第5話

 ミリアの祈りが叶ったのは、突然だった。

 夏休み二日目の朝、隣の部屋から聞こえてくる呻き声でミリアは目を覚ました。父親は一晩中飲酒に耽ると、決まって翌朝は二日酔いのために呻いていて、そんな時にはさすがにミリアが多少の音を立てても暴力は振るわなかった。ミリアは呻き声を聞きながら、今日は日差しの強い外に出なくても大丈夫、と胸を躍らせながら、台所、新聞紙の間、食卓の下を隈なく捜索した。父親が泥酔した翌日は、大抵どこぞにつまみの残りが放ってあったから。すると座布団の下に、するめの欠片があった。ミリアはすぐにそれを拾って口に入れ、しゃぶった。じんさり唾液が溢れ出して、頬っぺたが千切れそうになる。ミリアは目を閉じてその味覚に酔った。

 父親は相変わらず呻いていて起きてこない。ミリアは背伸びをしながら、するめを嚙み締めた。しかしそれ以外に食べ物がないことに気付き、ミリアは必死に自制を働かせ、ちょうど半分になったするめをポケットに捻じ込んだ。

 ミリアは部屋に戻り、夏休みの宿題になっている計算ドリルを解いた。ミリアはあまり勉強が得意でなかったので、最後のページを見ながら丸付けをするとバツばかりが付いた。それでもミリアは家で静かに過ごせることが嬉しく、うっとりと一枚一枚ドリルを捲った。

 やがてお昼になった。父親はまだ起きてこずに、相変わらず呻き声が続いている。さすがにミリアは心配になって、そうっと奥の部屋の襖を開けた。相変わらず部屋は真っ暗で、しばらく眼を慣らす必要があった。すると障子も襖も、めちゃくちゃに壊れていることがわかった。ミリアは少なからず驚いた。そしてその真ん中で父親は焦点の合わない濁り切った目をかっと見開きながら、うつ伏せに倒れていた。

 「パパ。」

 返事は無い。ごお、ごお、という呻き声が少し、大きくなった。

 「パパ。」

 返事のつもりなのか、呻き声がやはり、大きくなった。父の手足は細かく震えていた。――痙攣した、みみずだ。ミリアの脚ががくがくと震え出した。声が出ない。出さなければ、いけない。けれど出ない。ミリアは肩を激しく上下させながら息をし、その有様を見守った。

 大人を呼ばなければ……。一体誰を、どうやって? お隣のピンポンを押す? おじちゃんにまた怒られる。救急車を呼ぶ? 電話なんてない。病院に連れていく? どうやって。禁酒会の会長の家は知らないし、学校はお休みで先生はいないし、白ちゃんは自分以外の人間とはしゃべれない。

 ミリアは答えの出ない思考を暫く巡らした。その間、父親は相変わらず、ごお、ごお、という呻き声を出し震えている。どれぐらいの時間が経ったろう。遂にミリアは意を決して、自分の頭を、太ももを、勢いよく二度も三度も叩いて、玄関を裸足で飛び出し、隣家のインターホンを慌てて幾度も押した。出てきたのは既に怒りを瞳に宿した老人だった。「ごめんなさい! あの!」老人は首元で団扇を緩く動かした。ミリアは必死に言葉を選んだ。それには少々の時間がかかった。すると老人は遂に眉毛を釣り上げて、「何だ、食いもんなら、お前にやるのはねえぞ! だから施設へ行けって言ってんだろ!」と、凄んだ。ミリアは必死に目を背け、つっかえ、つっかえ言った。「パパが起きないの。ごお、ごおって言って、うっぷしているの。部屋が、めちゃめちゃなの。」そしてミリアは息を吸い上げ、「びくびくって、死んじゃうかも、しれないの。」とこの上なく残忍な言葉を、遂に、発した。ミリアはそれに自ら耐え切れず、わあと泣き出した。老人は「何だ、それ!」と頓狂な声をあげ、ミリアを押し退けると土足のままミリアの家に飛び込んだ。父親は今度は何故だか呻き声もあげず静かに横たわっていた。老人は慌てて凄まじい形相で横たわっている隣人を揺さ振り、返事がないであろうことを十も認識しながら、それでも己の人間性を保つ為、「おい、黒崎さん! 大丈夫か? 起きろ! 黒崎さん!」と幾度も幾度も怒鳴った。ミリアはその様を見、自分の責任が軽くなったのを実感して玄関先でへたり込んだ。老人はミリアを無言でどかして急いで家に帰り、ゴミ出しから帰ってきたばかりの妻を連れて来た。

