第2話
ミリアは毎日父の死だけを祈っていた。一日でも、半日でもよいから早く死にますように。
ミリアは小学生となった。父と共に母と暮らしたアパートを出、かつて父親の両親が住んでいたという古びた平屋が新たな家となった。
朝、小学校に行く途中に近所の神社を参拝し、学校帰りは近所の教会を参拝した。もしそれ以外にも有難そうな場所があれば、そこも欠かさず参拝しただろう。ミリアにとって父の死はそれだけ、悲願であった。しかしそれはなにも、深い恨みに裏付けされた行動ではなかった。ミリアは誰かの死を願うことが悪いことであるなぞ、全く思いもしなかったし、ただ自分に痛みを齎すその相手がいなくなってくれるために、死という概念が思い浮かんだだけのことである。それは子供に時折訪れる「素敵」な思い付きの一種であって、ミリアは確かに心躍る気持ちでそれを思い付き、実行したまでのことである。
だからミリアは今春の小学校の入学式以来、毎日、神社と教会への参拝を欠かさず行った。途中にタンポポだの、ヒメジョオンだの、ドクダミだのが咲いているのを見つけると、それを摘んで供えることもあった。
ミリアにとって往来の途中に神仏にお参りができる以外にも、学校は素晴らしい場所だった。それはひとえに、給食がお腹いっぱいに食べられるということに尽きる。ミリアは入学式に一人一つずつ与えられた、赤飯のおむすび、というものの美味しさに涙が出る程感動した。その日だけかと思いきや、翌日からも必ず給食が出た。毎日必ず昼食が出るだなんて、この世の僥倖が全て集結したかとさえ思われた。どうして今まで学校に行けなかっただろうと、悔しささえ覚えた。
ミリアは三食を決まって食べさせてもらえること自体が無かったために、体躯は周囲と比べても異様に目立って痩せており、身長も低かった。それで担任教師は幾度も父に連絡を取ったものの、かの父はそれに応じたふりをして、無視した。突然の日雇い仕事が入ったり、ミリアが実家の両親の所へ宿泊に行ったこととなったりと、徹頭徹尾巧みであった。父は優れた演技者であった。児童養護施設職員、学校の教師陣、近所の品行方正な大人たち、誰が来ても安心感を完全に与え切って撃退するのだった。
ミリアはその様にほとんど瞠目した。父の言葉を繋げ合わせるならば、ミリアは凄まじいまでの偏食で、何を出しても食べようとはせず、それに体質からか、食べさせても太ることができない。母親とも定期的に会い、度々服もプレゼントされているが、もったいないのか命じても着ずにいる。それ以前に、服は着古したものしか着ようとしない。髪の毛も美容院で切ったのを気に入らず、癇癪起こして自分で切り刻む、ということになっていた。次から次へと、脳さえ介せず口を出る嘘の数々に、ミリアは感心さえした。父の虚言はほとんど天賦の才と言ってもよいものであった。
したがって、父は外面的にはすこぶる良い父であって、父子家庭ながら娘のために努力を惜しまぬ父親よと、賛美する者さえ後を絶えなかった。しかし無論、ミリアにとってみれば、父と一つ所にいることはとてつもない苦痛を齎した。トイレを流す音がうるさいと言っては殴られ、父親の寝室に落ちていたつまみのするめを食べたのが賤しいと言っては蹴られ、父が連れて来た女に愛想よく挨拶をしなかったと言って外に追い出されるのが常であったから。
級友は当初、ミリアのボロボロになって小さく縮んだ服を見て嘲笑い、からかったが、美に重きを置き始めたその中心的人物が、ミリアの異様なまでに大きな瞳や、その陶器のようなすべらかな皮膚、絹糸の如き髪の類稀な様を思い知るにつけ、次第に羨望の思いを抱くようになったのである。その少女はミリアが給食を欲しがっていることを知ると、いつも必ずミリアに自分の給食の一品を渡した。そこでミリアが心底嬉し気な表情をするのを、少女は茫然と溜め息交じりに眺めるのであった。ミリアに何一つ残すことのなかった母が唯一残した美形の遺伝子は、ミリアを孤立と空腹から救ったのである。
ミリアは一日も休まずに学校へと通い詰めた。優れて美麗ではあるが無口で不衛生な子供だったので友達らしい友達は皆無だったが、ミリアにとって給食を得られる場というだけでそこは天国であった。
しかし、その学校もいよいよ一か月以上に及ぶ夏休みに入ることになり、ミリアは絶望してその最後の日を迎えた。明日からはどうやって生きていくのだか、見当もつかなかった。さすがに例の神仏に参拝する気概も無く、丹念にアスファルトだけを凝視して腰の曲がった老人のように帰路を歩んだ。暑い夏の盛り、滲み絵の如くなった道路の上ではみみずが何本も干からびて死んでいた。ミリアはその中の一匹の半身がまだ生乾きになっていて、ヒクヒクと蠢いている様を立ち止まってじっと見つめた。みみずはこんなにも容易く、太陽に燻されただけで死ぬのに、なぜパパは死なないだろう。ミリアの胸中には不満とも落胆ともつかぬ思いが渦を巻いた。パパはみみずみたいに日に当たらないからかしら――?
