第17話
ミリアの演奏は大層評判となった。芸術祭に来ていた美桜の母親なんぞはリョウの前で挨拶もそこそこに涙を流してミリアを絶賛し、是非、自分が主催している料理教室でのパーティーで弾いてほしい、相応の報酬は出しますからと言い出したので、リョウは慌てて、お金なんかとんでもないことです、いつでも声を掛けてやってくださいと恐縮する始末であった。
ミリアはギターを始めて三ヶ月も経たで、実に多数の曲を弾けるようになっていた。いつしか一日一曲を弾きこなすことが慣習となり、リョウから渡された楽譜は一冊のファイルを占めるまでになっていた。
そして遂にリョウは練習用の曲ではなく、バンドの曲の楽譜をミリアに渡すようになった。
「これ、何て書いてあるの?」楽譜には英語のタイトルが書いてあった。
「永遠に続く悪夢、だ。」
ライブが近いとかで、夕飯前に筋トレをする習慣を付けたリョウは、汗まみれになりながら、にやりとミリアに笑いかけた。
「俺の抱えている絶望をぶっ込んで作った、キラーチューンだ。ライブの最後は必ずこれ。最高に盛り上がる。」
ミリアは肯いた。絶望―-。自分の中にも絶望はあるだろうか。ミリアは探り出す。リョウ、美桜ちゃん、友達、先生、美桜ちゃんのママ、皆が優しくて、毎日が楽しい。絶望とは正反対。でもその前、自分は何をしていたろう? 思考が壁にぶつかる。押しても退かない。無理矢理叩き開ける。――そうだった、パパと暮らしていたのだったっけ。毎日毎日、死んでくださいと祈っていたのだったっけ。ミリアはそれを思い出し、否応なしに震え出した。自分が、パパを、殺した。どうしてこんなことを忘れていただろう。
ミリアは自ずと汗まみれになりながらスクワットをするリョウから、こっそり目線を外し、ソファの端へと身を寄せた。
リョウが、自分が殺人犯だと知ったらどうするだろう。美桜ちゃんが知ったら? ここには、もう、いられない。誰からも喋りかけてもらえない。毎日お腹が空き続けて、夏も冬も街を歩き続ける日々が再びやってくる。ひとりぼっちで。――呼吸が激しくなった。
「ん? どうした?」リョウがスクワットを終えて蒼褪めた顔をしたミリアを不審げに見下ろした。
ミリアは絶対に失いたくない、という瞳でリョウの顔をひたと眺め返した。その様は恋人に対するそれと変わらなかったので、リョウは思わず息を吞み、鼓動を速めた。慌てて頭を振る。目の前にいるのは、小さな我が妹だ。良かった、リョウは安堵して饒舌になった。
「わーかった。お前もライブに来てえんだな? でもな、俺らのライブはモッシュだのサークルだのウォール・オブ・デスだのがひっきりなしに起きっから、お前にはまだ早え。ま、そのうち連れてってやるよ。もう少し大きくなって、後ろで立ってるだけって約束するならな。前に来たくてもそんな小せえ体じゃあ、揉みくちゃにされちまうから、ダメだ。とにかくもちっと肉が付いて、背が伸びなきゃな。そのために毎日しっかり飯を食え。」
何も知らないリョウは呑気に、汗を拭い、拭い、言った。
ミリアは殺人を露呈されたくない一心で無心に何度も頷いた。
筋トレを終えたリョウはそのまま風呂に入り、タオルで頭を巻いて出てきた。先ほど渡された曲のリフをたどたどしく弾いていたミリアに、「この『Endless Despair』のリフは特にかっけえだろ。俺は今世でいつかこの上を行くキラーチューンが創れるのか、はなはだ疑問だ。お陰で毎日自分との壮絶な戦いだ。大体アマチュアも含めてどんなバンドでもよお、一曲や二曲絶対キラーチューンってのは持ってるモンなんだよ。ただしそれを量産できるかってのが問題だよな。常に自分との闘いになる訳だ。……ま、その曲もソロは速いけど、ゆっくりならそんな難しくねえから、やってみ。こういう風に、弾くの。」リョウは棚からCDを取り出して、オーディオに入れた。
絶叫するリョウの声と、土砂崩れ同然のドラム、その上をうねるギターとベースのユニゾンで曲は始まった。それは不幸も悲しみも全て飲み込み、屈することなく、遥か彼方を見据えながら進んでいた。強い。ミリアは目を見開いた。
リョウは笑いながら「凄ぇだろ。俺はきっとこれを世に出すために、生まれて来たんだと思ったよ。少々ヘヴィなこともあったがな。ま、こんだけの曲作れたから、チャラだ。」と言って立ち上がり、赤い髪を翻し台所へと向かった。そしてカレーを二人分よそって、テーブルに並べ二人して食べ始めた。
リョウはCDに合わせ鼻歌歌いながら、カレーを頬張る。ミリアはスプーンを持ったまま、曲に飲み込まれそうになっていた。胸中に沸き起こる何かを吐き出したくて、堪らなかった。
「ギターが、へびみたい。」
「は?」リョウはスプーンを口に入れたまま頓狂な声を出す。
「生きているの。それで、悲しいことがあっても、へこたれなくって、強いの。うねうねうね、って、地面を這っていて、何かやられたら、きっと、噛み付く。強いの。」ミリアは吐露し切ると、安堵したようにほうっと一つ、溜息を吐いた。