 妻は父親の倒れている部屋を見るなり、慌てて家へ駆け戻った。そして玄関でへたり込んでいるミリアを抱きながら、「大丈夫よ。大丈夫。もうすぐ、救急車が来るからね。大丈夫。」と必死に呟き続けた。

間もなく救急車のサイレンが近づいてくると、二人の若者が畳に伏したままのミリアの父親の元へ駆け込んでくる。声を掛け、目や呼吸や、何やらを色々検分し、急いで救急車に搬入した。救急隊員に何かを告げられた老婦人がミリアの腕を引き、共に救急車に乗った。

 車内で父親は呼吸器を付けられ、若者の渾身の力でもって幾度も心臓を押されていた。ミリアはわなわなと手を震わせながら、でも、それが己に課された使命であるとばかりに目を見開いて、その様を凝視した。自分の祈りがこうして現実化したのだと、喜びでは無く絶望、驕りでは無く悲嘆に襲われ、その酬いを受ける必要があると、津波の如き罪悪感に襲われた。

 救急車はけたたましきサイレン鳴らしながら車を掻き分け、掻き分け、突き進んだ。ミリアは耳を塞いだ。堪らなかった。何だろうこの神経を逆撫でする音は。「人殺し。人殺し。」と地獄から鳴り響くこの音は。

 ミリアは老婦の乾いた掌で髪の毛をぐしゃぐしゃにされながら、永遠に続くかにさえ思えるこの現実に耐えた。

 やがて隣町の総合病院に着くと、父親に続いてミリアは老婦人に手を引かれたまま何重もの扉を進み、父親が治療を受ける部屋へと入った。そこには父親と、他にも何人かの患者がどれもこれも人形のように意識も無く寝ていて、その周りを白衣の人々がただただ慌ただしく動き回っていた。

 父親は呼吸器を付けられ、色褪せて茶色い染みを付けた水色のポロシャツを着たまま、濁った白目を剥いて、ここではない世界を覗いていた。明るい所で見る父親の姿は、明らかに昨日までの父親ではなかった。完全に、別の存在であった。人でさえなかった。この異質さこそが死なのだとミリアはそう気付いた途端、茫然と立ち尽くした。

 まさか、祈りが叶ってしまうのか。ミリアはその現実に打ち震えた。毎日朝夕と足繁く神社、教会に通ったのは、自分。叶ってしまう、とは無責任。叶えた、だ。否、こんな取得もない娘の祈りを叶える程神仏も暇ではあるまい。ミリアの胸中には自己を責める思いと弁護する思いとが絶え間なく交錯し続け、息苦しくて堪らなかった。その内くらくらと足が震え出し、ミリアはその場にへたり込んだ。慌てて看護師と老婦人がミリアを連れて集中治療室の外にあるベンチに座らせた。

 「ミリアちゃん、ご飯はまだよね?」

 老婦人はミリアの目線に屈み込み、言った。ミリアは肯く。

 「ちょっと、待ってて、下の売店で何か買ってくるから。」老婦人はそう言って軽く頭を撫で、歩いて行く。

 ミリアは目を瞑った。そこには濁った汚い白目をした父親の顔が浮かんでくる。「人殺し。人殺し。」どこからかそんな自分を責め立てる声までもが聞こえてくる。――だって、いつも体中痛かった。毎日ご飯が食べたかった。優しくしてほしかった。ミリアは小声で弁解を始める。

 「ミリアちゃん。」そう呼ばれ、はっとなって顔を上げると、「これ、食べなさい。食べないと、体がもたないから。パパは大丈夫だから。」と老婦人が幾分疲れた微笑みを浮かべながら、おにぎり二つとお茶を差し出した。それをミリアが躊躇したのは、決して遠慮からではなかった。今日はするめを齧ったし、もったいないから、明日の分に取って置きたかった、そう思ったまでのことである。でもそんなことは言えなかったので、ミリアは一粒一粒大切に味わい切るようにして、昆布のおにぎりと、満ち苦しくて仕方がなかったが、たらこのおにぎりも、食べ切った。

 おにぎりを食べ終えると、何もすることはなくなった。時折機械音とパタパタと忙しなく看護師だか医師だから駆ける音がする以外には静まり返った集中治療室の前で、老婦人はしっかとミリアの肩を抱きながら、小さく南無妙法蓮華経を唱えていた。ミリアはそれを聴きながら、うとうとと眠気を催す。

