第20話
秋口に入り、遂にCDをリリースすると、リョウは寝るためだけに帰って来るような状況になった。方々のCDショップに挨拶に行ったり、雑誌やラジオのインタビューを受けたりを毎日のように行っていたが、更にこの冬は全国の主要都市をめぐるツアーで、一か月も帰らないと告げられた時にはミリアは流石に驚いた。
「毎晩電話もするし、ちゃんと生活費は置いていく。それに、週に一度ぐれえは帰れそうだ。……でも、心配だよなあ、どうすりゃいいんだよ、俺は。」リョウはそう言ってソファに背を凭れさせながら、頭を激しく掻き毟った。「……ミリアも一緒にツアー、行くか? でも車中泊とかもあっからなあ。お前を屈強なお兄さんたちと一緒にクソ狭い車に寝せるなんて、できねえし。それに学校がよお、……俺はお前を馬鹿にしたくねえんだよ。馬鹿は辛ぇからなあ。」
「……大丈夫。」ミリアはリョウの頭を撫でながら、そう決意を込めて言った。一方、リョウに一か月も会えないということに落胆とも寂寥とも付かない、ずっしりとした心の重みを感じた。
三十回も一人で朝食を食べ、三十回も一人でギターを練習し、三十回も一人で夕食を食べ、三十回も一人で眠る。そんなことを考える内に、次第にミリアの顔は血色を喪っていった。
「……やっぱ、小学生を一か月置いてきぼりは、まずいよなあ。デスメタルバンドのツアーに連れていくのとでは、どっちがまずいんだろう。」
リョウはそう言って眉根を寄せながら、呆然と天井を見上げた。
「……でも、ミリア、おうちで、勉強もギターもしなくっちゃ。」きっとリョウはそれを願っているのだ。ミリアはだから震える声で言った。
「こんな時、天涯孤独は辛いよなあ……。」
リョウは頭を抱えたままソファの下にうつ伏せに寝そべった。そして、うう、だの、ああ、だの呻き声を上げ始める。俺にシッターを雇える金があれば、とか、ホテル住まいさせてやる金があれば、とか、更には俺は能無しだ、貧乏暇なしだとか、ミリアにとっても辛い言葉が吐き出されるようになり、ミリアは留守番よりもそれを見ている方が辛いということにふと気付かされた。
「リョウ。」ミリアは自らも床に寝そべってリョウの鼻に自分の鼻先をほとんどくっ付けるようにして、顔を見合わせた。「ミリア、もっと小さい頃、ご飯もないままずっと一人ぼっちだったよ。」
リョウはじっとミリアの顔を見詰める。
「だから、大丈夫。困ったことあったら美桜ちゃんのママに、お願いする。美桜ちゃんのママ、優しいもん。」
リョウはミリアを抱き締めた。
「ありがとう。デスメタル辞められなくて、ごめんな。妹がミリアで本当によかった。美桜ちゃんのママに、俺も明日お願いに行くから。」
リョウはその翌日ミリアが帰宅するや否や、スーツを着込み、髪の毛も以前校長に面会を求めた時のように、一つに縛り黒くスプレーで染め、ミリアを連れ美桜の家を訪ねた。すでに何度か挨拶だの礼だのには来ているが、今度ばかりはその要件の重みが違う。リョウはネクタイを直すと、インターホンを押し美桜の母親に面会を求めた。
美桜の母親はいつものように二人を笑顔で迎え入れ、客間のソファに座らせると、レモンの輪切りの見えるシフォンケーキにミリアには紅茶、リョウにはコーヒーを出してくれた。
「……大変ですこと。一か月間も家を空けるだなんて、お仕事とは言え、さぞかしミリアちゃんのことが心配でしょうに……。」美桜の母親は自ら泣き出さんばかりに、そう言った。
「ええ。でもこれでも随分しっかりしてきましたから、ご迷惑をおかけするような事態にはならないと思うのですが、もし、万が一、何かが、あった時には、ミリアを助けてやってくれませんか。」深々とリョウは頭を下げた。「この通り。」
「あら厭だ、当たり前じゃあありませんか。それより。」美桜の母親は笑みを浮かべ、リョウの肩に手を添え、頭を上げさせる。「お兄さんがお留守の間は、ミリアちゃん、うちでお預かりしますよ。それならお兄さんも安心でしょう? 美桜も喜びますし。」
リョウは目を見開いて、それから瞬きを何度も繰り返した。
「いや、いやいやいやいや、さすがにそれは、そこまでのご迷惑は掛けられません。お気持ちだけ、有難く。」
するとリビングに美桜が飛び込んできた。
「夜に泥棒入ってきたら、どうするの? 悪い人が来たら? ミリアちゃん可哀そう!」
そう叫ぶ美桜を見、リョウは息を呑んだ。
「……何も気を遣われることないんですよ、うちの主人も海外出張でおりませんし、美桜と二人きりだから。ね、その方がミリアちゃんも美桜も安心して楽しく過ごせるでしょう?」
リョウは俯きながら頭を何度も横に振り、「……すまないです。本当に。俺が親代わりになるつもりだったのに、一つもまっとうできねえで。マジで情けねえ。」
