第8話
ミリアは、玄関の大きなブーツが並んでいる間のスペースに自分のぼろけた運動靴を並べると、兄に後ろから「ほらよ」と促され、恐る恐る中に入った。
すりガラスの扉を開けると、テレビにソファ、テーブル、それに見たことのないクワガタムシのような武器のような形をしたものが、何本も壁に掛けられていた。ミリアは思わず目を見開いた。父親と住んでいた、穴だらけのカーペットが敷かれた、常に食べ物やら服やらの散らばった部屋とは、全く違っていたので。
お兄ちゃんは、他所のパパのように、毎日、働きに出ている類の人なのかしら。ミリアはちらとそんなことを考えた。
「座んな。」
辺りをきょろきょろと見回すミリアに、兄は顎でしゃくってソファを示し、テーブルの上のリモコンを押した。窓の上に付いたエアコンから、冷風が噴き出す。それがミリアの頬に吹きかかり、ミリアは再び驚いて顔を上げた。兄は冷蔵庫を開けて、何やら中をごそごそと探り出した。ミリアはエアコンの口が開き左右に動くさまを凝視しながら、兄に先程命じられた内容を思い出し、慌ててソファに座った。座った、と思ったら更にもっと深く沈み込んで、ミリアは思わず上体をよろめかせた。そしてソファを手でぐいぐいと押してみて、そのたびに押し返されるのに感激した。
「ビールしかねえな。……クソが。」と、台所から不機嫌そうな声がする。しかしすぐに「あ、そうだ。」と何やら思いついて隣の部屋に行き、掌に二つ三つ何か小さなものを載せて持ってきた。「この間遠征行った時、ホテルに置いてあったお茶。これなら飲めんだろ。」
兄は小さなポットに水を入れて、そのまま置いた。それは火も付けていないのに、置いた側からぽこぽこと沸騰し出した。ミリアは魔法か何かかと思って、遂に感嘆の声を洩らして立ち上がった。兄はくすり、と笑むとわざわざミリアに見せつけるようにそれをカップに入れて、小さな袋を破りお茶を淹れた。
それは湯気を立ててミリアの前に鎮座した。
兄はミリアの前に立ったまま、さて、何と切り出そうかと言わんばかりに首を傾げてミリアを見下ろした。ミリアがちらと見上げると、兄は唇を固く結んで、視線を彷徨わせた。
おばちゃんの所に帰れ、公園の猫の所に帰れ、そう言おうとしているのかもしれないと思えばミリアは緊張して、ただ激しくなる鼓動を抑えようと、薄くなりゆく湯気だけを必死に見詰めた。
「……そういや、昼飯は?」ミリアは予想外の言葉に驚いて兄を見上げた。「……まだ、だよな。食えねえの、ある?」
ミリアは首を横に振った。
「じゃあ、待ってろ。そこでお茶、飲んでな。」
兄はテーブルの上からゴムを取り赤い髪を後ろに一つで束ねると、再び台所でなにやらごそごそとやりだした。ミリアは落ち着いて部屋を眺め出した。壁に幾つも掛けられてあるこれは何だろう。全く見当もつかない。それにテレビには、色々な線と更に小さなテレビが付随していて、飛行機の運転席のようだ。
こんな立派な、お金のかけられた部屋に住まわせてくれだなんて、都合がよすぎるのだ。そう思えば再び胸が締め付けられた。ミリアは自分のみすぼらしい身なりが堪らなく厭になってきた。クラスのレイコちゃんのようなフリルの幾つもついたスカートだったらどんなに良かったろう。ユウカちゃんが穿いてくるクマちゃんの靴下とか、アユミちゃんがいつも付けているあのふっくらしたリボンがあったら、どんなにどんなに良かったろう。今まで感じたことのない羞恥心がミリアを襲った。
やがて台所からはじゅうじゅうと何かを焼く音が聞こえ、そのうちに、堪らなく空腹を刺激するいい匂いがしてきた。街を歩きながらこの匂いがする家々の間を、ミリアはいつも耐え難い嫉妬と、憧憬と、それから絶望の入り混じった気持ちで通り過ぎていた。ミリアは充満する唾を飲み込みながら、堪え切れずにそうっと台所に近づいた。
「何、腹減ってんの?」
兄はフライパンを振りながら、笑ってミリアを見下ろした。
ミリアは正直に肯く。
「待ってな。もうすぐだ。」
ミリアはもう一度ソファに座り、お尻の脇をぐいぐい何度も押してみた。やはりソファは弾力があって、何度も押し返された。それから遂に誘惑に負けて、寝そべってみた。まるで雲の上のような気分になる。
しばらくすると、兄は二つの皿に焼きそばを載せて持ってきた。ミリアは慌てて居住まいを正す。焼きそばには綺麗なしましま模様が掛けられていて、真ん中には赤いしょうがまで掛かっていた。ミリアは「うわー!」と嘆声を上げた。昔パチンコに大勝して上機嫌になった父親と一度だけ行ったことがある、デパートの屋上で食べたレストラン。あそこで食べたのとそっくり同じだった。
