一番手前の太い弦をびーん、と弾いた。

 「そうそう。で、ここを押さえると音が変わる。」

 リョウはミリアの左手を弦の上からぐっと押さえた。再びミリアが手間の弦を弾くと、確かに、さっきよりも高い音が出た。

 「な。」

 ミリアは肯く。

 「これだけだ。この連続で何だって弾ける。」リョウは棚から紙の束を取り出した。「これはタブ譜。全部で線が六本引いてあるだろ? これをギターの弦に見立てる。数字が書いてあんだろ? この数字は押さえる箇所。ヘッドから数えて1、2、3……ってこと。この番号の通りに押さえて、弾けば曲が弾ける。便利だろ。」

 便利かどうかはわからなかったけれど、とりあえずミリアは肯いた。

 「じゃあ、まずはこれ弾いてみな。」リョウは束の中から一枚の紙を抜いてテーブルの上に置いた。そしてふと、テレビの上に掛けられた時計を眺めた。

 「あー。」リョウは右手で頭を掻きながら、ミリアの目の前にしゃがみ込んで言った。「今からさ、どうしてもバンドの練習行かなきゃなんねえんだ。新曲、来月のイベントに間に合わせねえといけなくてさ。」リョウは少々声のトーンを低くしながら、「……一人で留守番、できるか?」と尋ねた。

 ミリアは肯く。こんなに、冷気が出て、ソファが柔らかくて、遊び道具さえ与えられて、留守番のできないはずがない。夏の盛りに街中を延々歩き続ける方が遥かに辛いことをミリアは体感的に知っていた。

 「そうか。偉いな。晩飯には帰って来るから。腹減ったら、あそこのパンでも食ってて。」ミリアはリョウの指さした先を見詰めて、ほう、と溜息を吐いた。そこにはパンが三つも四つも山を成していた。ちょうどミリアが一度だけ盗みの誘惑に駆られた、あのパンと同じだった。「便所はあそこ。冷蔵庫に水入ってるから。喉乾いたら遠慮しねえで、飲めよ。でもビールはダメだ。酔っぱらっちまうからな。明日買い物に連れてってやるから。お前がここで暮らすための生活用品、買わねえとな。」

 ミリアはそう言われ、はっと思い出してギターをソファに寝かし、足下に置いた鞄を広げ、そのまま中を見せた。

 「おお、持ってきてたのか。」

 「おばちゃんが、買ってくれた。」

 リョウは再びミリアの頭を荒々しく撫でると、「そうか。」と言って中を漁った。箸、椀、女児用の下着。さすがに最後はすぐに仕舞い込んで、「帰りに歯ブラシは買ってきてやるから。あとは、服、だな。」少々気まずそうに言った。

 ミリアは信じられないとばかりにぽかんとリョウを見上げた。

 「じゃあ、行ってくるから。悪い人が来るかもしんねえから、ドアは開けちゃだめだ。いい子でお留守番してろよな。」

 リョウは尖った黒のギターをケースに入れて背中に背負い、シールの無数に貼られたハードケースと黒いフルフェイスのヘルメットを両手に提げると、「じゃあな。」と言って、ドアを出て行った。がちゃん、と鍵を書ける音がして、足音が小さくなった。

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