第16話

 ミリアと暮らすようになって以来、リョウは授業参観にも行き、家庭訪問にも応じた。家を来訪した中年の女教師は陳列されたギターを見て驚嘆し、ミリアさんもこのようなヘビメタを弾くのですかと尋ね、(ヘビメタなどという蔑称には一瞬苛立ちを覚えたが)リョウはそうですとにこやかに答えた。

 そこで、教師は、言葉少ななミリアに多くの友人が出来たことには心から安堵していたが、もう一歩、積極的に周囲とかかわっていくような姿勢を培ってはいけないかと思案していたのだと打ち明けた。そしてそのために、秋口にある学校の芸術会で、皆の前で演奏してはどうかと提案したのであった。リョウは快諾し、「ミリアは、こいつは、なかなか巧いんですよ。まだライブハウスは早いけれど、学校で皆に聴いてもらえるんじゃあ、いいな。やってみろよ。」と隣のミリアの背をばしんと叩いた。リョウが嬉し気だったのでミリアもやはり嬉しくなり、うん、と頷いた。

 それから一か月、リョウはミリアにトトロとぽにょの曲を教えた。リョウはいかなる曲であっても、ギター用に編曲ができる。ギターレッスンでは当初メタルばかりを教えていたが、次第に生徒が多様化するにつけジャンルの隔てなく、手広く教えていたので、このような技術を身に付けるに至ったのである。選曲に際しては、小学生といえば、トトロかぽにょだろう、絶対そうに違いねえというリョウの頑なな思い込みの下、即決された。リョウはすぐさまスコアを作成し、ミリアの前にき、模範の演奏を見せた。

しかし当のミリアが首を傾げた。

 「悪い、また突っ走っちまったな、まあ、お前の好きな曲が一番だよな。あんま、アニメは好きじゃなかったか……。」リョウは訝るとミリアは伏し目がちになり、「……これ、知らない。」と呟いた。

 リョウは驚くと同時に胸の奥に明確な痛みを覚えた。映画なんぞ、連れていってもらったこがないに相違ない。それにうちに来たばかりの頃は、テレビも見たことがなかったと言っていたし、電気が点いてさえ驚いていた。リョウはどうにか震え立つ憤怒を押し込めると、「明日、DVDを借りてきてやるよ。面白ぇぞ。」とだけ言ってミリアの頭を撫でた。実際面白いかどうかは別としても、子供らしい楽しみをミリアに与えたかった。子供同士の会話に加えたかった。誰も与えられなかった、与えようとしなかった子供時代特有の幸せを、自分が与えるのだという強固な決意がリョウの胸に沸き起こった。

 

 翌日、リョウはミリアの珍しい姿を目のあたりにすることとなった。ミリアが今まで表に出したことのない、喜怒哀楽の全てが僅か二時間足らずの間に露出されたのである。

 ミリアはアニメの中で、母親が娘の髪を結っている姿を見てぽろぽろと涙を流し(そんな感動的なシーンでは無かったようにリョウには思われた。)、大きなふわふわした獣に載って空を飛ぶシーンでは一緒になって飛び上がった。リョウは驚嘆したが、ミリアの世界を僅かにも侵食してはならぬと極力気持ちを抑え、このアニメを(ほとんどミリアに注視しながら)最後まで見切った。

 ミリアはエンドロールを茫然として見ていたが、「おしまい」の文字を暫く凝視すると突然目を輝かせ、「ギター!」と叫び、勢いよく立ち上がり、いそいそと壁からFlying Vを外すと、昨日リョウに渡されたタブ譜をテーブルに置いて早速トトロを弾き始めた。この幼子はもしかすると非常に感情的なのかもしれない、とリョウは思った。

 ミリアはものの数日で二曲を仕上げ、アニメも大層気に入って、毎日学校から帰って来てはDVDを観ながら楽し気に弾いていた。リョウは続けて他の挿入曲のタブ譜も作り、ミリアに渡してやるとミリアは感激しながら更に練習に熱を入れた。

