第7話

 駅に向かう商店街の一角で、初めて老人が「おい」と口を利いた。老人がしゃくった顎の先には、和食器屋があった。「今日突然行ったって、向こうは何の用意もあるめえ。箸と茶碗ぐれえ、買ってやれよ。」

 老婦人はにこりと笑って、「そうね。」と答え、店の中へと入った。ミリアは少なからず困惑した。かつて父に何かを買いに連れて行ってもらった、ということはなかったから。服はおさがりだったし、下着やら何やらは実際、この老婦人が買ってくれたのだろう。時折父親が苦い顔をして婦人から袋を受け取っていたのを、ミリアは何度か見たことがあった。父親はこの夫婦にはその類稀なる演技力を発揮しなかったから。それだけ甘えていたということもあるのかもしれないし、生活が露呈し過ぎていて今更演技をする気にもなれなかったのかもしれない。

 老婦人はピンク色の、太った猫が描かれた茶碗と、それとお揃いの箸を買ってくれた。それからついでと言って隣の服屋に寄り、下着数枚を買ってミリアの手提げ袋に入れてくれた。

 ミリアは再び涙ぐみたくなってくる。惜別のためか、物を買ってもらうことに対する罪悪感か、それとも父の死が悲しいのかはよくわからない。「ありがとう」を言い出せぬまま、気付けば駅前に到着していた。

 「あそこよ、一番線。」改札口から婦人は奥を指差す。「気を付けて行くのよ。この通りに行けば、二時間で着くから。ミリアちゃんの荷物は必ず送るし、パパのお骨をお墓に入れられたら、連絡、入れるから。」

 ミリアは肯いた。

 本当にこれが最後、と、婦人は切符を買って、ミリアに手渡した。婦人の瞳は潤んでいた。ミリアはそれを努めて見ないようにして、切符を入れ改札を通った。振り向くと婦人はやはり泣いていた。

 「ミリアちゃん。元気でね。お兄さんに優しくしてもらうのよ。」

 「ありがとう。」ミリアはようやくそれを口にすると、ぐしゃ、と潰れるように泣き出した。わあ、わあ、という声を呑み込むためにもう一度「ありがとう。」と言った。そしてくるりと身を翻すと、冷静に切符を挿入口に入れ、努めて振り返らぬようにし、急いでエスカレーターを降りてホームに立った。

 おじちゃん、おばちゃんはもう帰ったろうか、それともミリアの電車が出るまで、そこにいてくれるのだろうか。ミリアは自分を思ってくれる人のことを思わないでは進んでいけなかった。今、世の中には自分のことを考えてくれる人は彼等二人しかいない、という格別の孤独感がミリアの胸をきつく締め上げた。泣かぬように、慌てて首を振った。

 ふと周囲を見遣ると、夏休みのせいか、自分と年の変わらぬ子供が二、三人目に入った。しかし彼らは大人と一緒だった。お酒浸りのパパでもよいから傍に居てくれたらいいのに、と思った瞬間、死ぬように祈ったのは自分だということに気付き、ミリアははっとなった。もうこれ以上、何も考えないようにした。

 電光掲示板を見上げる。11時29分の電車。これを待つ。じっと、待つ。暫くすると、物凄い風圧と共に電車が滑り込んできた。黄色い線の内側でお待ちください。降りる方を優先してください。色々と注文が付けられる。ミリアはひとつひとつ注意深く聞いて、理解に努めた。

 電車の扉が開く。席は空いていた。ミリアは車両の一番端の座席に座ると、今朝方貰った行き方の紙を手元に広げ、何度も読み直した。三回、別の電車への乗り換えが必要だった。ミリアは駅に止まるたびに、ホームに降りて何度も駅名を確認した。途中で泣いたら視界が滲んで駅名が見えなくなると思ったから、目をぱっちりと見開いて、泣くな、泣くな、とそればかり自身に強く言い聞かせた。乗り換えなければならない駅で降りると、まず駅員を探し、どこへ行ったらよいのか尋ねた。そのお蔭で間違えることなく、目的の駅に着いた。切符が吸い込まれて、最後ありがとうございました、と表示が出る。

 ミリアは厳しい面立ちで、改札を出た。そこは地元の駅とよく似ていた。緩やかな坂道の商店街に、小さな公園も見える。ミリアは地図をちらとだけ見ながら、あとは電車の中で暗記した地図の記憶を頼りに歩き出した。

 不審がられないように、お母さんはどこ、なんて言われないように、できるだけよそ見をせずに早く歩く。地図にはこうあった。お肉屋さんまでまっすぐで、そこを左に曲がって、大きな道を渡ると(横断歩道を二回)、すぐ左にあるアパート。名前は力荘。ちからそう。強そうな名前だ。

 お肉屋お肉屋、ミリアはほとんど小走りに進むと五分もせずにお肉屋に辿り着いた。目印にされていることにも気付かずに、おかみさんらしい人が笑顔で接客をしていた。ここをお兄ちゃんも通るのだろうか。ミリアはまだ見ぬ兄を思った。一体どんな人なのだろう。ちからそう、に住むぐらいなら強そうな人なのかしら。その人に最初、なんて言ったらよいのだろうか、とふと思い至って、初めてミリアの足が止まった。挨拶をして、自己紹介かしら。それに、パパのことは知っているのだろうか。死んでしまったことを、知っているのだろうか。妹がいることは知っているのだろうか。お前なんて知らない、帰れ、と言われたらどこに帰ればいいのだろう。

