第30話
年末を迎える頃合となった。リョウも例に違わで長髪を一つに縛り上げ、そこに幾分色あせたNAPALM DEATHのタオルを冠り、朝から大掃除に勤しむこととなった。
都合よく、シュンが自分のオリジナルピックの発注のため隣の県にある工場まで遠出をするというので、ミリアも一緒に連れて行ってもらうこととなり、今日は一人である。リョウのピックは黒地に白抜きでバンド名と「RYO」の名が刻まれたそれで、ティアドロップ型0.8mのウルテム素材と決めている。それを一切変えずに五年以上やっているために、手元には常に大量のオリジナルピックがあり、当分ライブでどれだけ撒いても配っても十分に過ぎる程あった。しかしシュンはピック放浪癖が激しく、始終素材や厚みを代えたがるので、頻繁にピック工場を訪問をし馴染客となっているのである。
昨夜シュンが新曲のデータと貸していたエフェクターを受け取るのに自宅へやって来た際、延々と次のオリジナルピックの講釈を垂れた挙句(これで放浪が終わる、これが最高のピックだと既に何度聞いたかわからないお決まりの台詞も無論吐いた)、「ミリアもさ、リョウのじゃなくって自分のピック作ったらいいじゃん。猫の絵でも入れてさ。」と提案したのであった。
その提言にミリアははっと顔色を変え、猫ちゃん、何匹まで入れられる? 水色は、できる? とやたらシュンにまとわりつき始めた。猫は、そうだなあ、五匹までかな。あんましちっちぇえと、何書いてあんのかわかんなくなっちまうかんな。それからな、水色と言ってもな、色々あんだよ。そのランドセルみてえな色もあるぞ。だからお前の一番好きな水色を選べばいい。とシュンは煽って、じゃあ明日、ちっと遠いから九時に車で迎えに来るよ、大丈夫だ、いつも使ってる会社だから安くやって貰えるから、と勝手に取り決めて帰って行った。
ミリアは「リョウも一緒に行かないの?」、「どうしても、行かない?」と軽く十編は聞いたが、「俺はな、大掃除をするんだ。大掃除をしないと、年が明けないからな。年が明けなけりゃ、お前も一生小学生のままだ。」と酷く残忍なことを言いミリアを黙らせ、そのままシュンに託すこととした。
シュンはちょうどミリアと同じぐらいの姪っ子がいるとかで、デスメタルバンドのベーシストの癖にやたら子供の嬉しがるツボを知っていた。リョウの家に来る際にも、つい最近まではビールだのつまみを手土産に持ってきたものだが、今やキティちゃんグッズ一択である。ミリアはそのたびに大喜びし、キティちゃんのシール、キティちゃんの人形、キティちゃんの小物入れを部屋に飾り立てるため、日本のデスメタルシーンを牽引するバンドのフロントマンの部屋は、次第にファンシーな様相となりつつあった。
リョウはパソコンの脇に飾られたキティちゃんのキラキラシールをつまみ上げ、溜め息を吐いた。
ともかく――、とリョウはミリアのいないこのタイミングで大掃除をあらかた済ませてしまおうと決意を固め、改めて部屋を眼光鋭く眺め、さて、どこから手を付けたものだろうかと腕組みして考え始めた。
無論決して広い部屋ではない。六畳の寝室は煎餅布団を中心に、それを取り囲むようにして、つい先月まではバンドの物販で売るグッズが所狭しと置かれていたが、それも随分売れ、今やTシャツにタオルが数枚、リストバンドが数個あるきりで、それらはタンスに押し込むことができたので、物は布団とタンス以外ほとんど、ない。
問題はリビングの方で、多数のギター、アンプは日頃から不要なぐらいに磨き上げているからとりたてて掃除の必要なはないものの、レッスンで用いる楽譜やら曲のコード表やら確定申告書の準備やら、とかくわけのわからぬ紙が多いのである。それ用の棚を作ってはいるものの常に色々何かははみ出す始末で、クリスマス前頃よりは、ミリアが封筒と一筆箋探しに尽力したせいでそれが更に秩序の無い状態になっている。その隣にはミリアの教科書だのが入った棚があるのだが、血の成せる業かミリアも片付けは得意でないらしく、学校からプリント類が無造作に突っ込まれていた。
リョウは意を決してそこから取り掛かることとした。すると出て来る、出て来る。見てもいなかった三学期の予定表に、冬休みの生活における注意が書かれたお便り、それから冬休みの予定表には、ミリアはなぜだか一つ文字を書き込まず、猫の絵ばかり描いていた。呆れ返りながら次々にプリントを整理していく手が、突如、止まった。
「クラブ費納入のお願い」
そう書かれたプリントには、半年も前の納入期限日が記入してある。「はあ?」と思わずリョウの口からは怒りとも呆れともつかぬ声が出た。ミリアが単純に忘れていたのか、遠慮して出せなかったのかは知れないが、小麦粉、卵、砂糖、トッピング用アーモンド、抹茶の粉末等々で、年間の材料費合計金額1590円とある。大した金額ではなかったが、これさえも払えぬと思われるのはリョウにとって極めて心外だった。あそこは親がいないから、保護者代理が赤髪長髪の犯罪者風情だから――、自ずと沸き起こる想像に「クソったれ。」と呟いた。
