BLOOD STAIN CHILD

maria

第1話

 黒崎ミリアは春を目前にしながら、突然大雪が降りしきった日の黎明に生まれた。

 ミリアの母は未だ娘と言うべき年頃で、僅かにも願っても無い出産に向けて、一層憂鬱というよりは憤怒さえ覚えながらその日を一人自宅で迎えた。父親、となるべき人は妊娠を伝えてからどこぞへ行ってしまって連絡もつかない。娘はその不実な相手と自分を呪う代わりに、腹の中の存在をこの上なく忌み、腹立て、何度か殴りもしたが、何の効果も得られないまま、遂にこの日を迎えることになっのである。たった一人の家族、というより同居人とでもいうべき、不惑を迎えた父親は不在がちであったし、元より娘に関心なんぞ抱いていなかったので、腹部の膨張には気づきもしなかった。それだけがこの娘にとっての幸運だった。もし父親に妊娠を知られれば激昂、罵声、暴力の三つは必須である。今日も父親は帰って来ない。その隙に生み落としてそのまま庭にでも埋めてしまえばいい、それだけが彼女の希望であり慰めだった。

 ミリアの母は一晩中腹の痛みに耐えた後、少々の痛みと引き換えに、自宅の風呂場で忌むべき命をこの世に産み落とした。血でぬらぬらとするタイルに尻を付けたまま、ふと見上げた窓から冴え冴えとした北極星がやけに輝いているのを母親は無感動に眺めていた。それよりも自分が想像していた以上には苦しまなかったことと、風呂場こそ血まみれになったがすぐに水で流せば原状回復は容易であろうことに安堵した。あとは股の間で血まみれになりながら泣いている、この猿のようなものを埋めてしまえばよい。娘はこの上なく残忍な笑みを浮かべた。

 しかしその日の天候が全てを狂わせた。突然の大雪のためにその日の仕事を無くした娘の父親が、酒臭い息を吐きながら、夜明けを待たで、実に十日ぶりに帰宅をしたのだった。風呂場から響く産声は到底、隠しようもなかった。そこでこの男は生涯たった一度の、祖父としての務めを果たしたのである。すなわち、救急車を呼び、更に夜明けを待たで赤子の父親とその両親を呼びつけ、罵声一通り浴びせかけた後、無理矢理に婚姻関係を結ばせるという務めを。

 それは母親にとって予想外であり、意に沿わぬことでもあったが(既に赤子の父親に対する慕情は失っていたから)、大柄な体躯に過度な飲酒癖、暴力的性質を兼ね備えた父親の行動を止めることは、幾ら同世代の男たちを好き放題に扱ってきた娘とて、できなかった。自宅で出産をした自分に怒りが向かなかったことだけでも、僥倖と思わねばならなかった。

 母親は我が子に、致し方なく当時流行していた女優の名を付け、夫となった男と共に寂れたワンルームのアパートの一室において新婚生活を送ることになった。夜中になると大声を出し、乳を欲しがったり、あるいはもっと抽象的な何かを欲しがったりする我が子に、父が愛情を覚えることは一度もなかった。パチンコで運良く儲けを得た時にだけ、気分よく赤子を抱いてあやすこともあったが、それはおそらく終生片手で数える程もなかった。それ以外は、うるさいだけの、金のかかるだけの猿に似た存在でしかなかった。その点この父母はおそろしく似通った感受性を持っていた。

 夫はミリアを見るたびに舌打ち交じりに思い出すのだった。一体これの祖父が酷く暴力的であるからに、こんな目に遭っているものの、この女と交際する以前に別の女との間に成した男の赤子なんぞ、母親諸共一銭も望まず、行方も知らせず、勝手に生きるだか死んでいるだかしている。その、自分に迷惑をかけないという点において素晴らしく出来た妻子とは違って、この、顔の造形こそ良いものの、愛想というものが死滅しており、始終癇癪ばかり起こしている妻と、それと同様に始終愛らしさの欠片もなく、朝晩構わず泣き喚き責任を押し付け続けるだけのこの赤子は、前の女の元にできた赤子と比較すると一層許し難かった。


 そしてその怒りは四年後、突然暴発することになった。

 夫の、ではない。妻が、妻であることを辞する旨の緑色した書類を置いて、部屋を突如去ったのである。しかも幼子を置いて。

 パチンコでさんざ金を磨った腹いせに、道端にあるポールを蹴飛ばし割ってやって帰宅した時、夫は部屋の真ん中で「ママ、ママ」と腫れた眼をしながら泣きじゃくる幼子を見た。

 思い当たる節なぞ、腐る程あった。時折日雇いで稼ぐ金は、それがパチンコで増えた時以外ほとんど渡さぬから、どうやら妻は夜の商売をしていたようだった。それを隠し立てすることもなく、部屋の隅には胸の肌蹴る服がたんまりと下げられていた。何度か男に送られて帰宅するのも見ていた。顔がよいから、援助をする男もいたように思われる。しかしそんなことは、どうでもいい。

 夫は怒りに任せてテーブルに置かれた離婚届をむんずと握り締め、役所に叩き付けてやったが、妻の実家へ乗り込んでも、友人の電話に片っ端から連絡を入れても、妻の手がかりさえ掴めなかった。

 夫は幼子と二人、途方に暮れた。四歳になるはずだのに、いつも家の隅で不気味な大きすぎる瞳で大人を眺め、父親からは無論母親からも邪険に扱われる、保育所だの幼稚園だのにさえ通わせてもらえぬ、どこにも所属の無い、幼子である。父親はこんなものとこれから延々と生活を共にしなければならないのか、と、そう考えるだけで恐怖に襲われた。しかしそれを認める訳にはいかなかったので、憎んだ。殺してしまえば、とさえ思った。

 しかしこれを殺せば自分の自由が法によって奪われることだけは、漠然と理解していたので、時折思いついた時には意図的に食事を残してやったり、小銭をくれてやったりもして、戦々恐々、これとの生活を始めた。それでも面倒を押し付けられたことへの怒りが沸き起こる時には、幼子を殴った。部屋の壁に叩き付けた。蹴り飛ばした。それは発作のようなもので、母親ではないのだから仕方がないのだと自分に言い聞かせた。

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