第22話
家に帰るとリョウは留守だった。確か今日の日中はレッスンだったと言っていた気がした。ミリアは一緒に落ち込みたかったのに、と寂寥を覚える。そして、ふと自分のギターの上達が足りないせいかしら、とミリアは見当違いなことを思い立ち、夕食を作るのは辞めにしてギターの練習を始めた。するとそこにリョウが帰ってきて、リビングに入るなりミリアを茫然と眺めた。
「……お帰りなさい。」
リョウはミリアを見詰めながら、そのまま瞬き一つせずに固まっている。
「……どうしたの? 昨日から、どうしたの? ミリアにどうして教えてくれないの?」
ミリアは今にも泣きそうな顔でリョウの両腕を握り、激しく揺さ振った。リョウははっと我に返ると、ミリアの両肩をぐいと握り締めた。
「お前、ギター弾いて。」
「うん。」ミリアは満面の笑みでコードをじゃらーんと鳴らし、リョウのアルバム一枚目の中盤にある、メインの曲のイントロにあるアルペジオを奏で始めた。
「違う違う。そうじゃなくって。」
ミリアは首を傾げ、そうだったと勝手に納得し、最新アルバムの一曲目の高速リフを刻み始めた。
「いや、そうでもなくって。」
ミリアは口をひょっとこのように突き出した。「どの、曲?」
「曲じゃない。……俺のバンドで、弾いて。」
ミリアは、今度は反対側に首を傾げた。ふざけているのかな、と思った。しかし目の前にあるリョウの表情は真剣そのものである。
「ライブがあるんだよ。ツアー追加っていう位置づけで、もう半月後なの。だけど、ギターの奴がバイクで事故って右腕折れたの。おまけに靭帯もどうのこうので、全治三ヶ月。どうすんだよ、何でバイクなんて乗ってんだよ。タイヤ前後に二本しかねえじゃねえか。普通に考えて立ってるのがおかしい構造だろ。しかも、何でよりによって、トラックに突っ込むんだよ。突っ込みてえなら、別の所に突っ込めよ……クッション材とか、色々あるじゃねえかよなあ!」リョウはそこまで言って頭を掻き毟った。「これでライブキャンセルなんてしてみろ。この業界じゃ一秒で居場所がなくなる。で、ギタリストに片っ端から声掛けてみたが、特にこの時期、クリスマスに年末ってよお、無理なんだよ。」
それで昨日からリョウは落ち込んでいたのかと、ミリアは安堵した。しかしすぐさま胸中に暗雲が広がる。
「ミリア、リョウと、お客さんの前で、弾くの?」
「そう。」続けて何か言おうとして、そのままリョウは言葉を飲み込んだ。確かに逡巡があった。そして漸く重い口を開いた。「人前の人っていうのは、実は、ちょっとミリアの身の回りにはいない人たちだ。……ライブのDVD観たろ? ステージに上がってそこから飛び降りる奴が大勢いるし、客席じゃあ左右に分かれて中心でぶつかり合いもする。円を描いてぐるぐる回り始める曲もある。お前がステージに出て行ったら、おそらく……」肩から手がずるずると下がっていった。
「……やっぱ、まずいよなあ。俺とそっくりなギター弾くし、巧いアイディアだと思ったんだがよお、小学生の女の子は、流石に、あり得ねえよなあ。絶対、あり得ねえ。俺がイカレてた。キャンセルしてチケット代払い戻しして、次、奴が復帰して三か月後ぐれえにちゃんとライブやれば、干されるこたあ……。」
「弾く。」
リョウが、頭痛催したような顔を上げた。
「ミリア、弾く。」
リョウは顔を歪めたままゆっくりと背を伸ばし、ミリアを見下ろした。それはいつになく冷たい眼差しであったけれど、ミリアは耐えた。まっすぐにリョウを見据えた。
「弾けるのか?」
その日はいつものギターの練習とは一線を画した。ヘッドバンキングしながら弾く方法、脚を前方足元にあるというアンプに乗せて弾く方法、真ん中に出向いて堂々とソロを弾く方法。その為の心掛け。そういったことをリョウはミリアに一つ一つ教え込んだ。客とやり合うには自信を持つことが必須要件。僅かにでも引いたり、ましてや弱さ、諦めを感じさせたりしては絶対にいけない。かつて得た全ての負の感情を暴発させろ。ミリアは懸命に頭を働かせ、心と手とを直結させ、自分が得てきた種々の苦悩をプレイに表そうと試行錯誤した。しかしそちらばかりに専念すれば、技巧がおざなりになる。リョウはその一つ一つを見逃さず、逐一声荒げながらの注意を欠かさなかった。
日はとうに代わっていた。リョウの指示で、一曲一曲ミリアは奏でていく。それを厳しく見つめるリョウの眼差しは、庇護すべきミリアを見るいつものそれとは懸隔していた。
リョウは何度も「違う。」「そうじゃない。」と連呼し、ミリアにとって無限にも感じられる程のやり直しを命じ続けた。
