第6話
そのまま、朝を迎えた。
翌朝、夫婦は出かけてくると行ってどこぞに行ったが、昼前に戻って来ると、ミリアに身支度をさせ、共にタクシーに乗った。着いたところはミリアが想定していた病院では無く、葬儀場だった。父親は既に棺桶の中で眠っていた。桔梗の花に埋もれながら、ただただ眠っているように見えた。昨日の濁った白目も、涎を垂らした頤も、何も無かったかのように、相変わらず美しい顔をして眠っていた。
「ミリアちゃん、最後のお別れよ。」
そう促され、ミリアは用意された煙草の箱を父の頬のすぐ脇に入れた。それから同様に渡された白い桔梗の花を、肩の上にそっと置いた。ミリアは自分が何をしているのだろうと思った。悪い冗談に加担してしまっている。パパに殴られる――。
棺には蓋が載せられ、顔だけを覗かせる小さな窓も閉められる。そのまま父は大きな穴に吸い込まれていった。ミリアはそのままソファのあるホールに連れていかれ、オレンジジュースのパックを与えられた。
夫婦はそのままミリアを置いてすぐ隣の別室に入り、いつまでも何やら深刻そうに小声で話し続けていた。ミリアは退屈そうにも見える無表情な顔でロビーの丸窓の外を見るでもなく見ていた。
じりじりと蝉の声が響き、雲は山の上をうず高く駆け上っている。今日も暑そうだ。こんな日に街を歩き続けるのは、辛い。と思いつつ、今日、自分はどうしたらいいのだろうとミリアは思った。おうちにいていいのかしら。それとも神社に行き公園に行き、そして教会へ行ったらいいのかしら。猫たちに会いたい。
暫くすると夫婦に呼ばれて、先程の穴の前に連れていかれる。そこには骸骨があった。白い骨は脆く、小さく、これは一体何だろうとミリアはそこで必死に思考を停止しようとしたが、涙が次々に溢れ出し、遂には呼吸さえ苦しくなった。
「これで、お父さんのお骨をここに、入れてあげなさい。」老人は、そう低く呟く。ミリアのか細い手が、箸を持とうとした。しかし震えるその手は、何度も骨を掴んでは取り落した。骨壺に入れることはできなかった。ミリアは泣き出した。仕方がないとばかりに老人はミリアの手から箸を取り戻すと、自分でせっせと骨を壺に入れ始めた。
父は、骨となった父は、すっかり小さな壺の中に納まり切った。ミリアはそれを抱えさせられると、再びタクシーに乗せられ、自宅に戻った。骨壺は、家のちゃぶ台の上に置かれた。
婦人が夫とミリアの前に湯呑を置き、こぽこぽという音を立てさせながら茶を注いだ。注ぎ終えると夫婦は目を何度も見合わせながら、やがて婦人が意を決したように、それでも緩やかな微笑を浮かべたまま、ゆっくり、ゆっくり、言葉を選ぶようにして言った。
「ミリアちゃん。本当に今は辛い気持ちだけで、何も考えられないとは思うのだけれど、あなたのこれからのことをお話したいと思うの。」
テーブルの上には父親の骨壺と、飲み残したパックのオレンジジュースが二つ並べて置いてあって、ミリアはそこから一切目を離せなくなった。パパはいつか自分がオレンジジュースと並べられるなんて、思ってもいなかったろう。それ以前に、自分が娘の祈りに殺されてしまうなんて、思ってもいなかったろう。いつも自分を殴る時に見せた、あの鋭い眼差しがまざまざと蘇ってくる。
「まずね、ミリアちゃんのママは、別の男の人と既に家庭を作っていて、ミリアちゃんを引き取ることができないそうなの。それでミリアちゃんのパパの方のおじいさん、おばあさんは亡くなっていて、ママの方のおじいさんとおばあさんはどこにいるのだか、わからなかったの。ミリアちゃんと暮らせる血の繋がった人が見当たらなかったのだけれど、たった一人だけ、見つけられたの。」
思わずミリアは目線を上げた。
「……だあれ?」
「それはね、ミリアちゃんの、お兄ちゃん。」
「お兄ちゃん?……」ミリアは喉の奥に張り付いたような声を発した。
「やっぱり。」老婦人は心底同情するような悲痛な表情で肯いた。「ミリアちゃんは聞いてなかったのね? ミリアちゃんのパパが、ママと結婚する前に、別の人との間に男の子を設けていたの。今、その人は二十歳ちょっとで、東京でひとり暮らししているの。ミリアちゃん、これからそのお兄ちゃんと暮らしていくのよ。」
ミリアは目を見開いたまま婦人を見つめ、固まった。老婦人は封筒を二通、ミリアの前に差し出した。
「これ、なあに?」
「これは、ミリアちゃんがお兄ちゃんの所に行くために必要なもの。お金と、行き方を書いた紙と、住所。もしわからなかったら警察署に行ってこれを見せれば、きっと案内してもらえるから。そしてこれは、お兄ちゃんに渡してもらうもの。ミリアちゃんの今までのこと、これからのこと、全部書いてある。お役所からもらってきた書類も一緒だから。」
ミリアはごくり、と生唾を呑み込んだ。ここから一人で、見も知らぬ兄という人の所に行くのだ。たった一人で……。ミリアは喉の奥がごつごつと痛み、わあと泣き出したくなった。それを必死に堪え縋るように見たそこには、小さな壺に押し込められた父がいた。ミリアの願望を叶え、一切の痛みを齎さなくなった、父親が。
「パパのお骨は、お墓がないから、後で市役所の方に持って行って埋めてもらうことにしたの。あとで、その場所も手紙で伝えるから。それにランドセルとか、教科書とか、ミリアちゃんが必要になるものは後で全部、そこの住所に送るから。」と言って、親切な夫婦はミリアに再度持って行きたいものはないか、忘れものはないか確認させると一緒に駅まで送った。ミリアは何だか昨日までの自分とは全く違ってしまったことに、不安よりも違和感を覚えていた。もうこの道をパパが死にますように、と歩かなくてよいのだと思うと、不思議で堪らなかった。濡れたように輝くアスファルトの上を、蝉の声に後押しされながら歩んだ。
公園の前を通る段になった時、突然ミリアは大切なことを思い出した。「ちょっとだけ。」そう、老夫婦に告げると公園の中へと走り出した。
「茶色ちゃん、灰色ちゃん、白ちゃん」と小声で呼びながら、いつも猫とお喋りをする砂場を目指し駆け出した。けれど、どこか木陰ででも休んでいるのか、どこかにご飯を貰いに行っているのか、誰もいない。ミリアは慌てて周囲を探したが、猫たちは一匹たりとも見つけることはできなかった。ミリアは途方に暮れて入口を見た。老夫婦が憐れむような目をしてじっと待っている。仕方なしにミリアは猫のお財布だけを秘密の場所から取り出すとポケットに入れ、渋々入口まで戻った。
「お財布、こんなところに隠していたの。」老婦人は驚きの声を上げる。
ミリアは肯いた。「……パパに、取られちゃうから。」まだ、父親のことを過去形では話せなかった。
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