第26話

 ミリアはリョウに抱えられ、家に着くなりそのままソファに倒れ込んだ。即座に深い眠りに就き、夢さえ見なかった。ただ、時折断片的に酔った父親の顔と乾いたみみずとが脳裏に浮かんだ。


 翌朝、ミリアは信じ難い体の痛みで起きた。首も、肩も、腰も、動かした瞬間に声を上げざるを得ない程の酷い筋肉痛だった。

 「ライブやって筋肉痛なんて、懐かしいな! その内数こなしゃあ、首も腰も鍛えられて、平然と過ごせるようになるぞ。ま、病気じゃねえんだからよ、元気で学校行って来いよ。今日はクラブがあんだろ? エプロン忘れんなよ。車に気を付けてな。」

 いつも通りにリョウは元気よく手を振って見送った。ミリアは全身の痛みを覚えつつ見慣れた道を歩いていく。なんだか不思議な気がした。昨夜はあれだけ特別な人間になれたのに、結局自分はただのランドセルを重く感じる小学生なのだ。

 美桜は遥か前方を製作途中のロボットのようにぎこちなく歩くミリアを見つけ、慌てて何があったのかと駆け寄り問うた。ミリアは渋々、昨夜リョウとのライブに出たこと、頭を振りながらギターを弾いたために、全身が隈なく凄まじい筋肉痛になった旨を伝えた。

 「凄い! お兄さんと、大人たちと一緒に、ライブやったの?」美桜は目を丸くする。

 ミリアは顔を真っ赤に染めた。「誰にも、言わないでね。内緒よ。」

 ミリアは美桜の手をぎゅっとにぎりながら、上目遣いでそう言った。美桜は尋常ならざるミリアの真剣さに、親友としての使命感を刺激され、「わかったわ。」と神妙そうに眉根を寄せて答えた。

 「あ、」

 美桜は一瞬脚を停めてミリアの前に立ちはだかった。

 「ママにも、言っちゃ、ダメ?」

 ミリアはきょとんとした顔つきで、「ママはいいよ。」と答えた。「だって、ママだもん。」と答えた。リョウが一か月に及び不在であった期間共に生活をし、料理まで教えてくれた美桜の母親は、ミリアにとっても母親同然であった。

 美桜は満面の笑みを浮かべ手を差し伸べた。ミリアはその手に自分の手を絡め、再び歩き出した。


 ミリアは校門前で校長先生に挨拶をし、騒がしい校舎に入ると、自分が何の変哲もない一小学生であるということを再び痛感せずにはいられなかった。それは落胆というよりも、自分の人生の多様性を思い知らされる、不思議な感覚だった。

 教室に入り、友達と朝の挨拶を交わしながら、日曜日の出来事を競うように口にし合う。ある子は家族でファミリーレストランに行ったと、またある子は従姉妹の誕生日パーティーに祖父母の家に行ったと、さらにある子は母親とショッピングに出かけピアノの発表会用のドレスを買ったと、次々に自慢げに語った。

 「ミリアちゃんが一番ね。」

 こっそりと美桜が耳打ちし、ミリアの頬は紅潮した。

 チャイムが鳴り、教師が教室に入って来る。出欠を取り、週末の宿題を集め、一時間目の授業が始まる。漢字の書き取りと、それが終わると小テスト。ミリアは勉強はできる方では無い。父親と住んでいた時には、基本的に夜寝る以外には家にいてはならなかったし、その夜もいつ父親の機嫌が変わるかわからず、戦々恐々とする日々だったから、自宅で勉強なんぞできたことはなかった。

 リョウと住むようになってから、ギターを弾こうとすると「今日の宿題はないのか」と言われることがあり、ミリアは大層驚いたものだ。しかしそのお蔭で少しずつ勉強をするようになり、少なくとも今日の漢字のテストは全て、書くことができた。

 全ての解答欄が埋まった達成感に嬉しくなり、ふと窓の外を眺める。光散じる薄曇りの冬だった。波打つ雲がどこまでも続いているように、この外はとても広いのだ。嘘偽りなく生きていける世界があるのだ。それをリョウが教えてくれた。やはり、自分は昨日の自分とは、違う。ミリアは自信をもって一つ、大きく肯いた。