リョウは壁に掛けられたカレンダーを見ながら、とりあえず誰もいないであろうが、万が一にも誰かいたら、と一縷の希望をかけ小学校に電話を掛けた。するとすぐに、電話は取られた。更に僥倖は続くものである。職員室で電話を取ったその人はミリアの担任の教師であった。担任は、本日はたまたま日直当番に当たる日でひがな一日学校にいるのだと言った。クラブ費未納の旨を伝え、すぐにでも払いに行きたいのですが、と告げると、夕方まではいますのでいつでもどうぞ、との返事だった。
リョウは大掃除は午後に延期と、タオルを外し、校長には既にバレているし、ほとんど教師陣もいないということで、最早構うものかと赤髪はスプレーで染めずそのままに、いつもの黒のライダースジャケットにくたびれたジーンズを履き、ミリアが先日発掘した茶封筒の袋から一枚取って1590円をぴったり入れ、胸の裏ポケットに捻じ込むと、すぐさまバイクで出発した。
静まり返った小学校校舎に入るのは少々妙な気分だったが、長い廊下を歩き、事務室、校長室、応接室を過ぎ、職員室を見つけると、昔を思い出してリョウは「失礼しまーす。」と元気よく職員室に入った。そこには柔和な笑みを浮かべた、ふくよかな中年女性の担任がいて、ミリアが「優しいの」、と評したままの姿を体現していた。教師は何やら労働作業に勤しんでいたのか、少々古色を帯びたアディダスのオレンジ色のジャージを着ていた。
「年末のお忙しい中、わざわざすみませんねえ。新学期にミリアさんに預けて頂いてもよろしかったですのに。」と笑みを浮かべる様子に、少しも赤髪長髪に動じないのはさすがだとリョウは内心感服した。リョウは居住まいを糺し、日頃の礼を述べ、謝罪しながら茶封筒を渡すと、教師は両手でもって丁重に受け取り、職員室の隅のソファに腰を掛けるよう告げた。そして砂糖をまぶした煎餅に、湯気の昇り立つお茶を出してくれた。
「お兄さん、せっかくですから、少し、お話よろしいでしょうか。ミリアさんのことで。」そう、幾分緊張気味の面立ちで話し掛けた担任は、こんなことを言った。
それは一つにはミリアの言語能力が極めて低い、ということであった。確かにミリアが何かを言う時、大抵二語か三語で終わってしまうのはリョウも無論気付いていた。同世代の子供言語能力を知らないリョウは、それを特に問題視はしていなかったが、ベテラン教師はそうでなかったらしい。どうにかミリアに年齢相応の言語力を身に付けさせようと、放課後教室に残して絵本を読み聞かせたり、文字の書き取りをさせたりと苦心する中、次第に漢字の勉強なんぞを頑張るようになり、先日はテストで点数が八割近くも取れたということを、甚く褒めちぎった。それにギターが弾けるものだから音楽の授業にも大活躍で、先日は学校のアコースティックギターを使って伴奏を弾いてくれたのだと言った。
「芸術の才能があるんですよ。」担任は肯き肯き、熱心にそう訴えた。「そうそう、音楽ばかりじゃありませんよ。」と教師は立ち上がり、何やら自分の机の引き出しを漁りながら、大きな画用紙の束を持ち出し、そこから一枚の絵を引っ張り出した。教師はリョウの前のテーブルにその絵を広げる。
リョウの唇が小さく震え出した。
「これは、先日の図工の時間に、『家族の絵』という題で、みんなに描いてもらった絵なんですよ。これは、ミリアさんの絵で……。」
そこには真ん中に腰までの赤い髪した人間がでかでかと、その隣に小さくフリルのスカートらしきを履いた少女が添えられ、しっかと手を繋ぎ合っている。そしてその周囲を多数の猫が取り囲むという、遠近法も何もかもを無視した、一種不可思議な構図の絵だった。猫は茶色、サバ白、黒、それから白猫が四匹。
「あー。」リョウはその白猫四匹に確実に思い当たる節があり、俯きながら肯いた。
「これ、お兄さん。こんなに、一番大きく描いて……。ミリアさんの心の中心にも、お兄さんが一番大きくいらっしゃるんです。子供の絵というのは、如実なまでの心の反映ですから。」
リョウはこれ以上その絵を見続けることも、その話をされることにも耐えられなくなり、「ミリアは、学校では、どうですかね。」と無理矢理話題を反らした。
そして矢継ぎ早に、リョウは先程発見した「冬休みの予定表」に一つも字を書かず、猫ばかり書いてあるのを思い出し、矢継ぎ早に言葉を継いだ。「ああそうだ、あいつ、冬休みの予定に猫しか書いてねえで、すみません。不真面目なのは血です。」そんなことまで付け加えて。