ミリアはしかし泣き言一つ言わなかった。指が次第に麻痺していく。弦を抑える左手の感覚が失せていく。意識までもが朦朧としていく。曲の中に自分の存在が埋もれ、拡散していく。自分が絶望の一部となり、血濡れた帝国の一員となり、慟哭の一声となった。
外から雀の鳴き声が聞こえ出す頃リョウは指示を止め、おもむろに電話を掛け始めた。ミリアは茫然とその様を眺めながら、この黎明に誰が電話に出るのだろう、と思ったが、間もなくそれは杞憂に終わった。
リョウは電話に語り始める。「ギタリストが見つかった。明日の練習に連れて行く。……あ? お前の知ってる奴じゃねえよ。あ? あいつが、この時期捕まる筈がねえだろが。クリスマスライブに年越しライブに、その他イベントてんこ盛りだろが。あ? 特徴? 俺に似たプレイ。ってか音ほぼ一緒。ハモリとか、ほぼ俺一人でやってるレベル。そこは、マジで。」
リョウは何度か電話越しに肯くと、「昼まで、寝てな。」とミリアをソファに横たわらせ、毛布を掛けてやった。その時リョウはいつものリョウに戻っていた。ミリアはその様を見て安堵し、そのまま引きずり込まれるように眠りに落ちて行った。
カレーの匂いでミリアは目を覚ました。気付けば既に昼過ぎで、寝ぼけ眼のミリアの前には湯気を立てたチキンカレーがよそられていた。
「眠れたか。」そう尋ねるリョウの声はいつもの優しい声だった。
「うん。」ミリアは嬉しくソファに座っているリョウにすり寄った。
「お前の好きな、カレー。食べな。卵もついてるよ。」
ミリアは皿を見ると、そこには薄くスライスされたゆで卵が花のような形に乗せられていた。
「お花。」ミリアはうっとりと眺め、リョウは頭を撫でてやる。ミリアは手渡されたスプーンで、カレーをすっかりと食べ終えると、リョウにバンドのTシャツに、先だって古着屋で購入してきたばかりのジーンズを手渡され、着替えた。ミリアは気合十分に本日の練習を始める。リョウは今度は何も言わず、自分の練習に励んでいた。
そうして遂にリハが迫ってきた。ミリアはリョウのバイクの後ろに跨って駅前のスタジオへと向かった。ビルの三階にある一室にカランカランと、鈴の音を鳴らしながら入ると、そこは薄暗く、髪の長い中年男性が一人、怒号の響き渡る音楽の流れるTVを受付で頬杖を突きながら眺めていた。
「どうもー。あれ? みんなまだっすかね?」リョウはそう言って辺りを見回す。
男性は頬杖をずるり、と崩し、ミリアを凝視した。
「だ、誰? ……否、どちら様でしょうか、そちらのお嬢さんは。」恐々と掌をミリアに向ける。
「ああ、これ? 俺の妹。兼、新しいギタリスト。あ、もうAスタ入ってんな。」
リョウは奥の部屋を覗き、そう言うと、ミリアの手を引き奥の部屋へと入った。
「お疲れー。」
リョウが扉を開け、そう明るい声を発すると、しゃがんでエフェクターの摘みをいじっていた、長い黒髪の男がミリアを見上げ、化け物でも見たように尻餅ついて仰け反った。
「お前、お前、お前!」口から唾を吐き出しながら、連呼する。「何女の子誘拐してきてんだよ!」
ドラムセットの奥にいた上半身裸の、茶髪を背中まで伸ばした男も、目を真ん丸にしてミリアを指さし、怒鳴った。「おま、お前! ダイキがダメんなったからって、やっていいことと悪いことがあるだろうが、馬鹿野郎! 自首しろ、自首!」
リョウは二人に向き合い、努めてゆっくり言った。
「誘拐じゃねえ。だから自首もしねえ。こいつが、新しいギタリストだ。」
ミリアはちらと後ろを振り向き、背負ったFlyingVを二人に見せつけた。
「ミリア、こっちのベース弾いてんのがシュンな。で、あっちのドラム叩く人がアキ。」
二人は目と口とを大きく見開いたまま、ひたすらリョウとミリアとを交互に視線を這わせた。
「あ、ちなみに妹な。ええと、異母兄妹、ってやつか。うちはちっとばかり、事情が複雑なんだ。」
ドラマーがスティックをおそるおそる持ち上げて、ミリアを指した。
「……お前、この子がギター弾けんのか? 確かに両手に五本ずつ指生えてりゃあギターは弾けるだろうが……、そういうレベルじゃねえだろ? 俺らの要求してんのは。ツアーの追加だぞ? チケット、二百のハコでソールドアウトだぞ?」
リョウはつまらなさそうに目を細める。
「お前、頭イカレちまったのかあ。可哀想によお。ダイキのことで、そこまで追い詰めてたとはあ……。」ベーシストがリョウに寄り添って肩を叩いた。
「るせえなあ。ま、しょうがねえだろ。他にいねえんだからよ。」リョウはさばさばと半ば面倒臭いように言うと、シールドをアンプとエフェクターに繋ぎ、次いでミリアのギターをセッティングした。