 放課後、クラブの時間になった。今日はシフォンケーキ作りだった。皆が一生懸命泡立て器を回しながらメレンゲを立てていると、教師が「皆さんは、今度何の料理を作りたいかしら。」と尋ねた。「そろそろ皆さんもお料理に慣れて来たことですから、次は好きなものを作りましょう。」

 わあ、と歓声が上がり、「クリスマスが近いから七面鳥の丸焼きがいいな」とか、「ケーキ屋さんに並んでいる、ブッシュドノエルのケーキが食べたい」、「人形の形したジンジャークッキー!」などの声が調理室のあちこちで上がり、子供たちに料理を教えることに無二の喜びを感じている教師は、そのたびに目を細めた。

 「ねえねえ、ミリアちゃんはサンタさんに何、お願いするの?」美桜が嬉し気に尋ねる。それと同時にそうっと泡立て器を持ち上げると、メレンゲのツノがつんと立ち上がった。

 ミリアは目を丸くする。

 「もしかして、まだ、決まってないの?」

 もう、と笑って美桜はミリアの横腹を突つく。

 「私はね、ドールハウスにするの。燈が灯って、家具もちゃーんと全部付いてて、とっても綺麗なの。あれをね、お部屋に飾って、夜、ドールハウスの光だけ点けて眠るの!」

 美桜はメレンゲの縁まで入ったボウルを掲げ、「ミリアちゃん、それ手で持ってて。」と、黄身と砂糖を混ぜたボウルを顎で示した。慌ててミリアはボウルを支えた。そこに、美桜が少しずつ少しずつ、メレンゲを入れていく。

 クリスマスって何だろうとミリアは思う。サンタさんの居所もわからなければ、お願いの仕方もわからない。しかしそれは自分だけのようだった。ミリアは美桜がメレンゲを丁寧に入れている最中、周囲をちらと見遣った。皆口を合わせたようにクリスマスプレゼントの話をしている。

 ミリアと同じクラスの男の子は、カードゲームを貰うんだ、最強のカード、と意気込み、別の女の子はドレッサー、両面に開くの、などと言っている。高学年の児童たちも口々に火星が見える望遠鏡だ、ぶちのハムスターのつがいだ、プレイステーションだ、と騒いでいる。ミリアは次第に自分の無知さかげんが恥ずかしくなってきた。