「確かに、あまりお勉強には集中できないみたいですけれど、」と、ベテラン教師は急に身を乗り出して、でもギターを弾く時には、信じ難いような集中力と表現力とを発揮しているじゃあありませんか、と熱く語った。昨年の芸術祭で、いかにミリアが一音一音に集中し、音楽に乗せて素晴らしい笑みを浮かべ、また或いは悲しみの表情を浮かべ、曲を演奏しきったか、教師は目の前でミリアが弾いているが如く熱っぽく語った。とても印象的で、忘れられません、と。
それは、知っている。そしてギターに関してだけ類稀なる集中力を発揮することも、おそらく、世界中の誰よりも、知っている。そう思いつつリョウは肯いた。教師は更に続ける。ミリアさんは言語能力が低いので、正直、心情表現も得意ではありません。お友達や私に挨拶をするのでも、ためらっている様子が度々見られます。でもギターを弾く時だけは――、教師はその姿を思い出したのか、ふっくらとした頬に靨を出して微笑んだ。まるで、堂々たる、一流の演奏家のような自己表現をしてみせるのです、と。
「校長から、お話は伺っております。ミリアさんはお父様にあまり、その、可愛がられず……。」
リョウははっとなって言った。「そんなレベルじゃないです。飯も食わしてもらえないから、体もあんなに小さくて細いですし、心には生涯消えねえ傷跡もある……。うちに来た時なんて……。」さすがにリョウはそれ以上言葉にしていいものかと躊躇したが、この教師がミリアの成長を心から応援してくれていることを言葉の端々から感じていたので、意を決し、「夜中、歩き出したんですよ。意識もねえのに。」と呟くように言った。
教師は息を呑んだ。「それは、夢遊病、ということでしょうか?」
「否、詳しくは知らねえですけど、焦点合わねえ目で部屋をうろうろ、うろうろ……。最初見た時には、こっちがマジでビビって……。今は随分喋るようになったし、逆に笑ったり泣いたり忙しいぐれえだけど、最初はずっとギターしか弾かねえで、なんつうか、人形みてえな……ちっと、正直無気味なぐらいだったんです。親父との二人暮らしで、全然喋りかけてもらえることなんて、なかったんじゃないかな。だから、先生が読んで下さる絵本なんて、存在すら知らなかったと思いますよ。あいつ、マジで何も知らねえんだ。テレビも映画も見たことねえ、って言ってたし。幼稚園も保育園も、行ってねえからしょうがねえのかもしれねえけど。親父はあいつをぶん殴るだけぶん殴って、ボロボロにして、だから、あいつは……。」リョウは自身を落ち着かせようと、深々と息を吸った。「言葉を知らないんだ。」
沈黙が訪れた。
やがて、それを破ったのは教師の方だった。
「でも、普通のお子さんが言葉で世界と繋がるところ、ミリアさんはギターで自分と世界とを繋いでいるんです。ギターがなかったら……」教師は悲しい微笑みを浮かべた。「この世界で、本当に一人ぼっちになってしまっていたかもしれません。ぜひ、ギターを弾かせてあげてくださいな。ミリアさん、言っていましたよ。お兄さんの奏でるギターが世界で一番素晴らしいんだって。お兄さんと弾いていると、辛い経験も乗り越えて強くなれるんですって。」
お茶を飲み干して帰途に着くと、ふとリョウはふと思い立って駅前の北欧雑貨店へと立ち寄った。相変わらず洒落た雑貨と客と店員とがそれぞれひしめき合っている。リョウはいつもの如く幾つもの不審げな視線を浴びながら一番奥の家具のコーナーへと赴いた。
リョウは眼光鋭くタンス、ソファ、キャビネット、カーテン、を次々に睨んでいく。。
そこに、先だって、ミリアにバラのペンをプレゼントしてくれた女の店員が歩み寄ってきた。
「先日は、どうもありがとうございました。本日は何か、ご入用でしょうか?」
リョウはぱっと笑顔を浮かべると、「ああ、この間のお姉さん、どうも。あのさ、ベッド買いに来たんだけど。……女の子が好きそうな、可愛いの、あります?」
店員は笑顔で肯くと、「あのお嬢さんのベッドですね。」と言い、迷いない足取りで真っ白な天蓋付きのベッドの前にリョウを誘った。
「こちらなんか、いかがですか。とても女の子に人気がある人気商品となっております。」
リョウは唖然として、レースで四方を囲まれた、凄まじいまでの非日常を体現したベッドを眺めた。こんなものが自分の部屋に来たら、一体どうなってしまうのか。しかし――、リョウはミリアの家族の絵を思い返す。サンタに書いた手紙を思い返す。プレゼントを掲げてサンタを探すミリアの姿を思い返す。リョウの胸中にミリアの笑顔が弾けるように幾つも浮かんだ。
「じゃあ、これだ。俺はこれに決めたぞ。速攻自宅に運んで。いつ運んでくれます?」
「そうですね……。」店員は慌てて腰から手帳を取り出し、ぺらぺらと捲った。「あ、明日の午後。ここでしたらキャンセルが入ってしまったので、急遽入れられますよ。」
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