第32話
いよいよ年が明けると、世間の様相とは相反してリョウの様子が一変して来た。出かけることが増える。家にいても始終電話で話している。これが頻繁になってきた。
ミリアは白い天蓋付きベッドに腰掛けながらギターを抱え、ドールハウスに入居した白猫一家を観客として、リョウの方ばかりをちらちら見ながら、身の入らぬ練習をしていた。
ミリアは夜分ばかりでなく、日中も始終ここに腰を掛けることを常としていた。白のふんだんで豪奢なレースを空かして見る部屋の風景は、それまでとは大層異なってミリアの目に映る。部屋に差し込む陽光は暖かく、月光は冴え冴えと。特にその世界の主たるリョウは、姫君を迎えに来る優雅な王子様のようにミリアには見えた。ちょうど、クラスの女の子の中で流行っている、ディズニープリンセスの王子たちのように。とかく全てが物語のようで美しかった。だからミリアはここにドールハウスを持ち込み、ギターを弾き、日々を過ごした。
しかし今は――、ミリアはちらと時計を見遣る。リョウが今深刻そうな口調でしている電話は、遂に一時間を超えようとしている。
「……そんなこと、俺は思っていねえよ。そりゃあ、この間言った通りだ。」リョウの口調が次第に厳しくなる。ミリアは自分が叱られているような感覚を得、思わずぎくりと身を震わせる。
「お前、その程度だったのかよ! ふざけんな!」
ミリアは慌てて決まった運指を延々続ける基礎練習に没頭する、ふりをした。
「てめえは周りから突っつかれようが非難されようが、貫徹してえ意志はねえのかよ。何なんだよ。知るか。」遂に通話を切ったらしい。檻の中のライオンのようにぐるぐるとリビングを周回していたリョウが、どさっとソファに凭れ込んだ。「知らねえよ。んな、無責任な他人の話なんかまともに聞いてんじゃねえよ。」空を睨み、ぶつぶつと呟く。
ミリアは遂に練習を止めにしてギターを下ろし、ベッドから降りた。
リョウが再びどこぞに電話をし始める。ミリアはそうっと台所に立ち、冷蔵庫の中身を検分した。卵(これはミリアの好物なので欠かしたことはない)、それに鳥肉、ねぎを見つけ、ミリアは早速腕まくりをし、猫柄のエプロンを付けると肉を切り始めた。
「リョウ、お昼ご飯、出来た。」
ミリアは電話を終えて空の一点を見詰めているリョウの前に、出来たばかりの親子丼を置いた。
「ちゃんと、とろとろに出来た。」
リョウは我に返り、「おお。」と目を見開く。「凄ぇじゃねえか! 大串屋じゃねえか!」
これでリョウの気も少しは和むのではないかと、期待も高まった。
早速二人で昼食となった。
うめえ、うめえ、と呻きながらリョウは勢いよく食べ始める。
「そうだ、ミリア。」と、リョウは口を膨らませながら咀嚼をして、ごくりとお茶でそれを飲み下す。「お前、今日からうちの、正式なギタリストな。」
ミリアはリョウの顔をひたと見詰めた。
「ダイキ、辞めるって。」リョウはきっぱりとそう言い放った。
「あんな簡単に、辞めるとか言う奴じゃなかったんだけどなあ……。」そして幾分疲弊したように、溜息を吐いて遠くを眺める。「こんだけギタリストが定着しねえって、やっぱ、問題は、俺だよなあ。」
その様子は寂寥そのもので、ミリアは見ているだけで胸が苦しくなった。そしていつもリョウがそうしてくれるように、中腰を上げると頭を優しく撫でた。
リョウは一瞬驚いたようにミリアを見、自嘲的な笑いを口許に浮かべる。
「嘘だよ。ああ、俺はバンドのことになると、頭が普段以上に働かねえんだ。普段からまともに働いてるとは思えねえのによお。お前はまだ義務教育だしな、バンドなんかやらせてせっかく上向きになって来たお前の大切な人生、台無しにはしねえよ。まあ、ギター弾ける奴なんざ世の中ごまんといるしな。これからオーディションやって何とかやっていけそうな奴、見つけて……。」
「ミリア、ギターやる。」
ミリアはそう言ってしかとリョウの顔を見据えた。
「リョウと一緒に、弾く。」はっきりと繰り返した。
リョウはふっと疲れた笑いを浮かべる。
「無理だよ。ツアーとかあるし、学校……」
「無理じゃない。」
リョウは目を見開いて目の前の小さな少女を見上げた。こちらが何を言ってもうんうん肯くだけのミリアが、何という豹変ぶりであろうかと。
「……いや、お前、大きくなれば、自分でメンバー見つけて、好きなだけバンドなんてやれるからさ。」
「リョウと、一緒にやりたい。リョウとがいい。リョウじゃない人とバンドなんてやりたくない。」再び鋭い視線を投げ掛けながら、間髪入れずに即答する。
リョウは言葉が出ず、焦燥した。ミリアが――、ミリアの癖に――、何と、妙な圧倒感さえ醸し出していることか。
「もっと、練習、頑張るから。」ミリアはそう言ってじりじりと身を乗り出す。「ソロももっともっと上手に弾けるようにするし、リフもリョウとぴったりになるように練習する。ヘドバンも、扇風機も、練習する。」
ミリアの瞳は真剣そのものであった。リョウはそれを呆然と眺めた。小さく、言葉足らずなミリアがなぜだか神々しく見える。女神? これは、救世主なのか? 妙な錯覚を覚える。視線がぶつかり合い、しかしミリアはその剣先の如き視線を少しも微動だにすることはなかった。
リョウは長い息を吐くと、「デスメタルを、俺の曲を弾くってことは、絶望を凝視し続けることになる。この前だって、辛かったろ? 俺はお前が過去を思い出して苦しむのを見たくねえんだよ。お前には始終笑っていてほしいんだよ。」と訥々と語った。