黒髪の男はベースを投げ出したままへたり込み、ドラムの男も唖然としたままイスに座り込んでいる。セッティングを済ませたリョウは、バッグから次回のライブのセットリストの書かれた紙を三人に渡した。「じゃあ、始めるか。順番はこれな。おい、シュン立てよ。アキ、最初カウント二つで。」と何事も無かったかのように漂然と言った。
満身から力が抜け切ったような酷い落胆の様を見せつけながら、シュンは朦朧と立ち上がり、アキも頭を二度、三度と振って、瀕死の病人が全てを振り出さんばかりの体で上体を起こすと、弱々しくスティックを掲げカウントを取った。
同時にやけくそめいた激しいドラミングが始まった。ミリアは飄々と四小節を数えてリフを弾いた。すぐ右側にいるリョウと全く同じく、僅かなズレもないまま全て同時に、弾いた。途中リョウだけが五度上がって、再び戻る。
ちらと左を見遣ると、シュンは顔を引き攣らせたままミリアを凝視していた。やがて最初のソロが来る。メロディーラインさえ押さえれば速弾きは、音を飛ばしても大丈夫。リョウはミリアに事前にそう言っていた。ミリアはそれを胸に、父の死を希求し続けたあの日々を胸中に残酷な程まざまざと思い起こしながら、そこで芽生えた感情をできるだけ忠実に音に込めた。それは時折叫び出したい程の息苦しさを覚えたが、如何にくるしくても、つらくても、死ぬのではあるまいしと思い、ひたすらそれだけに固執した。胸中の奥底深くで、過去の地獄の日々が音楽として昇華され、決して自分の人生において無駄では無かったと確信することが、ミリアに確かな喜びを齎した。
リョウは心得顔に肯くと、最後重ねて自分のソロを弾いた。ミリアはバッキングでそれを際立たせる。リョウの苦悩を、リョウの絶望を、世界に隈なく届け切るのだという思いで。そしてそれはやがて勝利の確信を伴いながら終息へと向かう。ミリアは心地よい疲弊を覚えながら、最後の音を弾いた。
曲が終わると、リョウは即座に戦車のようなリフを轟かす次の曲を始めた。シュンとアキははっと我に返りながら、セットリストを確認し、ワンテンポの遅れを生じさせたものの、すぐに次の曲に入った。リョウはそうだ、と言わんばかりに二人に肯くと、リフの終了と共に華麗でヒロイックなソロを奏でた。
そのまま三曲を続け、最初のMCの所まで到達し、一旦音が止んだ。
シュンが汗を拭いながら、荒々しく真っ先に口を開いた。「この子、……お前と同じプレイ、……手癖、チョーキング……。」
アキもその場に立ち上がって興奮気味に言った。「これ、観客絶対ビビるぜ。だってこんな女の子が、完璧にお前と同じギター弾いてくるなんてよお!」
リョウは豪快に笑った。「あっはははは! びびったか! 俺の妹だぜ!」
「……でもよお。」アキが躊躇いがちにミリアをちらと見遣る。「この見たくれじゃ、ステージ乗った瞬間、どうなるか……。」
「ああ。」とリョウとシュンは首肯とも溜息とも付かぬ声を同時に洩らす。ミリアはきょとんと二人を見詰めた。
「……わかった。俺が。」シュンはミリアの前に立ちはだかると、そこにベース用の大きなアンプを移動させた。「こうすればいいんじゃね? とりあえず音を出すまではできるだけ、隠しとく。音さえ出しゃあ、わかってくれるはずなんだよ。絶対。」
「無理だろー。アンプはビックリボックスじゃねえんだからよ。」アキがそう言ってスネアに上半身を倒れ込ませた。
「でも多分、最初っからステージ上がってきてぶん殴って来るとかはねえだろ。いっくら俺らの客でもよお。……だから、一刻も早く曲を初めちまおう。お客が怒ってこいつに何かしてやろうと思う前に、音を出して納得させれば、何とか……。」リョウの提案に二人は渋々、といったように肯いた。
「でよお、こいつでいいのな?」リョウは改めて二人に向き合った。ミリアは思わず背筋を伸ばす。
「ああ。ああ。文句ねえ。」アキがそう言って精悍な感じの笑みを浮かべる。「これで文句言ったら、お前の音に文句言ってるのと同じことになる。ってぐれえ、お前と同じ音だ。」
「アンジェラ・ゴッソウがARCH ENEMYに加入したインパクトを遥かに凌げるな。」シュンもそう続けて深々と肯く。
リョウは大声を上げて笑い出し、ミリアの肩を幾度も叩いた。
「じゃあ、続きやるか。アキ、一回目のMCの後から。」
アキは今度は高々とスティックを掲げ、勢いよくカウントを打った。
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