第4話
翌朝、ミリアは顔を洗い、寝ている父親の脇を摺り足で極力音を立てないように歩きながら、半分も残されているマグロの缶詰と、袋の隅に残った乾いた豆菓子を手に入れた。ミリアはまたとない幸福感に浸りながら、夏休みの門出を祝った。今日から学校は休みだったが、神社と教会に朝のお祈りに行くために少々マシなTシャツに着替えて、家を出た。
セミの声がやたらに響く。ミリアは垢にまみれて黒ずんだジーンズのポケットに、ティッシュにくるんだ豆菓子が入っているのを道中何度も確認した。そして手にはマグロの缶詰を入れたビニール袋。これで猫たちと饗宴を催そうというのである。ミリアはふふ、と含み笑いを漏らしながらジリジリと温度を上げていくアスファルトの上を急いだ。
まず神社に着く。木々に囲まれたそこは、涼風が心地よい。ミリアは昨今洗ったことのないべたついた髪の毛を風にさらしながら、手を合わせた。パパが死にますように。一日でも、半日でもいいから、早く死にますように。ミリアの口をいつもの文句がついて出る。
父の死を祈り続けて早四か月、何故死んでくれないだろう。神様が聞き入れてくれないのは、何でだろう。ミリアはふとそんなことを考えた。今日は急いで学校に行かなくてもいい日だからかもしれない。ミリアはふと己を振り返った。
それは、パパは随分悪い人間に思えるけれど、私の方がもっと悪い人間だからかもしれない。まず、自分はパンを盗もうと思ったことが、ある。パンのたくさん載ったトラックを見て。それから、お菓子をくれようとした隣の老婦人が、夫に制止されるのを見て、パパと一緒に死ねばいいと思ったこともある。そして牧師さんの奥さんが自分が来たのを見て、知らんぷりをして教会の奥に引っ込んだ時、なぜだか石をぶっつけたくなった。――自分の方が、パパなんかよりももっと悪い。
そう思った日にはお祈りは弱まる。死んで、くれたらいいな、とか、死んだら、よくないかな、になってしまう。だから死がますます遅くなる。あまり考えないようにしなくては、ならない。ミリアは鳥居に向かってゆっくりゆっくり、歩き出した。
「自分のことは、何も考えるな――。」そう言い聞かせて厳しい眼差しになったミリアは、再びいそいそと戻ると、注連縄をやたらめったら振るい、よくわからぬままに(そうやっている人を見たことがあるから)柏手を打ち、頭を深々と下げた。念押しをするように、小さく「パパが死にますように。」と呟いた。
緑の木々を通してミリアを照らす陽光はここでこそ柔らかく、彼女を包み込んだが夏の盛りの日のこと、間もなくミリアの首筋には玉のような汗がいくつも浮かび、垢に塗れて黒くなったTシャツもその背がじんわりと濡れ始めた。
ミリアは目を瞑り、頭を下げたまま父の死を強く強く、イメージした。とはいえ死というものがどういうことなのかはよくわかっていなかったので、路上で乾いて死んでいるみみずを想起した。パパが早く早くこんな風になりますように。
ミリアはそのまま公園へと歩いた。小さな滑り台と砂場、タイヤと一つきりのブランコしかない、制度上仕方なしにとでもいうようなお義理一辺倒に作られた公園には無論ミリア以外に人影はない。だからこそそこはミリアと猫たちのお気に入りだった。ミリアは早速砂場の隅にしゃがみ込むと、すぐにどこからともなくサバ白の猫がしっぽを自慢げに立てて優雅にやって来た。猫はにゃあんと一つ鳴いた。それがミリアには、このように聞こえるのだった。「パパはまだ死なないの?」ミリアにはそれが嬉しかった。
「まだ死なないの。でもきっと、そろそろ。それでね、今日はね、素敵なプレゼントがあるの。」ミリアはビニール袋からまぐろ缶を取り出し、サバ白の目の前に置いた。サバ白は優雅に食べ始める。ミリアはそれを見て目を細め、自分もポケットに入れた豆菓子を一つ摘まんで、口に入れた。猫と一緒に食べるのは、格別においしかった。
ミリアは五つばかりぽりぽりと食べ終えると、公園の水をたらふく飲んだ。そうするとしばらくはお腹が減らないということを、経験的に知っていた。
ミリアは再び砂場の淵に座り込むと、右手で軽く砂を弄りながら空を見上げた。猫は既にまぐろを食べ終え、隣で毛づくろいに余念がない。ミリアは己が体で暇つぶしのできる猫を、いいな、と思った。私も体中にふわふわとした毛が生えていて、それを自慢に美しく保つために暇つぶしができればよいのに、と思った。
曇天は少々暑さを和らげてくれるものの、圧迫感と湿気を否応なしに齎してくる。ミリアは憂鬱だった。唐突にメロディーが口の端に上る。――昨日のみみずは死んだろう。干からびながら苦しんで。昨日のみみずは死んだろう。干からびながら苦しんで。――
ミリアは夕刻までそんな歌を口すさびながら、石ころを蹴ったり、珍しい草花を探したりして過ごした。
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