 さっと、水彩の絵筆でなぞったような夢が幾つも浮かんで、その度に儚く消えた。

 それは夕方の自室で、赤く染まった中、ミリアは落ち込んでいる。父親が死んでしまったから。しかし一方で、仕方がないなと既に諦めている。妙に疲れている。それから猫たちがこぞって「パパが死んで良かったねえ。良かったねえ。」と喋っている。ミリアは三匹の猫に囲まれながら、足元に転がっている干からびたみみずを見つける。「パパとおんなじだわねえ。」

 「危ない状況です。中にお入り下さい。」という声が頭上から凛と響いた。夢うつつのミリアには、それがまた別の父の死というテーマによって連携された夢の一つだ、というように認識された。そして危ない、とは何が危ないのだろうと思った。やっぱり、パパの命が危ないのかしら、他に危ないことは無いかしら。ミリアは頭を巡らす。

 だから、その瞬間がいつだったのかは、わからない。ただ再び、ミリアは老婦人に手を引かれ、父の寝台脇へと誘われた。既に何度も見た白目を剥いた父の姿。繰り返しは夢の特徴だった。ミリアは呼吸器を付けた父をじっと見下ろす。何も変わらない。息もない。ただ、隣に据えられた線だけの画面と数値が次第に降下していく。ミリアはこれが何を意味しているのかはわからなかったが、そこから発せられる不穏な空気だけは否応なしに感じ取っていた。――また、死ぬのだ。パパは何度も死に続けている。

 やがて、線は消え、機械にでかでかと映し出される数値は30、20、10と、最終的に0を指す。これ以上減らないな、どうするのかな、とミリアは思った。すると医師がやって来て、ベッドの隣に設置された機械を見、父親の目をこじ開け、時計を見て時間を告げ、「お亡くなりになりました」と言った。看護師によって、呼吸器と、血液の入った袋、尿の入った袋が次々に手早く外された。

 婦人は何も言わずにハンケチを固く握り締め、顔に押し付けながら啜り泣いていた。ミリアは今までのように次の夢が始まらないことを不審に思った。だから次第にこれが現実だと認識され始めてきた。その時に襲って来たのは、紛れもない恐怖だった。

 「ミリアが……。」ミリアは堪らず老婦人に抱き付いた。「かみさまに祈ったから。食べ物探してたから。」

 「ミリアちゃんのせいじゃないの。ミリアちゃんのせいじゃ。」

 そう、言われたかったから、言わせたまでのこと。ミリアはますます自分の厭らしさを目の当たりにさせられ、叫ぶようにして泣き出し崩れ落ちた。看護師が椅子を持って来て、ミリアを座らせる。

 老婦人はミリアを抱き締めたまま、「パパはお酒をずっと止められなかったし、だからお病気がずっと治らなかったの。ミリアちゃんのせいじゃないの。」と何度も何度も繰り返した。ミリアはそれに吐き気を覚えた。なぜだかそう、前もって考えていたのではないかという疑念が想起されたのである。

 しかし人のことを責められたものではない。父の死のためだけに、小学校入学から毎日のように神社と教会に通って祈り続けたこと。呻き声がしていたのに、つまみを探していたこと。もし朝方すぐに隣人を連れてくれば、死ななかったかもしれない。父の人生はもっと長く続いたかもしれない。けれどそれを言葉にするだけの力は残されていなかった。それはあまりにも残酷なことだったから。ミリアはそれに耐え得るべき精神力を持ち合わせてはいなかった。

 ミリアはその夜、父親を病院に置いたまま、隣家の夫婦の家へと帰った。婦人はミリアに着替えを持って来させると、家の風呂に入れ、「簡単な」(と言ったけれど、ミリアにとってみればマグロの切り身にとろろを垂らしたご飯は素晴らしいご馳走だった)ご飯を出してくれた。しかし普段だったら、こんな僥倖があったら、泣きながら嬉しがるところだったけれど、ミリアの心は小波一つ生じぬ森の奥の泉の如く、微動だにしなかった。そのくせ、気付くと涙がいつまでも、いつまでも、止まらなかった。人生で最大の幸せを運んでくれるはずのご飯さえ食べられなかった。何も思うところはないのに、涙ばかりが延々と頬を伝い落ちるのは不思議だった。やがてミリアは客用の布団を敷かれ、老婦人の隣で眠りに就いた。

 闇の中に父が浮かぶ。鬼の形相で迫る父は、何故自分を殺したのかと恨みを訴えていた。ミリアは知らない、知らない、と逃げ続けた。知らない。知らない。父の声はやがて、銅鑼の音にすり替わり耳元で鳴り響く。ミリアは耳を塞いで、のたうち回った。婦人が何やら大声を出しながら、ミリアを抱き締め、押さえつけた。

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