第21話
その後もリョウは二度ばかり一晩きりの帰宅をし、それから更に一週間後、遂にツアー最終日を迎えた。
ミリアは前回の帰宅同様に学校から帰るなり早速エプロンを身にまとい、豆腐ハンバーグを作った。捏ねて叩くのには随分骨が折れたが、これで味が決まるのよ、という美桜の母親の言葉が幾度も脳裏に浮かび、ミリアは全身全霊を込めてその作業を行った。フライパンに油を敷いて焼いている間、トマトのサラダに入れる、美桜の母親直伝のバルサミコ酢のソースを作る。ミリアは教わった通りに、きちんと目盛り脇から計量カップを見、丁寧に分量を量った。それから今日は特別な日なので、デザートまで作った。それも美桜の母親に教わった檸檬のタルトである。ミリアはそれらをテーブルにすっかり並べ終えると、堪え切れずににんまりと笑んだ。
約束の八時――。
何度も時計を見上げながら、ミリアはその時を待った。家の前を通る車やバイクの音が聞こえるたびそわそわと腰を上げ、そして違ったと落胆して座ることを幾度となく繰り返し、やがて本物の、涙が出そうになる程懐かしいバイクの音が近づいてきた。ミリアの鼓動は必然的に高鳴った。リョウは昨日の電話で「小学生は八時に寝るもんだから、先に寝てろよ」、なんて言ったがそんなことを受け入れなくてよかったと、心から思った。
ミリアはやがて階下から昇って来る足音を聞くと、いても経ってもいられずに玄関の扉を開け放った。
するとそこには、ギターを背負ったリョウがいた。
「リョウ!」ミリアは夜分だということも忘れて叫んだ。
リョウはすかさず笑いながら「しー。」と人差し指でミリアの唇を抑え、小声で返す。「……ただいまー。」
「お帰りなさい……お帰りなさい。」ミリアの視界は滲んでくる。「待ってたよう。」リョウの塞がっている両手を引っ張り、家へと引き込んだ。「もう、今日からは毎日うちにいるの?」
「そうだよ。ツアー終了。反省点もあるけど、ああ、凄ぇ充実したツアーだった。お前もお留守番ご苦労様。ほんっと、ありがとなあ。」リョウは玄関でギターを肩から降ろしつつ、鼻を蠢かした。「お前、また夕飯作ってくれたのか。」と急ぎ足でリビングに入った。
「おおー! マジか!」リョウはテーブルの上に顔を近づけて凝視する。
「ただのハンバーグじゃないの、お豆腐なの。お豆腐は体にいいの。消化にいいから、疲れてる時はぴったりなの。」美桜の母親の言葉を繰り返す。「リョウは疲れてるでしょ? そういう時はお豆腐なの。」
リョウは荷物を構わずどさどさとそこいらに下ろすと、「実は凄ぇ腹減ってんだよ、ラーメン食って帰ろうかと思ったけど、お前がもしかすっと起きて待ってんじゃねえかと思って、食わねえで急いで帰ってきたんだ。」
「うんうん。」ミリアは笑顔で幾度も肯いた。
「いただきます。」リョウは頭を深々と下げると、早速ハンバーグとご飯を一気に口に詰め込んだ。慌てて目をむきながら、咀嚼を速める。そして、「凄ぇ旨ぇ。」と呟いて、ミリアの頭を激しく撫で摩った。「お前天才だな。もう、完敗だ。せいぜいお前に勝てるのは身長と髪の長さぐれえなもんか。」
リョウは次々に箸を運ばせ、これも旨い、あれも旨い、と平げていった。ミリアもその隣で自分の分を食べ始める。それからそうだ、とばかりミリアは立ち上がった。
「ギター。」
「何、食い終わってからにすれば。」
ミリアは首を横に振ってFlyingVをアンプに繋ぐ。それからリョウが置いていった最新のアルバムをコンポに挿入した。
「何? 新曲練習してくれたの?」満足げにリョウは言った。
「うん。」と呟くと、ミリアは一曲目をセットした。そうしてBPM250にも及ばんとするリフを、一呼吸置いて怒涛の如く弾き始めた。本来は全部ダウンピッキングで弾くのだとリョウは誇らしげに言っていたが、それはどんなに練習しても、それこそ腕が千切れそうな程に痛くなるまで練習しても、絶望的に難しかった。そこでリョウが帰って来るまであと二日に迫った晩、ミリアは一小節につき一音だけアップを交える妥協を自分に許し、何とか原曲のスピードで弾けるようになったのだった。
ソロはより困難を強いられた。比較的ゆっくりとしたメロディアスな部分は音を追うだけなら何とかなったけれど、速弾きは到底無理だったのでコードから外れないようにして音を減らすアレンジを加えて、弾いた。その方針で二曲目、三曲目に入った。リョウは上半身を乗り出し、目を真ん丸に見開いたまま、固まっていた。
「ここまでなの。」ミリアは五曲目に入った時、含羞に俯いたまま言った。