ミリアはその隣で、ぐす、と鼻を鳴らす。
「リョウはパパよりもずっとずっと、パパなんて比べものにならないぐらい、ミリアを大切にしてくれるもの。ご飯も食べさせてくれるし、服も綺麗なの買ってくれたし、おもちゃも、鉛筆も消しゴムも。それからギターも教えてくれたし……。」
うわあ、と遂に顔を上げて泣き出した。
美桜の母親は立ち上がり、刺繡の入ったティッシュボックスを差し出し、しかしそれを手にする余裕もないとわかると、手元の手巾でミリアの目元と鼻水を拭ってやった。
リョウもミリアの肩を抱きながら、何度も礼を述べ、頭を下げた。
美桜の母親は何も気にすることはないのだから、と微笑みながら二人を見送った。
それから数日後、リョウは朝早くからトランクに着替えを詰め込み、物販用の品物を段ボールに詰め、迎えに来たバンに、ギターだのアンプだの、エフェクターを詰め込んだハードケースだのを何度も往復して運び込み、リビングを広々とさせると、不安気なミリアを抱き締め、金の入った封筒と連絡先を書いた紙を手渡すと、ツアーに旅立って行った。
リョウがアパートの階段を下りていく。ミリアはその足音を聞きながら玄関で笑顔を真顔に戻し、それから泣きべそを暫くかいて、顔を丁寧に洗ってから学校へと向かった。
階段を下りていくと、美桜がアパートの前で待っていた。「今日はおうちまで一緒に帰れるね。」と美桜は嬉しそうで、そんな美桜と話している内に寂しさは少しずつ消えていった。
学校が終わり、美桜と手をつないで美桜の家へと帰宅した。美桜の母親は二人と夕食を作り、共に食べ、風呂に入らせようとした時、リビングで鳴り出した電話を取った。みるみる笑顔になった美桜の母親がおいでおいでをし、ミリアに電話を代わる。
「今からライブだよ。」リョウは興奮気味に言った。電話で話さなくてはいけないぐらいに遠い所にいるのだ、という事実がミリアの涙腺を甚く刺激した。しかしここで泣いては、二人が落胆する。せっかくの親切が無駄になったと悲しむ。ミリアは腹にぐっと力を籠め、溢れ出ようとする涙を押し止めた。
「ちゃんとご飯は食べたか?」
「食べた。」
「何食べた?」
「アスパラと豚肉が入ったやつ。それから、えび。」
「旨そうだな! うちで食うより断然豪勢だな!」
ミリアは返答に詰まった。それから突然目の奥がじんわりと熱くなり、喉の奥がごつごつと痛んでくる。先程までは耐えられた悲しみが、何倍にもなって襲ってくる。これはもう、私を捨てるということなのだろうか、美桜ちゃんの家の子になってしまえということなのだろうか、ミリアは、遂にうう、と呻いた。
「厭だよ、リョウとがいいよ。早く、」ごくり、と生唾を飲み込む。「帰ってきてえ。」
受話器の向こうで息を呑む音が聞こえた。
「わかった。あと六日、六日したら一旦帰るから。何か欲しいものは、あるか? 何でも言え。今仙台にいるんだ。牛タンとかかまぼことか。あと明日は新潟だから笹団子でもいいぞ。その後は秋田も行くから、あそこは……米か。酒はまだ早いしなあ。」
「……何もいらない。」
「そう言うなよ。」情けない声がした。
「じゃあ、……猫ちゃん。」
「わかった!」即座にリョウの元気な声が響いた。「じゃあ猫ちゃん買ってってやるから、いい子で待ってろ。な。すぐ帰るからな!」
「……うん。」
それで初日の電話は終わった。その後もライブが終わって間もない、興奮しっぱなしのリョウや、今日はライブがないがライブの連続で疲労困憊し、一日中ホテルでゴロゴロしているという眠たげなリョウや、打ち上げで酔っぱらって何を言っているのかよくわからないリョウなどから、約束通り毎晩電話がかかってきた。
リョウは毎日、今日は何を食べたのか、何を勉強したのか、しつこいぐらいに聞いてきた。それにミリアは正直に答えた。しかし一つだけ、リョウに伝えていないことがあった。それは、日々料理の習得に力を注いでいるということだった。
美桜の母親は二人が帰ってくるなり、夕方から時間をかけて、二人の娘を相手に料理を教えつつ作った。それはミリアの希望を叶えるためという名目だったが、美桜の母親は新しい小さな生徒が物覚え良く、熱心でかつ器用なのに次第に教授熱が高まっていった。ミリアは真剣にメモを取りながら一つ一つ学び、悲願の白い焼きそばから、リョウの好きな肉料理、朝食べる簡単にできる調理パン等、様々な料理を習得した。リョウがツアーに出て三日もすると、その日々があまりにも充実しすぎて、ミリアはリョウがいなくて良かったとさえ思えるようになってきた。だから電話口ではもう泣かなくなったし、その分リョウは安心してライブに臨めるようになった。