父親は昨今ろくに仕事にも行かず、いつも暗い部屋で飲酒に勤しんでいる。金も無いのに酒を飲もうとし、つまりは近所の酒屋から盗みを働き厳重注意を受けた(例の天才的虚言によって警察沙汰となるのは免れた)。ミリアはそれにこの上ない悲嘆を覚えた。肉親の盗みが情けなかったからではない。酒屋にはミリアの唯一の親友とも言える猫がいたからである。黒猫の「サンディ」と呼ばれている猫で、とても気位が高く誰にも触れさせることのない猫であったが、ミリアには唯一背や尻尾を触らせてもじっとしていた。
ミリアは街中の猫たちと懇意だった。人間との交際には何も喜びを見出せなかった分、その全ては猫たちに注がれた。酒屋の猫、公園住まいの猫、近所の老夫婦の猫、様々に。
ミリアの家の隣の、老夫婦の家にいる猫がたまたま庭で寝転んでいたりすると、ミリアはすっかり猫の瞳になって近づき、話を交わす。するとそこの老婦人が、微笑みを浮かべながら出て来る。ミリアの家が破綻し切っていること、更にそれは修繕がほぼ不可能なことを熟知しているので、そのエプロンのポケットには色々なものが常に忍ばせてあった。キャラメル、飴、おせんべい。老婦人の夫は中途半端な親切はかえって子供を苦しめるだけだと、ミリアの相手をすることは反対なので、老婦人はそうっとミリアの掌に何も言わずにそれらを握らせてやる。ミリアもそれを知っているので仰々しく礼などは言わない。すれ違うようにして片頬にだけ笑みを浮かべる。
ある日老婦人は商店街の籤引きで得た、猫の顔が象られたがまぐちをミリアにいつものようにそっと無言で手渡した。しかし当然ミリアにはそこに入れるはずのお小遣いなぞ一円もなかったし、そもそもこれは何のために使うものだか見当もつかなかったので、いつものような笑みがすぐには浮かばず少々首を傾げた。老婦人は慌てて玄関に戻ると、そこ置いておいた、新聞屋に払った釣銭の百十円をがまぐちに入れてやった。ミリアはそれに感激をして、帰るなり早速父に自慢をすると甚く頬を張られ、口の中が切れ、暫く口が利けなくなった。何がいけなかったのかは、未だにわからない。ただこれが夜にトイレに行ったり、蛇口を無駄に捻ったり、女が来ているのに話し掛けたりするぐらいの失敗だったということを、瞬時にして学んだ。
ミリアはどうにか分捕られずに済んだがまぐちを、公園の物置の脇の、三つめの煉瓦の下に隠すことにした。がまぐちの中には、百十円以外に公園で拾った青いビー玉と、いつも参拝に行く神社の賽銭入れから落っこちていた五十円玉を入れた。公園には猫が三匹住んでいて、それを知らんぷりの顔しながらも厳重に守ってくれた。猫は茶色と、三毛と、サバ白だった。ミリアが最も信頼しているのはサバ白で、愛情をこめて白ちゃん、と呼んでいる。あまり積極的に近寄って来てはくれないけれど、行動が冷静沈着でとても賢い。がまぐちが大切だということをいちばんわかっているから、誰かがやってくるとすっと背中を立てて、煉瓦の上に立ち、守ってくれる。次いで、ミリアの信頼を寄せている三毛は、愛想がないためか街中の誰からも餌を得られず、大抵腹を空かせており、ミリアはそのたびに自分の無力感に苛まれる。早く働きに出て、いつか三毛にたくさんの食べ物をあげたいとミリアは願っている。そして茶色はいつもミリアを見つけると寄って来て背中を摺り付けてくれる。おしゃべりも一番スムーズにできる。
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