 そしてやがて芸術祭の日を迎えた。当日の緊張の度合いは人生最大級といえるものであった。無論、リョウの側のである。

 「お前、自分でギター持って行けるか? 重さで手ぇ痛くなったり、しねえか?」

 「だいじょぶ。」何度も掛けられた問いに、ミリアはさすがに憮然として答えた。

「俺が後で体育館まで持って行ってやろうか? ほら、痛くて弾けねえとかなったら大変じゃねえか。」

 「だいじょぶ。」

 「そうか……。じゃ、俺も後で行くかんな。招待状持ってった方がいいのか?」

 「いんない。」

 ミリアは先日、保護者への芸術祭の招待状も持って帰って来た。ミリアが図工の授業に描いた、白猫四匹が縁取りに描かれた招待状を見て、リョウは発作的に号泣しかけた。リョウはなぜこんな感情が芽生えるのか、自分はどこに向かおうとしているのかさっぱりわからなかったが、それは決して嫌な気分では無かった。リョウはその招待状を唯一無二の価値を有する宝物であるように、大切に大切に仕舞い込んだ。

 「もし本番前緊張しちまったら、自分は最強だって思うんだ。いいな? 誰も彼も自分の前に泣き叫べってな。」

 「……うん。」

 ミリアは心配そうに眉根を寄せるリョウを尻目に、昨夜リョウが丹念に弦を張り替え、メンテナンスを施したFlyingVを担いで家を出て行った。ミリアのステージは、三時からである。リョウは「三時三時三時。」と呪文のように呟きながら無意味に部屋の中をぐるぐる回り、このままではいかんとばかりパソコンに向き合い作曲をしてみようと思うものの手に付かず、ギターを弾いてみようと思うもののそれもやはり手に付かず、仕方なしに午前中からさっさとスプレーで髪を黒く染め、スーツを着込んで正座してその時間を待った。


 開始三十分前に体育館に駆け付けたリョウは、たくさんの保護者やら児童の弟妹やらが大騒ぎをしている様子を見て息を呑んだ。ここで、ミリアが初舞台を踏むのだと思うと、神聖な場所とさえ思われてならない。リョウは早速保護者席の最前列に陣取ると、カメラを覗き込んだ。バンド仲間のシュンから借りてきた一眼レフであり、ステージが目前に迫るが如くに見えるのを確認しにやり、と笑んだ。

 やがて開会式が始まり、順々に体育館のステージで、児童の歌やらダンスやらが始まって行った。リョウは式次第を握りしめながら、今か今かとミリアの登場を待った。ピアノの演奏、演劇だかミュージカルだかよくわからないもの、空手の型の披露、それらが終わると、いよいよミリアの出番となった。リョウはもう気が気ではない。俯いて深呼吸を繰り返し、ステージ袖を透視せんばかりに眺め、今頃ミリアはあそこで一人緊張しているのではないか、行って大丈夫だと励ましてやりたい、と胸を苦しくした。

 そしてミリアがFlyingVを掲げて出てきた。拍手が上がった。リョウは両手で口元を覆い目を見開いてミリアを見詰めた。

 「一年三組黒崎ミリアさん。崖の上のポニョととなりのトトロをギターで演奏します。」マイク越しに先生らしい声が響いた。リョウは嗚咽を堪えるべく喉を両手で絞めた。ステージ上の小さなミリアが涙でみるみる滲んでいく。

 そこに自分が創ったドラムとベースと、リズムギターを入れた音が鳴り始める。「大丈夫だ、俺がついている。」リョウは必死に念じる。ミリアは家で弾いているよりは幾分緊張気味ではあったが、いざ弾き始めると上体を揺らし、楽し気に弾いた。

 「ここは、聞かせどころだ。」と、リョウが丹念に教えた速弾きソロも全くのミスなく弾いていく。周囲の保護者もどよめきの声を上げた。リョウは内心ガッツポーズを取った。

 ミリアの演奏は、それまで集中力を失っていた小学生も、自身の子供以外になんの関心もないと言わんばかりの保護者もひっくるめて体育館全体を盛り上げていった。「当たり前だ。俺の妹なのだ。俺が教えたのだ。」リョウは一人一人にそう叫んでやりたくてならなくなる。

 ミリアは演奏を終えると、中心に進み出て「ありがとうございました。」と言い、ぺこりと頭を下げた。もう、耐えられなかった。リョウは立ち上がり万感の拍手を送った。

 「あなたのお子さんですか。」隣に座っていた児童の父親らしき男性に声を掛けられ、「はい、うちのミリアです。」とリョウは大声で宣った。周囲から「いや、上手ですねえ。」「小さい頃から習わせてるんですか。」「プロ並みじゃあないですか。」などと賛嘆され、リョウは我がごとのように誇らしく嬉しく、何度も頭を下げた。そして、そのついでに覗いた足元に、一眼レフカメラが鎮座されているのを見て思わず、あああああ、と叫んだ。撮影を、完全に失念していたのである。

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