「……レストランみたい。」思わずそう呟くと、兄はすかさず、「だろう。昔バイトしてた時に覚えたんだ。食ってみろ、凄ぇ旨いから。」と言ってミリアの前に割り箸を差し出した。
「いただきます。」兄が言い、ミリアもそれにおそるおそるというように小さく続く。「いただきます。」
ソースが頬っぺたの奥までじんわりとおいしい味を染み込ませていく。頬がきゅうきゅうと痛くなった。堪らず視界が潤む。そのうちに鼻と喉の奥がどうしようもなく痛んで、遂にわあ、と声が出た。
リョウは焼きそばの束を啜ったまま、噎せた。
ミリアは口から零れ落ちぬように、必死に咀嚼したが大分口の中に入れ過ぎていたせいで、すぐに全ては飲み込めない。ミリアは上向きになって泣きながら焼きそばを嚙み下した。
リョウは慌てて、ミリアの背を撫で摩った。そして茶の入ったカップを目の前にぐい、と突き出し、「飲め、飲め。何だよ突然。どうした。大丈夫か。」と叫んだ。
ミリアは必死に口の中のものだけをとりあえず咀嚼しきると、「美味しい。」とだけ答えた。兄は焦燥を隠すように、「……そうか。冷めねえうちに、食いな。」と言った。
兄は知っていた。否、思い出した、と言った方が適切かもしれない。これがどれだけの旨さでミリアの味覚を刺激しているのか。それによって自分がどれだけ感謝、どころではない、尊崇されているのかを。
なぜならば目の前の少女は、かつての自分だったから。
自分があの家から脱走した時、それは偶然が重なって成し得た偉業であったけれど、施設に行く前に一時的に面倒を見てくれた、役所のおばさんが作ってくれた関西風の焼きそば。あれは、問答無用で恐ろしく旨かった。後にツアーで大阪に行った時、焼きそばで有名な店を教えてもらいわざわざ食べに行ったけれど、あれ程の味ではなく落胆したものだ。
ミリアが一通り泣き終え、食べ終え、皿に付いた僅かな麺を一本一本丁寧に口に運ぶ様を眺めながら、兄は言った。
「俺は亮司だ。黒崎亮司。周りはリョウって呼んでるから、お前もそう呼びな。って言いながら、お前呼ばわりは、ひでえな。お前の名前は……」手紙にも書類にも書いてはあったが、確認しようとした矢先、ミリアは紅潮した顔を上げて、「……黒崎ミリア。」と答えた。
「ミリア?」
ミリアは肯いた。
「ミリア、か。……随分ハイカラな名だな。俺とは方向性が全然違うじゃねえか。母親の好みなんかなあ。」
そう言ってリョウは、ふと母親の話題がミリアを傷つける類のものではなかったかと思い立ち、ミリアの顔を幾分緊張しながら眺めた。しかしミリアは首を傾げるばかり。リョウは安堵した。
「……。お前さっき、外で寝てたじゃん? 昨日、寝てねえの? 少し、寝る?」父親が死んだのだ。寝るどころではなかったろう。
ミリアは肯いた。
「親父が死んで、色々気張ってたんだろ。」リョウはそう言って笑った。「本当に、あの野郎は終いまで迷惑を掛け通しだな。でもさ。」兄は一呼吸置くとソファから立ち上がり、ミリアの目の前にしゃがみ込んで、その瞳をしかと見据えた。「もう、心配はいらねえ。ミリア、お前はここで俺と一緒に暮らすんだ。飯の心配も、ぶん殴られる恐怖に怯えることも、もう、ねえ。」
ミリアはそう言われ、息が止まるかと思った。兄の瞳に映る自分の顔は、細かく震えていた。なぜ、兄は全てを知っているのだろう。神様か、何かなのかしら。ミリアは「どうして……。」と呟いた。降って湧くような幸運には慣れていなかった。ただただ恐ろしかった。
「どうして、って。」リョウは苦笑いを浮かべる。「どうしてだろうなあ。」本当に、わからないのである。リョウには施設を出てからと言うものの、誰かと暮らしたという経験は無かった。ましてや定職には就いておらぬバンドマンで、生活の中心は音楽にある生活をしている。とてもこのような少女の面倒を見ながら共に暮らせるとは思われない。では何なのだ。リョウはしばらく考えて、自分は目の前の少女を見ながらも少女を見ているのではなく、自分を見ていることに気が付いた。つまり、父親からの虐待に耐えかねて助けを求め街へと飛び出した、十数年前の自分を。救えなかった自分を救いたい、という思念が胸中に溢れ出していた。
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