第23話

 帰り道にご褒美だと言って、リョウはコンビニに立ち寄り、「何でも好きなもの買ってやる。」と言った。ミリアは暫く悩んだ挙句、レジのケースに陳列されたあんまんを選んだ。昔からコンビニを外から眺め見ては、憧れを抱いていたのだ。温かそうで甘そうで、ふっくらとしていて……。それは今の幸福感を如実に体現していた。ミリアは上機嫌で、温かいというよりもほとんど熱いあんまんを抱え、バイクの後ろに跨ると、リョウの背中にぴったりと頬を押し付けた。バイクが走り出し、風が吹き付けるので目を瞑りながら、今日はリョウが喜んでくれて、良かった。ギターの練習を続けてきて、良かった。と、そう心から思って幸せだった。

 観客が何やら恐ろしいという話だったけれど、ミリアはリョウやシュンやアキが心配する程に恐怖してはいなかった。その理由は、ステージに立ったことがないからというよりは、酒を喰らって前後不覚になった父親よりは人間的であろうという確信があったからだった。金を払って音楽を聴きに来ているのだ。それはとても人間的な行為に思えた。


 家に着くと、リョウはスタジオに向かう前に作っておいたおでんを温め直してテーブルに出した。CDはご機嫌な時に決まって掛ける、METALLICAだ。ずっとこうしていたいな、とミリアは唐突に思った。

 皿に取った卵を割ると、中身はほんのりと茶色く味が染みていた。ミリアは半分に割った片方をリョウの皿に入れた。

 卵を咀嚼しながら、アンプから流れる「Master! Master!」との叫びに、うっとりとリョウは目を閉じている。「これ、マジで最高だよな。俺がガキだった頃、あのクズにぶん殴られていた頃の俺の叫びそのものだ。主よ、助けてくれってな。」

 ミリアはふと不思議に思った。機嫌の良い時に過去の苦難に満ちた出来事を容易に思い出すというのは、ミリアには到底出来る事では無い。リョウとの日常生活を営む上で、最早父親を思い出すことはほとんど無くなっていた。それはおそらく、意図的に始められたものであったが、そのことさえもミリアの中からは忘却されつつあった。

 しかしリョウは今のように好きな曲を聴く時も、更にはギターを奏でる時も、父親のことを容易に思い出している。大勢の観客を前に突き上げる歓喜に包まれながら、胸中の真ん中に父親への憤怒を、まざまざと思い起こしているというのだ。それはミリアにも要求された。隣にはリョウがいるというのに。そうして同じ場所で同じギターを奏でられているというのに。どうしてあえて封印した地獄の日々を呼び起こす必要があるのか。

 「どうして。」ミリアは言い掛けたものの、自分の思いを伝え得る言葉が見つからずに、口籠った。

 リョウはこんにゃくで頬を膨らましながら、にこにことミリアの次の言葉を待つ。

 「どうしてって、なあにが?」

 「……どうして、パパのこといつまでも言うの? いなかったふり、しちゃだめなの?」

 リョウは驚いたようにミリアを見詰めた。

 「いなかった、ふり?」

 ミリアはやはり伝わらなかったかと、もどかしそうに口をぎゅっと噤んだ。

 「……過去は変えられねえんだよ。」リョウはミリアの頭を撫でながらそう優しく言った。「なかったことになんて、できねえ。だから、どっかにその経験を生かしてやらねえと、昔の俺らが可哀想だろ?」

 ミリアは不満げに唇を尖らせる。やはりそれよりも、忘れて無にしてしまった方が楽だと思った。

 「しかもな、実は俺らはかなり希少な存在だ。どうだ? お前の友達で、親から食い物貰えねえ、家にもいられねえ、顔合わせりゃあぶん殴られるって生活してたやつ、いるか?」

 ミリアは首を傾げる。

 「な? だからそこで得た、貴重な負の感情を生かしてやるんだよ。俺が初めてデスメタルを聴いた時、これに出会うがための人生だったと確信したね。涙が出た程感謝して、思わず親父にも頭を垂れたくなった。」

 ミリアは信じられないとばかりに、リョウを睨んだ。

 「そんな顔すんなよー。」リョウがミリアの頬を右手の親指と人差し指でぷにぷにと押す。「お、お前ほっぺ出来てきたな。」

 「ほっぺ、元々ある。」口を尖らせられながら言う。

 「違ぇよ。お前最初うちに来た時、顎尖ってたんだよ。がりがりでさあ。そん時は可哀想で言えなかったけど、最近、ほら、ちゃんとほっぺが出来てきた。」

 ミリアは変な顔にさせられた悔しさと、話題を代えられた悔しさにリョウを睨め上げる。

 「お前も自分の経験をなかったことにするよりも、生かす方向で持っていった方がいい。デスメタル弾く時は特にな! しかもお前にはギターの才能がある。知ってるか? 才能あるっていうのは、すぐに弾けるようになるってことじゃあねえ。練習してもしてもしても、し飽きねえってことなんだ。お前にギター持たせた初日に、俺はお前に才能があるってことを確信した。お前には図抜けた才能が、備わっている。」