ギターも同様だった。夕飯が済むと、ミリアは家からFlyingVを持ち込み、美桜の部屋で練習をさせてもらった。リョウから貰ったスコアを完璧に弾いたらリョウが大層驚くだろう、とそればかりを目標に就寝時間ぎりぎりまで粘って練習に励んだ。それにきっと、今日も同じ夜の下のどこかでこの同じ曲を弾いているのだ、と思えば更に練習には一層熱が入った。
そうして約束の六日が経ち、リョウは一度目の帰宅を果たした。ミリアはアパートで、美桜の母親から習った塩麹を使った鶏肉のソテーを作った。きっと、こんな凄いおかずを出したら、リョウは驚くに違いない。ミリアはメモを見ながら、鶏肉の表を焼き裏を焼き、リョウの帰宅時間に合わせて何とかメインに加え、サラダとコンソメのスープも完成させた。それらをテーブルに並べると、とてつもない幸福感が押し寄せた。
間もなく階下から聞こえる懐かしきバイクの音に、ミリアは息を呑んで立ち竦んだ。それから階段を上る音。ミリアは堪え切れずにエプロンを投げ捨て、玄関へと駆け出した。鍵を開ける音。リョウが扉を開ける。
「ただいま。」
ミリアはリョウの腰に飛び付いた。堪らず、わあという声が出た。
「いい子にしてた?」そう言ってリョウはミリアの頭を撫でる。
リョウの手元には幾つもの袋がぶら下がっていた。
「ほら、約束のお土産。」リョウはポケットから小さな包み紙をミリアの前に差し出した。「可愛いだろう。キティちゃんのご当地キーホルダーってやつだ。かまくらに入っているのと、錦鯉に乗っているのと、それから米持っているのと、目につく限り全部の猫ちゃん買ってきてやったよ。」
ミリアは目を見開いて、今度は感嘆の声を漏らした。
「可愛い! 一個、美桜ちゃんにもあげていい?」
「ああ、あげなあげな。それから美桜ちゃんのママにお世話になってるから、これ。」リョウは大きな袋をミリアに手渡した。「美桜ちゃんのママは大人だからな、日本酒。料理にも使えるだろうし、あと牛タン。地元のバンドの奴が勧めてくれたやつだから旨いぞ。俺は明日早くまた家を出ちまうから、渡しといてな。……なあ、何か旨い匂いしねえ?」
ミリアはリョウの手を引いて、リビングに入った。
「あのね、あのね、ミリアが作ったの。全部、一人で!」
リョウはテーブルの上を凝視し、「マジか!」と叫んだ。
ミリアは「これはねえ、塩麴なの。お肉が柔らかくなって、美味しいの。それから、お肉だけじゃ栄養が偏るの。まずは胃をスープで温めることも、大事なの。そのあとはサラダ。」ミリアはメモを取った言葉を次々に暗唱していった。
「何だよ、お前。この数日でこんな凄ぇの、作れるようになったの? 美桜ちゃんのママに教わったのか?」
リョウは掌で額を抑えながら、テーブルの上の料理を眩しいものでも見るように眺め下した。
「俺がライブやってる内に、どんだけお前は成長しているんだ。……食っていいか?」
「うん。」ミリアはいそいそと台所に立ちご飯をよそり、箸と一緒にリョウに手渡した。
「頂きます。……まさか帰るなりこんな凄ぇ飯が用意されてるとは思わなかったよ……。」
リョウはミリアに指示されたように、スープを飲み、サラダを食べ、それからメインの鶏肉を頬張った。そしていちいち、強ち演技とも言えない本気の形相でそれらの如何に美味であるかを讃えた。
「世の中には特別凄ぇ曲、つまりキラーチューンっていうのがあるんだけどな、これはお前、キラー飯だ。Judas Priestの『Painkiller』並みだ。歴史に残る名作だ。」
目を瞑って味わい味わい咀嚼をするリョウに、頭を寄せ、ミリアは「もっと他のも、作れる。」と恨めしいような目をして言った。
リョウは目を開けると、激しくミリアの頭を擦るように撫でた。
「凄ぇな! でも、俺のためとか言って、無理すんなよ。お前はお前の好きなことを、やればいいんだからな。」
「料理、好き。」
リョウは暫く考え込み、「……そうか。確かにお前、調理クラブだしな。まあ、将来お嫁さんになるには料理の腕は必要だしな。うん。まあ、好きならいいか。」とぶつぶつと呟いた。
ミリアはスープ用のスプーンをしゃぶったまま、口をへの字にひん曲げた。自分はお嫁さんというものになるのだろうか。リョウの元から離れて? その想像は胸を否応なしに締め付けた。リョウの元から離れたくない。一か月だけだってこんなにも苦しいというのに、何年も続くなんて、そんなのは絶対に我慢できない。しかしそれは言い出せなかった。リョウがバンドマンの身でありながら自分を育てるのに難儀をしているということは、ミリアにははっきりとわかっていたから。ミリアはスプーンを奥歯でぐっと噛み締め、言った。「美桜ちゃんのママに教わって、もっと上手になる。」
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