 ミリアは不安を掻き消すように、今度は小走りに進んだ。渡って、すぐに左。そこにあるのは、二階建てのこぢんまりとしたアパートだった。入口の所には力荘、と書いてある。ミリアの胸は震えた。目的地は、ここの、203号室。生唾を呑み込むと、脇の階段を音を立てないように一段一段上がった。

 203号室はすぐに見つかった。扉のすぐ脇には古びたインターホンもあった。ミリアはそれを見詰めながら、肩で息を繰り返した。

 「こんにちは。妹のミリアです。」「パパは死にました。」「おばちゃんに言われてきました。」「一緒に暮らしてください。」

 一応頭の中で反芻はしてみたが、何をどう言ったらよいのか、皆目わからなかった。

 でも、もう、戻ることは、できない――。猫のお財布に入ったお金ではきっと切符代には足りないし、しかもそんなことをしたらおばちゃんに迷惑がかかる。悲しむだろう。ミリアは意を決してインターホンの上にそっと人差し指を置いた。「こんにちは。」きっと最初はこう言えばいい。学校に来たお客さんには、「こんにちは。」を言いなさいと先生は言っていた。ミリアは一つ大きく肯き、深呼吸を五十回も繰り返してから、ふと思い付いた。確かこの間人の家のピンポンを押したのは、パパが倒れたあの日のことだったと。喉の奥が痛み始め、再び涙が出そうになった。それを振り払って、押した。


 綺麗な音で、インターホンは鳴った。音は響いて、二回も繰り返された。ミリアは息を止めて、待った。

 しかし誰も、出てはこなかった。留守、をしているのかもしれない。ミリアはそう思ってドアの前で待つことにした。酷く疲弊していたし、安易に街をうろついて人に見られたくなかった。

 ミリアはドアに背を向けて凭れかかり、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。そこはひんやりと冷たく、心地が良かった。それはミリアにとって久方ぶりの安堵を齎した。

 引き摺り込まれるように、ミリアは眠りに落ちていく。


 「俺が死んだと思ったか。」

 父は全てを知っているといったような皮肉な笑みを唇に浮かべながら、玄関からよたよたと入って来た。逆光が眩しく、なぜだか歪んだ口元しか見えない。

 「俺が死ぬわけないだろう。」

 手には一升瓶。呂律の回っていない口調。酒臭い息。ミリアはがくがくと震えた。「……生きてて、良かったね。」そう言ってはみたものの、父はミリアの祈りによって殺されかかったことを、知っている。ミリアは殴られる前に部屋に戻ろうとする。今度ばかりは目が開かない、口が利けないという程度の怪我では済まされない気がした。殺されるかもしれない。ミリアは後ずさる。その時、父はミリアの肩をがっと掴んだ。

 ミリアは甲高い叫び声を挙げた。


 「おい、どうした。」

 父は更に肩を激しく揺さぶる。

 ミリアは更に悲鳴を上げて、逃げ出そうと立ち上がり、その時頭を甚くドアノブにぶつけて再度倒れるように座り込んだ。「ごめんなさい、ごめんなさい。」ミリアは頭を抱え込んだまま、そう叫んだ。「ミリアが殺したんじゃないの。ミリアじゃないの。」

 「おい、しっかりしろ。」そう言って自分の顔を覗き込むようにした人をよく見れば、父、では無かった。

 ミリアはその顔をじっと見つめた。赤い髪をライオンのように長く伸ばして、腰を屈めて心配そうに自分の顔を見詰めるその人は、やはり目とその表情の作り方が父にそっくりだった。嗚呼、そうだ、昔高熱を出した時にパパはこんな顔をしていた。あの時だけ、パパは優しかった。殴られた時、ご飯をもらえない時、ミリアはきまってそのことを思い出した。あれがパパの本当の姿なのだ、そう思い込むことで自分が憎まれていることを、忘れようとした。死を願いながら、本当は優しかった父の姿を忘れることは、実際できやしなかった。ミリアは暫しその顔に見惚れた。

 「こんにちは。」ミリアは空腹の猫が苦し気に鳴くような声で言った。

 「……こんにちは。」赤髪の男は幾度も瞬きを繰り返しながらそれに応える。この痩せこけた、汚いなりをした子供は何なのだろう。帰るべき家を間違えてしまったのだろうか。それとも、もしかすると――自分の子供であろうか。まさか、いつ、どこで。赤髪の男は目を丸くしてミリアを凝視した。

 はっと思い至ったようにミリアはバックから手紙を取り出し、震える手でそれを兄に渡した。兄はそれを受け取ると、その場で封をびり、と破いて中身を読み出した。ミリアはもう一度兄、の顔を凝視した。父と似ている部分と、それから違っている部分とを検分した。彫りの深さ、鼻筋が真っ直ぐに伸びている所、大きいけれど色が薄く引き締まった唇は父のそれとほとんど同一だった。しかし何よりも髪型が、全く違っていた。燃え立つような真っ赤で、腰まであるのだ。ライオンの真似でもしているのだろうか。ミリアは口をぽかんと開けて見詰めた。

 暫くすると、「……あのクズ親、死んだのか。」と、兄は手紙から視線を外し空の一点を見詰め、そう茫然と呟いた。返事をしなくてもよい類の、自己完結した問いかけだった。

 ミリアはほっとする。この人が兄だという確信を得られたことに。

 兄、は、暫く手紙を目で何度も追い、最後に溜息と共に一つ肯くとミリアの目を真正面から見詰めた。困惑に同情、悲嘆、その全てが込められた瞳だった。兄は中腰になるとミリアの手を取ってぐいと立たせ、「軽いな。どうせ、あのバカに碌に食わせて貰えなかったんだろ。」兄は、腰にぶら下げた鎖から鍵を取り出し、扉を開けた。

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