 「どうしたの?」

 焦点の合わぬ目でボウルを見つめ続けるミリアに、美桜は心配そうに問いかけた。既にメレンゲは入れ終わり、あとは混ぜるだけになっていた。

 ミリアは泣きそうな顔で美桜を見詰め、小さな声で尋ねた。「サンタさんって、どこにいるの?」

 美桜は息を呑んだ。「サンタさん、来たことないの?」厳しい顔つきでミリアの耳元に囁く。

 ミリアはゆっくり肯いた。

 美桜は世界中の悲劇がここに集約したとでもいうような、驚嘆とも悲嘆ともつかぬ顔で、ああ、と呻いた。そして暫く考え込むと、突如はっとなって顔を上げた。

 「お手紙。」美桜は自分の言葉に笑みを溢し、肯いた。「そうよ、私いっつもお手紙書いているもの。ミリアちゃん、お手紙書いたこと、ないんでしょ。」

 ミリアは目を見開いて肯いた。

 「あのね、教えてあげる。サンタさんにお手紙を書くの。そしてそれを枕元に置いておくの。」

 「それだけ? 切手は?」ミリアは自分の財布を思い起こし不安になった。

 「いらない。」美桜は即答し、にやりと笑った。

 「それで、サンタさん、わかるの?」

 「わかる。」

 「……。」

 そこに教師がやって来る。

 「相原さんと黒崎さんのところは、もうできたわね。生地を型に入れたら、先生の所に持ってきてくださいね。オーブンに入れましょう。」

 「はあい。」と二人は元気よく声を揃えて返事をした。

 ミリアはすぐに神妙な顔つきに戻ると、ごくりと生唾を飲み込んだ。


 ビニール袋に入れたシフォンケーキを手に持ち、ミリアはすぐにでもリョウに見せたく食べさせたく褒められたく、全力で走って帰宅したものの、リョウは留守だった。テーブルの上には、「急遽レッスンに行ってきます。帰りが遅くなるので、グラタンをチンして食べて、シャワー浴びて、歯も磨いて、宿題があったらやって、その後時間があればギター弾いてもいいけれど、とにかく先に寝ているように。」と書いてあり、その横には日中リョウが作ってくれたのであろうグラタンが置いてあった。ミリアは思わず目を見開いた。表面に並べたニンジンが花形をしていたのである。ミリアはテーブルに両手をついて飛び上がり、「お花!」と叫んだ。

 ミリアは暫くグラタンをうっとりと眺めていたが、突如あっと思い立ち、早速棚のあちこちを探り出した。

 紙はたくさんあるのに、肝心の便箋と封筒が無い。

 ミリアはリョウの楽譜やらよくわからぬメモをごっそり棚から出しながら、全ての棚を探索して回った。しかし目当てのものはなかなか見当たらない。次第にミリアの表情が険しくなる。便箋と封筒がなければ、サンタには手紙を書けない。手紙が書けなければプレゼントのお願いが出来ない。

 散らかした紙の山の中心で泣きべそをかこうとするその寸前で、ミリアははっと息を呑んだ。

 曲のコード進行が殴り書きされた紙の間に、茶封筒と一筆箋が挟まれていたのだ。

 ミリアはそれらを持って立ち上がり、高く掲げ持つとぴょんぴょんと飛び跳ねて回った。


 ミリアはリョウの置き手紙に書いてある通りに、グラタンを温めて食べ、シャワーを浴び、歯を磨いて、宿題は無かったけれども約束を死守するために、今日の漢字のプリントをもう一度ずつ解いて、それから背筋を伸ばして堂々と一筆箋に向き合った。

 ミリアは真剣な眼差しで鉛筆削り器で鉛筆をゴリゴリと削り、固く鉛筆を握り締め、何やら無心に言葉を連ねた。書き終わるとふうと大きな溜息を吐いた。それから茶封筒の表に「サンタさんへ」と大書きして、きっちりとセロハンテープで止め何度もぐいぐいとそこを伸すと、ソファに置き、くすくすと笑いその顔のまま、寝た。


 カチャカチャと音を立て、リョウが帰って来たのは日付も変わった頃だった。リョウは先に寝ているミリアを起こさぬために購入した足元の間接照明を点けると、ソファでミリアがすやすやと眠り、テーブルのグラタンが無くなっているのに安堵して微笑んだ。

 できるだけ音を立てないように、肩に掛けたギターを降ろし、ケースから取り出して壁に掛けようとした瞬間、何かがはらりと音を立て足元に落ちたのを感じた。目を凝らして見ると、封筒が落ちている。リョウは眉根を寄せながらそれを持ち上げ、薄暗い中で凝視した。

 ―-サンタさんへ。

 と、そこには大きく描いてあった。味気も素っ気もない茶封筒。これはたしか、昔、バンドが軌道に乗り始め、それまでバイトをしていた引っ越し屋に辞表を出すために買った封筒じゃあなかったか。どこにあったのだと思いつつ、改めてその宛名にリョウはどきりとした。一体どこでこんなやり口を覚えてきたのだろうか。あの金持ちのお嬢さんだろうか。そう思えば我知らず溜息が出る。そしてこの少女は、一体何を欲しているというのか。本物の猫だのと書かれていたらどうしよう。あり得る話だ、とリョウは唇を歪めた。そうでもしたら例のシリーズの人形でごまかすか。それとも、デカいぬいぐるみでも買い与えてやれば満足するだろうか。しかしそんなことをしたら、本物が良かったのに、と泣き出しはしないだろうか……。

 リョウはごくりと生唾を飲み込み、ミリアの寝顔をおそるおそる眺め下ろした。すうすうと幸福そうな寝息を立てており、起きる気配はない。意を決してリョウはそっとセロハンテープを剝がした。

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