 ミリアは照れ笑いを浮かべた。リョウはミリアの頬から手を離した。

 「明日は学校行って、帰って来てから練習しよう。あとはライブの前々日と、前日にリハ入って本番だから。あ、そうだ。」

 と言って、リョウはおでんのはんぺんを急いで口に放り込み、立ち上がった。

 「お前のさあ、ライブで着る服、考えたんだけど、やっぱ俺らのバンドTシャツしかねえじゃん。でもお前のサイズだとSでもめちゃくちゃでけえし、どうすっかと思ってたら、俺らがいつも発注している業者が、俺らのバンドTシャツのSより小せえの、作ってくれたんだよ。なんつったかなあ、130サイズ? とにかく、お前の身長だとこのぐらいがちょうどいいんだって。」

 もごもごと言いながら、リョウは隣の部屋に行ってビニール袋に入った黒いTシャツを持ってきた。

 「これこれ。」

 ミリアは受け取ってビニール袋を破り、試しに体に合わせてみた。

 「おお、ジャストサイズ! いいじゃん。これでとりあえず、客の怒りは……多分半減ぐらいになるな。」

 ミリアは得意気に肯いた。リョウとお揃いなのが嬉しかった。口から唾液を吐き出しながら四方八方に噛み付かんとする狂犬のTシャツを抱きながら、ミリアはその夜、幸福な眠りに就いた。


 二度のライブ直前のリハを熟すと、シュンやアキもミリアを一メンバーとして接し、あれこれ音の注文も付けたし、もうスタジオの社長(受付をしていた長髪の中年男性は社長であった。ミリアは社長と言えば、スーツを着込んで腹の出た人間だとばかり思っていたから、それを知って大層驚いた。)はミリアを不審げに眺めたりすることもせず、むしろ「調子はどう?」なんて笑顔で聞いてきたりもした。ミリアはそのような周囲の変化はともかくとして、リョウと共に出かけられるのが何よりも嬉しかったし誇らしかった。正式ギタリストの怪我が治らなければいいのに、などと不謹慎なことを思わず無意識に祈り掛け、慌てて取り消したりもした。

 そして遂にライブ当日になった。

 リョウはいつも通りで、ミリアばかりがその前夜なかなか眠れもせず、当日の朝も食欲がなく、リョウが朝淹れたお茶ばかりを飲み、気付けば溜息ばかり吐いていた。

 「大丈夫だよ。」

 今日の天気のような晴れ晴れとした笑みを浮かべ、リョウは朝日に向かって伸びなんぞをしてみせる。

 「とにかく、強気で行きゃあ文句は出ねえ。お前が世界一、否、宇宙一強ぇんだ。そう、信じろ。お前が絶望と地獄と悪夢を生き延びてきたことを、目の前に浮かび上がるぐれえに思い起こして、怒れ。狂え。喚け。叫べ。」

 ミリアは最後の溜息を吐くと、力強く肯いた。そうするしかないのであれば、そうするべきだ。リョウにはいつだって間違いは無いのだから。

 ミリアは高鳴る鼓動を持て余しながら、とにかく何か行動を起こそうとギターをさっさとケースに仕舞い込み、セットリストの紙を四つ折りにして尻のポケットに捻じ込むと、出発の時をソファで膝を抱えながら待った。

 「何だよ、そりゃあ。普通にしてろよ、普通に。」

 「だって……。」

 「んー、しょうがねえなあ。……わかった。じゃあ、こいつら連れてけ。」リョウはそう言って、パソコンの脇に並べておいた白猫一家の人形をミリアに手渡した。「猫ちゃんがいれば、ちっとは強気になれるだろう? お前、どうすんだ? 将来猫飼った時、どんなことがあろうが猫野郎のこと、体張ってでも守ってやんなきゃいけねえだろう?」

 ミリアは目を見開き、それから力強く肯いた。

 「客は大暴れする、敵だ。俺がアンプの上んとこにこいつら並べてやるから、こいつらに指一本触れさせねえって気概で、客とやりあえ。大事な猫ちゃん、知らねえ奴に触れられたくねえだろ?」

 ミリアは大切そうに、白猫のお父さん、お母さん、男の子、女の子を順番に撫でる。公園にいたあの子たちに飯のある生活も与えられず、最後に会えもしなかったのは、ひとえに自分が非力だったからだ。それでどれほどに切ない思いをしたことだろう。もう二度と、ああいう思いをしたくは、ない。

 ミリアは眼光鋭く、今度は大きく肯いた。

 「そうだそうだ。あと一時間で出るから、……そうだな。ラジオ体操でもしてな。」

 ミリアは素直に立ちあがって両腕を伸ばした。リョウは思わず噴き出した。

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