リョウは立ち上がって、ミリアの肩を両手で掴んだ。
「……お前、これ。マジか。凄ぇぞ。お前、俺じゃねえか。」リョウはミリアの肩を引っ掴み、がくがくと震わせながら、溢れ出す歓喜をどうにかこうにか押し止めて語り掛けた。
「お前気付いているか、お前凄ぇ、俺だぞ。癖とか、音の出し方とか。」
ミリアはすぐに首を横に振った。「難しいところは、弾けなかったの。」
「そりゃ、練習すりゃできるようになる。要するに後はチョーキングとか、スウィープとか、そういうテクニックの問題だから。けどな、そういう後付けできねえ、根底にあるものは、おんなじだ。」
リョウは意を決したように、唇の端を震わせ、言葉を継いだ。
「このCDが出せた時には、おれの人生ここで終わってもいいって本気で思ったんだ。そんぐれえ完璧で、幸福だった。あのクズに毎日ぶん殴られ蹴飛ばされしたことも、公園でひたすら寒さに耐えていたことも、もう、どうでもよくなった。それぐらい、今まで抱いた負の感情を全部、ここに昇華できたんだ。」
ミリアはごくりと唾を飲み込んだ。リョウの初めての過去の告白に、言い知れぬ怒りが湧いてきた。かの父は、リョウのことも痛めつけていたのか。自分なら、構わない。でもリョウを痛めつけるのだけは、どうしても我慢が出来なかった。引き結んだ筈の唇がぷるぷると震えてくる。そして耐え切れずに、リョウに抱き付いた。
「それをお前が弾いてくれて、俺は嬉しい。ちゃんと俺の苦悩を、絶望を、何もかもわかってくれて。」リョウはミリアを抱き締め、頭を撫でながら言った。「さすが、妹だ。」
ツアーが終わってから、リョウは暫く家で寛ぐ日が続いた。
のんびりとギターを弾いたり作曲をしたり、その合間合間にミリアのために料理を作ったり、ミヒャエル・シェンケルの『Doctor Doctor』がどれだけ素晴らしいかを延々ギター演奏付きで解説をしたり、Judas Priestのアルバムの構成がどれだけ神がかっているのか、捨て曲さえ捨て曲にはならずに生かされているということを熱く説明した。でもミリアにとっては、そういった名曲、名アルバムよりもリョウの曲がとかく格別に感じられたものだった。ツアーから帰宅したあの日以来、リョウが自分の幼少時代について触れることはなかったが、リョウの曲を理解できるのは自分なのだという自負が芽生えていた。
だからミリアはその日を境に、ギターはリョウの曲で練習することとした。無論運指目的の練習曲は他から引っ張ってくることもあったけれど、リョウの曲を弾けるようになることを一番の目標とした。目的は単なる楽器の上達ではなかった。そんなことは、どうでもよかった。それよりもリョウの思いを僅かにでも共有することが、ミリアにとっての人生の目的となったのである。
ある日リョウは酷く鬱屈した様子で帰宅した。久方ぶりのバンドの練習が長引いたとかで、夜中の十二時近くなっていた。起きていたミリアに「さっさと寝ろよ。」と無感情に吐きながら、ギターも弾かずそのまま寝室に引き籠もってしまった。
リョウはいつも寝る前にはギターに触り、ミリアが起きていればよく理解できないことでも一切お構いなしにしゃべり続けたから、この変化にミリアは驚嘆した。何か、とんでもない事態が起きたのだ、とミリアは直観した。
それからもリョウはギターの練習はそっちのけで、真夜中だというのに寝室で電話をし始めた。何が起きたのだろう、ミリアはソファに横になり毛布を被ってはみたものの、全く寝付けるはずもなく、ただリョウの断片的な話し声に耳を傾けていた。
パパが生きていたのかしら。それとも出て行ったママから何か迷惑を掛けられたのかしら。ミリアは自分に想像のつく限りの災難を想起して、鼓動を早めた。明日の不安を抱えながら眠りに就くのは実に久方ぶりであった。昔はいつもこうだった、とどこか客観的に自分の不安を眺めながら、明け方近くになってようやくミリアは眠りに就いた。
翌朝は、やはりどこか元気のないリョウに起こされ、しぶしぶ学校へ向かった。美桜やその他の友達、先生にまで元気がないと指摘され、ミリアは授業が終わるとクラスの子たちが勤しんでいるドッジボールにも参加せず、溜息吐きながら一人とぼとぼと帰宅した。リョウの身に何があったのかは相変わらずわからなかったが、リョウが意気消沈していれば自分もそうなるものだ、とミリアはその因果関係を疑うこともなく落胆し続けた。
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