リョウは目を丸くして口から出したスプーンをミリアに向け、「お前、わかってんな。」と呟いた。「そうなんだよ、これは、かっけえリフの曲なんだけど、その根底にあるのは、人間を憎みながら反撃を狙う曲なんだ。それを希望に生き続けんだよ。まあ、それは一般の希望とは違うかもしれねえが……。でも大事だよな。たとえ今いる場所が、暗い湿地みてえな場所でもさ。」
ミリアはそれを聴いて満足げに微笑んだ。
「お前、ちゃあんと自分の感情、あるんだよな。それを表出する手段がないだけで。」リョウはミリアにぐい、と身を寄せて、「ギター続けろよ。その内作曲もしてみろ。感情を少しずつ表に出して行った方がいい。自分の感情を形にする作業は正直、しんどいけどな。でも自分の内面を見つめて、そこから脱却して次に行けるってことは実際、多い。」と言った。そうして口元にさも嬉し気な笑みを浮かべると、カレーを大口開けてと食べ始めた。
カレーが済むとリョウはカレーに入れた余りのりんごを剥き始めた。ナイフを持ったリョウの手元からリンゴの皮がするすると伸びていく様を、ミリアは驚きの眼差しで見つめた。そうして手渡されたリンゴをミリアは暫くこの上なく素晴らしいものであるかのように凝視していたが、しゃくしゃくと音立てて食べ始めた。うわあ、と目を閉じて溜め息交じりに感嘆するのが面白く、リョウは調子に乗って三つも四つもミリアに手渡した。さすがに五つ目になった時「おなか、いっぱい。」と悔しそうに言ったので、リョウは少々反省し、残りをむしゃむしゃ言わせて食べた。ミリアは手を洗いに立つと、再びギターを手にし、永遠に続く絶望の曲を弾き始めた。
リョウはナイフを洗いながら、「お前本当巧くなったよなあ。このままいきゃあ、俺が単品ボーカリストになれる日も近いな。でもそうしたらギタリストとしての存在感が薄れて、レッスンに来る生徒がいなくなるな。それはそれで、やべえか。印税一本じゃまだ辛ぇしなあ、ううむ。」リョウは頭を捻り、そのままバンザイと呼んでいるギターを手に取った。それを爪弾き、再びミリアのプレイをじっと見つめる。「それに、本当に弾き方が俺によく似てんなあ。やっぱ、血の成せる技なのかな。あの野郎の地が混じっていることに我慢できた日は一日もねえが、ミリアと同じと考えると、悪い気はしねえな。」
ミリアは肯いた。もうリョウの顔を見てもそれはリョウだけの顔なのであって、父親と重なることはなくなってきた。しかし時折ふと、父親の唸り声が聞こえることがある。それは授業中だったり、登下校中であったり、一人で留守番をしている時であったりした。先日それをカウンセラーに伝えたところ、生活を楽しいことで満たすことをアドバイスされた。ミリアはその心配には及ばないことを告げた。リョウとの日々には、全てに心が踊らされたから。でも、それに染まってしまっていいのか、という不安がどこかにある。ミリアは自分が父親を呪い殺したことを、自分の胸中の最も奥に鎮座させていた。それは奥底にあるからこそ日常的に目にすることはなかったが、覗き込めばごまかしようもなく真ん中にある。この曲はそこをはっきりと直視させる残酷な響きを秘めていた。
ミリアはリョウの曲をゆっくりゆっくり、弾いた。絶望、とリョウは言ったけれど、その絶望を諦観し受け入れた荒ぶる悲叫のようなものがより強く伝わってくるような気がした。ミリアは運指を何度も何度もしつこいぐらいに叩き込むと、やがて眼を閉じてその音を味わうようにして弾いた。すると音は罪に塗れた自分を客観視させた。ミリアは形状を得た自分の感情を暗澹たる思いで弾いた。
リョウは自分の手を止め、いつしかミリアのギターに聴き入っていた。それに気付いたミリアが、思いが先行し過ぎて弾き間違えているのかしら、と思いなして手を止め楽譜を見直す。
「間違えてねえから。そのまま、続けて弾いてみな。」
ミリアは肯いて、もう一度頭から一音一音丁寧に弾き始めた。パパが死にますように、そう祈っていた日々がはっきりと思い返される。あれは憎悪だったのか、絶望だったのか――。当時は自分の中の感情に名前を与えることなぞ、考えたことさえなかった。でもこれは、絶対に知られてはならないこと。特にリョウには、絶対に。
ミリアは音から自分の感情が滲み出してはいないかと不安に駆られ、一瞬、指が止まった。そうしてばれないように、カウンセラーに言われたように、努めて楽しかったこと、自分が周りの感謝を得た経験ばかりを思い浮かべ、もう一度弾き初めた。リョウの前では普通の子供でいたかった。愛されて然るべき、子供でいたかった。
リョウは目を閉じてミリアの奏でる音に耳を傾けていた。まだテクニックにおいては未熟であるが、曲の理解という一点においてミリアは現メンバーの誰よりも卓逸していた。これは血の成せる業なのか、それとも同一人物に同じ傷を負わされた経験によるのか、リョウは明らかに年齢にそぐわない絶望の解釈を有するミリアを悲しく見詰めた。
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