第15話

 小さな足音が近づいてくるのを聞いて、リョウは玄関を飛び出し、そこにミリアの姿を認めると、はああ、と長い安堵の溜息を吐いて「遅かったじゃねえかよ。」と呟いた。

 「……美桜ちゃんの家に、行ってたの。」

 「美桜ちゃん?」ミリアを部屋に入れ鍵を締める。

 「隣の席なの。」ピンク色の運動靴を脱ぎながら答えた。

 リョウは目を見開いて、「友達が出来たのか!」と叫んだ。

 ミリアは上体を起こすと、左腕にはめたビーズのブレスレットをぐいと見せた。「お揃いなの。」

 「ペアルックか! 恋人みてえじゃねえか! やるなあ!」リョウはそう言ってミリアを高々と抱き上げ、きゃあと叫ばせてから降ろした。そしてリョウは感心したように腕組みしながら何度も肯き、「良かったなあ。本当に、良かった。友達ができたんなら、良かった。じゃ、良かったついでに飯にするか。」と言ってソファに座り込んだ。既にテーブルにはサラダとハンバーグが並んでいた。その様はまるで高級レストランさながらにミリアの目には映った。ミリアは頬に手を当てて、「うわあ。」と感嘆の声を洩らした。今日は嬉しいことばかりだ、と思う。美桜ちゃんがいて、ブレスレットを作って、リョウがいて、リョウが作ったご飯を食べる。

 二人で声を合わせて「いただきます。」を言って、ミリアはおそるおそるハンバーグを一口、口に入れた。物凄く、美味しかった。給食以上の味である。ミリアは暫く息をすることさえできなくなった。しかし柔らかな肉が、じんわりと口中に味が染みていくのに促され、レタスを頬張る。シャキシャキとした触感にミリアは感激した。口の中がじわじわ唾液で充満し、そこだけの感覚に全てが占拠されてしまう。ミリアは思わず涙ぐんだ。こんなに美味しいものを作るだなんて、リョウは天才だ。ギターと料理の、天才だ。そして、ふと思い出した。

 「あ、クッキー。」

 ミリアはぱちん、と箸を置くと、ソファの足元に置いたリボンの付いた箱をそそくさと持ち上げてリョウの目の前にずい、と手渡した。

 「お土産、もらったの。美桜ちゃんのママが作ったの。とってもとっても美味しかったからリョウに一枚頂戴、って言ったら、こんなにくれたの。」

 リョウは驚いた顔でミリアを暫し見詰め、「……マジか。」ぼそっと呟いた。「ありがとな。」

 ミリアは自分が作ったわけではないのに、ありがとうだなんておかしいな、と思いながら箱を開ける。そこには先程食べた全ての種類のクッキーがそれぞれ二枚づつ入っていた。ミリアは、はい、と抹茶をリョウに手渡して、自分も齧った。ほんのりと甘い、さくさくの触感が口の中に広がる。リョウは「うめー! そこいらで売ってるのと全然違ぇな!」と言って、続けてオレンジも、チョコも、次々に頬張った。そして、何度も「うめー、うめー。」と激しく賛嘆した。ミリアはそれがなぜだかおかしくてならず、何度もくすくすと笑った。

 夕食を食べながら、リョウは今日のレッスンで弾いた曲の話と、生徒がどれだけ弾けるようになったか、それで自分も大きな刺激を受けたと嬉しそうに喋った。

 リョウは遠慮はしない。六歳の少女相手に、専門的な話でも噛み砕くことなくそのまま話す。そしてミリアはよく解しもせずに首肯する。全てを従順に需要しなければ、身体に痛みが生じさせられる環境で育ったがために身に付いた術であった。でも今は違う。ミリアはリョウが嬉しそうに喋っている様を見るのが、何よりも好きだった。リョウが嬉しければ問答無用に自分も嬉しかった。

 夕食とクッキーのデザートを食べ終え、すっかりお腹が充ちると、二人はそれぞれギターの練習を始めた。リョウが「お星がひかる」の楽譜を机上に置き、ミリアに辿らせながらお手本を弾いてみせる。弦は上から弾くばかりではなく、下からも弾けるよ、と言って手首を上下にゆっくりゆっくり振りながら、ミリアに見せる。それに一気にたくさんの弦を弾くのもあるよ、と。ミリアの左手を上から幾つもの弦をぐっと押さえさせて、更にミリアの右手を上から一気にピックを撫で下ろさせると、ミリアは驚嘆した。ギターの音だ。一気にリョウのギターに近づいた気がした。ミリアは嬉しくなって、色々なテクニックの詰まったリョウ編曲「お星がひかる」を弾いた。リョウはそれに合わせてバッキングを弾いた。

 ミリアは急に自分の音が「音楽」になったのを感じた。それはリョウがリズムを弾いてくれているからに相違ないけれど、リョウと一緒に音楽を奏でることで世界が生まれ、それがどんどん膨らんでいくのを、突き上げるような歓喜をもって全身で感じていた。音楽は世界を創り出すことなのだ、ということをミリアは直観的に解した。

 最初はぎこちなかったり、音を外すこともしばしばあったが、スムーズに弾けるようになると、リョウは「小学生はそろそろ風呂入って寝る時間だ。明日も遅刻をしちゃあ、格好悪いからな。」と命じ、ミリアは肯いた。

 学校に行けば仲良しの美桜がいる。美桜以外にも、美桜と仲良くしている子たちが盛んに話しかけてくれる。ミリアはもはや普通の子供だった。母親に捨てられ、みすぼらしいなりをしているがために、誰も彼もが遠巻きに眺めているだけの学校生活は完全に、終わりを告げた。休み時間にはクラスのみんなでドッチボールやかくれんぼをすると言っていた。担任教師は何かにつけてミリアを気に掛けてくれる。今度は放課後に絵本を読んでくれるとも言っていた。家に帰ればリョウが食事を作ってくれる。ミリアはお風呂に顎まで浸かりながら、ほうと長い溜息を吐いて陶酔した。

 顔を真っ赤にして風呂を出、髪を乾かし、リョウの練習する脇でミリアはタオルケットを顎まで被りながら、ソファに横たわった。間接照明と小さなギターの音色はミリアをすぐに、夢の中へと誘っていく。

ミリアは夢うつつに、自分はいつどこかで実は死んでしまっていて、天国に来たのではないかと訝った。でも、それでも良かった。何も問題は無かった。実は生きていたパパがひょっこり現れても、リョウが撃退してくれるに相違ない。明日が来るのが待ち遠しかった。こんな夜を迎えるのは初めてだった。

 リョウはしばらくギターを弾いて、ふと安堵する。すなわち、今日はミリアが意識も無く歩き回ることはないようだということに気付いて。いつもだったら眠りに就いて三時間も経つと、焦点の定まらぬ目でふらふらと歩き回るが、今日は寝息を立ててよく眠っている。あの妙な病気は治ったのかな、リョウはじっとミリアの寝顔を眺め下ろした。

 睫毛が細かく震えているのに気付き、リョウはそっと指先で触れて震えを抑えた。しかし起きそうにもないのを見ると、次いでリョウはその幾分肉が付きかけてきた頬を人差し指でそっと押してみた。ミリアはううん、と緩く頭を振った。愛おしさが込み上げ、リョウは頭を優しく撫で微笑んだ。そして再びギターを弾き始めた

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