ミリアは頬に凄みのある笑みを浮かべると、ゆっくり肯いてみせた。「大丈夫。リョウと一緒なら、ミリア、強くなれるの。強くならなきゃ、笑えない。」
それからミリアは約束通り、一層熱心にギターの練習に励んだ。ミリアが正式加入するということについて、シュンもアキも異論は挟まなかった。そればかりか、なるべくしてなった、これで最後のピースが完成した、という妙な感覚さえあった。
そもそもLast Rebellionはリョウを中心に結成された、ひたぶるにリョウの曲を体現することを目的とした、ある意味どこよりも純粋なバンドである。しかもリョウの曲は、プレイは、他のバンド、プレイヤーを悉く圧倒していた。メロディック・デスメタルというジャンルの本髄を、凄まじいまでの威力を持って逐一突きつけた。それは憤怒であり絶望であり、そこから這い上がらんとする闘争心である。それらの溢れかえる激情の渦に、シュンとアキも翻弄され引き込まれ、即座に以前いたバンドを辞し、集ったのである。それは教祖を求める熱狂的信者の姿とそう変わるものではなかった。
しかし不思議と、ギタリストだけはなかなか定着しなかった。それはリョウの咆哮しながら弾くギターが、本職のそれよりも遥かに重々しく何物をも圧倒する響きを有していたからである。ギタリストの敗北感、劣等感、嫉妬――、という感情で片付けられれば楽だったのかもしれない。とかく渦巻く種々の負の感情に、リョウを下手に見ることとなるギタリストは誰しも悩まされることとなった。彼らは、さんざ苦悩し、試行錯誤し、血の滲む努力を重ね、それでもそこに到達し得ぬ自己の力量を思い知らされ、いつしか挙ってLast Rebellion以外に自らの方向性を見出そうと試みることになるのだった。ある者は自分が中心となるバンドを作ると、そしてある者は音楽自体から手を引き家庭を持つと――。実際、ダイキも怪我からの回復を待って交際していた女性との結婚を考えたく、そのために音楽活動を辞める、というのが一応表立っての理由ではあった。しかしその根底にあるものは、少々異なる。ダイキは音作りやらアドリブソロに、ギターボーカルという立場の人間にあれこれ口を出されるのが、かねてより我慢ならなかったのである。年だってそう変わるわけではない。バンド歴だとてほぼ同じである。確かにリョウの才は抜きんでている。おそらく、今の日本の若手で彼に匹敵する者はおろか、追随する立場の者さえいない、というのは日本のメタルシーンでは満場一致する答えであろう。しかし理屈はそうだとしても、一応己とてギターに人生を賭そうと思った人間である以上、感情はそれを受け入れようとしなかった。
更に―-これは、本人の耳には届かぬよう配慮がなされていたが――、親より虐待を受け、施設で育ち、義務教育を終えるなりそこから飛び出してきたという、何やら壮絶な人生を送っているらしいことも、その評判を一層高めた。とりわけ幼少時にピアノだのバイオリンを習い、その後も優雅に音楽に専念できる家庭に育った連中は、このバックボーンに密かなる羨望の念を抱くに至ったのであった。
しかも時には暴徒とさえ化す、観客たちを完璧なまでに圧することのできる、天賦の才がリョウには備わっていた。恵まれた長身の体躯、地獄から響くような咆哮を何時間でも吐き続けられる強靭な喉、男共の尊崇の念を集めるに足る精悍かつ峻峭な顔付きが、更に彼の人気に拍車をかけた。Last Rebellionのリョウ、と言えば日本のデスメタルを牽引するカリスマとして君臨していたのである。
しかし一度ステージを降り、彼が昨今開始したギターレッスンなどに顔を出せば、その飾らない性格には多くのメタラーやギターキッズが魅了されることとなった。昨今ではミリアの存在も露呈し、デスメタルバンドのフロントマンでありながら、女児の育児に取り組むというギャップが新たな好意的からかいと親近感をそこに加えることともなった。
しかしファンの裾野は広しと言えど、リョウを最も愛し崇めていたのはミリアに相違ない。昨今ではリョウの曲ばかりではなく、リョウが練習曲に使っている曲もそっくりコピーをし始めた。全て、リョウと一緒でなければならないと思い込んだ。結果、ジャズにフュージョン、ボサノヴァまでもが練習曲となった。運指は複雑で、メタルよりも多様な感情を表現しなければならなかったから、それには単なる技術だけではなく、高度な集中力をも要した。それに強弱の付け方、多様なコード進行、これらも直接的にデスメタルバンドに生かされるわけでは無いけれど、こういった他ジャンルを練習することでソロのバリエーションが出たり、感情が表現しやすくなったりする、とリョウはミリアに教え込んだ。ミリアは忠実にその一言一言を吸収していった。
ミリアは弾けない曲がある時には美桜からの遊びの誘いさえ断って、一日何時間でも、時に食事も忘れてギターに打ち込んだ。しかし、そんなミリアの腕には色とりどりのストーンで作られた、ブレスレットが飾られていた。これは新年早々美桜から貰ったハワイ土産である。ミリアの好きなブルーを基調としながら、美しい石がぐるりと輪を成し、ミリアのか細い腕を飾っている。ミリアは練習に草臥れると、これを見て心を奮起させ、何時間でも弾き続けた。
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